ユグドラシル ep.1 知の都 (2)
(2)

 その朝、私の耳はかすかな音をとらえた。
 ぱきり、ぱきり、と。氷樹ひょうじゅ に覆われた地面を踏みしめたときに鳴る音が、塔の上までもわずかに聞こえてきたのだ。
 窓辺に駆け寄りそっとうかがえば、果たしてそこに、塔を見上げる人影をひとつ見つける。私の身体に心臓があったなら、きっと大きな鼓動を打ったことだろう。
 無慈悲な寒さから身を守るように、分厚い外套のフードを頭からすっぽりとかぶっていて、顔だちも判然としない。おそらくは男の人だろうと思った。
 その人は、止まったままの機械時計をひととき見上げていたかと思うと、ふいに踵を返した。
 その様を呆けたように見つめていた私は――そこではたと我に返った。去ってしまう。とても久しぶりに見つけた、私以外の誰か、が。
 転びそうな勢いで部屋を飛び出し、螺旋階段を駆け降りた。
 走りながら、ああ、と思う。なぜあのとき、声をかけるという行為に及ばなかったのか。「待って」と。そう叫べばよかったのだ。
 そんなことさえも思い至らないくらいに、自分以外の存在をを見つけたことが、ひどく久しぶりだった。
 階段を二階まで降りきり、出入り口にしている窓を開け放つ。そこからはもう、氷樹の枝を伝う間も惜しかった。
 息切れを知らない私の身体は、とん、と軽い足取りで石畳の地面へと降り立った。
 声をかけるより先にその音が、彼の耳へと届いてくれたようだった。
 はたと振り向いたその人と、数歩の距離で視線が交わる。
「きみ、は」
 かすれた声が空気を震わせる。男の人の毛織りのフードと栗色の髪の奥に覗く青い瞳は、驚きと、ほんの少しの期待の混じったような光を宿し、まっすぐに私をとらえていた。
 空を映したような、鮮やかな青。
 かつてこの街に暮らしていた人々は皆、夕暮れ時のような鮮やかな橙色の瞳をしていた。この人はうんと遠い土地から来たのかもしれないと、私の中に刻まれた知識がささやいた。
「……リル」
 弾かれたように名を答える。
 リル、と小さく反芻したその人は、それから、何かに気づいたようにわずかに瞠目した。
 青い瞳が幾度か瞬き、ふたたび焦点を結んだそのとき、瞳の奥がふっと陰るのを私は見た。それが意味することはまだ、わからなかった。
「聞いたことがある。かつて知の都で生み出された、人の心を宿した人形。君がそうなんだね」
 私の持つ、夕暮れ色の二つの瞳。それは決して水を湛えることのない、硬質なガラス玉だ。この人はきっと今、初めてそのことに気づいたのだろう。
 浅い首肯を返すと、彼は張り詰めていた糸を緩めるように、ふっと白い息を吐いた。
「そう、か。じゃあ――寂しかったね、ずっと」
 思いがけず、それは優しい声だった。
 私が何者であるかという確認。それで済むやり取りだと思ったのに、この人は今、私の境遇に寄り添い、ひとりきりで抱いてきたこの得体の知れない空虚を掬い取ろうとしている。
「……さみ、しい」
 彼の落とした言葉をなぞってみる。寂しいという感情が人にはあること、それが、人のように作られた私にも宿るであろうことは、理解していた。けれど、ああ、これがそうなんだと、その時初めて、私の中で形を結んだ。
 胸の奥に鈍く疼く、痛みにも似たこの感覚の名。
 誰もいなくなってしまったこの街で、そう、私は、ずっと。
「さみしかった」
 口に出してみれば、やはりそれは、あるべき場所にすっと収まっていく。
 そうして明瞭になった視界で、私は、胸の奥に生まれたもうひとつの想いを認識した。
「でも、今、あなたに会えたことは嬉しい」
 それを思うままに告げると、彼は驚いたようにわずかに目を開き、それから柔らかに笑んだ。
「俺も同じだよ、リル。ここまで来て、君に会えてよかった」
 降り積もる言葉のひとつひとつが、熱を灯す。抜け殻になった街でひとり過ごした長い時間は、今、このときのためにあったのかもしれないと思うほどに。
 それは、ひとりきりじゃないという温かさだけではない、もっと別の、強く湧き起こる感情。
「俺はヒース。氷の樹海を越えてきた」
 外套のフードをふわりと取り払い、彼は名乗った。あらわになった栗色の髪の、細く編まれた一房に揺れる、空色のガラス玉が目を引いた。
 氷の樹海。それはかつての海であり、氷樹現象の始まりの場所だ。つまりヒースは、異なる大陸からこの街へやってきたのだ。
「どうして、こんなに遠くへ?」
「ユグドラシルの伝承、リルは知ってる?」
 見上げれば、ぼんやりと霞みがかった空の青の奥、うっすらと浮かんで見える蒼碧の大樹――世界樹ユグドラシル
 抜け殻になったこの街で、幾度となく見上げてきた風景だ。
「前に聞いたことがあるよ。願いをかなえる世界樹って」
 そう、とヒースは頷いて、同じように空を仰ぐ。
「俺の暮らしてた街もここと同じようになって、もう誰も住んでいないんだ。……あの氷樹を止めるには、それくらいしかないのかもしれない」
「ヒースは、世界樹を探しに行くの? 氷樹がこれ以上広がらないようにって、願うために」
「そう、だね。本当に叶ったらいいと思う。それに、見てみたいんだ。何処へいたって空に浮かんでいる、なのに決して届かないあの世界樹が、どんな姿をしているのか」
 はるか遠くの大樹、そして、それを見据える人の強い光を宿した瞳を、私は見つめた。それは、凍りついたこの世界でたったひとつ、眩しいほどの熱を放って見えた。
 なぜだろう。今、その強さに惹かれてやまない。
「私……知ってるよ。世界樹にいちばん近い場所」
 だから言葉が、思考を追い越して口をついて出た。自分でもとらえきれない衝動めいた想いに、私は突き動かされていた。
 澄んだ空色の瞳が、私をとらえる。
 ああ。この人のために何かを、何かできることを、今、少しでも与えたくてたまらない。
 ――その感情につけるべき名を、私はまだ知らなかった。
「フローレの丘へ上ると、とても近くに見えるの。昔、私を作った人に連れて行ってもらったことがあるから。……でも」
 古い記憶をたどっていくうち、けれど、はたと思い出してしまった。
 衝動のままに紡いだ情報の羅列は、決して彼の望む答えを導きはしないのだと。
「リル?」
 訝るように続きを促され、私は沈んだ気持ちで口を開いた。
「その時見えた世界樹の根はね、この大地に繋がっていなかった。だから多分、丘へ上ったとしても、辿りつけはしない、けど」
「いいよ、それでも」
 尻すぼみになっていく私の言葉を、ヒースは優しく拾い上げた。
「行ってみたら、何か変わるかもしれない。それに、ここへ来る途中行きあった人に聞いた。樹海うみ から遠い、高い土地にはまだ、氷樹の影響が及んでいない場所があるって。だからもしかしたら、その丘の上も」
 言いながら、ヒースは分厚い手袋の片方を外した。

「リル、一緒に行こう。俺をその丘まで連れて行ってくれる?」

 むき出しになった掌が、ゆっくりと私へ向かって差し出されるのを。
 かけられたその言葉を。
 そのとき私は、これ以上ない幸福だと思った。
 けれど、そこに手を伸ばそうとしたとき、ふっと脳裏をよぎったのは、邂逅はじまりの風景。あのとき、彼の瞳の奥によぎったかすかな影。それがどういう感情であったのかを、今、理解した。
 ヒースは少なからず失望したのだと思う。凍てついた木々のなかに漸く見つけた、人間の形をした存在が、左胸に脈打つ心臓を宿さぬことに気づいてしまって。
 今、温もりも柔らかさも持たないこの指先が、熱を宿したその掌に触れたならば、きっとまた、あのときと同じ感情が彼の胸に去来するのだろう。それを目の当たりにするのが、私はひどく怖かった。
 けれど、そうして伸ばしかけた手を中空を彷徨わせた私に、ヒースは柔らかに相好を崩す。
「大丈夫だよ」
 そうして、屈託なくそんなことを言う。
 私が恐れたものの正体を、彼が知るはずもない。ただ外へ出ることを恐れる、いとけない子どものように、その眼には映ったのかもしれない。
 細く長い指が、小さな私の手をとらえ、そっと包み込む。
 触れた瞬間の衝撃に、思わず息をのんでいた。
 ……熱い、熱い、あつい。
 掌から体中へ乱暴に充たすようなその熱は、同じだけの空虚を片隅に生んだ。

 ――ああ。私とこの人は、こんなにも違うのだと。