憧憬の街

 故郷の父から突然、あたしが身を置く大学の研究室に電話がかかってきた。
 生まれ育った小さな村を離れ、このラトポリカに来てもうすぐ八年。ひと月とおかず手紙は交わすし、何度かは帰省して顔も見せていたけれど。わざわざ村に一つしかないはずの電話を使ってまで連絡してきたのは、まったく初めてのことだった。
 一体何事かあったのかと、慌てて電話口に立ったあたしに、父が告げたのは。

「なんかわし、たいぷぶるうっちゅうやつに罹ったかもしれん」


――っていう電話だったんですけど、どう考えてもあれは嘘です」

 大学の建物と建物をつなぐ渡り廊下の途中にルフ博士の姿を見つけたあたしは、小走りに駆け寄ると、挨拶もそこそこにその出来事を打ち明けた。
 足早に何処かへと向かう途中だったらしい博士は、歩みを止めることなくちらりと一瞥をよこす。
 それを一応の相槌と受け取ったあたしは、その背中を追いかけながら話を続けた。

「父にしたら一世一代の大芝居だったんでしょうけどね。けほけほ、ごほごほってなんかもう文字を読むみたいな咳するんですもん。それで母に代わってもらって聞いたんです。お父さんの目、今どんな色しとるの? って。そしたら母は、変なこと聞くねぇ、あんたによう似た真っ黒でしょうって。タイプ・ブルーのタの字も知らないと思いますよ、うち、の、両親はっ」

 話しながら息が切れるのは、早口にまくし立てたからだけではない。博士はいつだって歩くのが早いのだ。それこそもう、一分一秒だって惜しいのだとばかりに。

「そもそも、あたしの故郷って山の上なんです。この間の博士の試算に基づけば、氷樹なんて向こう10年は平気です。嘘っぱちですよ。ただあたしに帰ってきてほしいだけの」

 聞いているのかいないのか、相槌の一つもなくすたすたと歩いていくその背中を、あたしにできる限りの大股で追いかける。
 長身を包むくたびれた白衣。薄赤く色の抜けた髪を一つに束ねる茜色のリボンは、少しいびつな蝶結び。きっと今日はリルちゃんが結んだのだろう。博士が自分でやると、そもそも蝶結びの体をなさない。
 しゃべりながら、そんなことをぽやぽやと考えていたら――ふいに、視界が白衣で埋まった。

「わっ」

 突然博士が足を止めたので、あたしは盛大にたたらを踏むはめになる。

「なんですか、もう」
――それで、君は一体どうしたいんだ?」

 あたしの抗議をきれいに流して、博士は振り向くなりそう問うてきた。

「へ?」
「君の話を整理するに、だ。肝要なのは君の父親の話の真偽より、君が帰りたいのかそうじゃないのか、そこに尽きるだろう」
「……ていうか、ちゃんと話聞いてたんですねぇ博士」

 しみじみ呟くと、黄昏色の瞳が呆れたように据わる。

「私が一人言かそうじゃないかの区別もつかない愚鈍な人間だとでも思ってるのかね、君は」
「いーえ博士の頭の回転がバカみたいに速いのは嫌ってほどわかってます」

 むしろ速すぎて、あたしの他愛もない話はしょっちゅう置き去りにされる。そうかと思えばこんなふうにさりげなく耳に入れていたりするわけで、本当にこの人の頭の中は読めない。
 このままだとうっかり脱線しかねないので、あたしはゆっくりと歩き出しつつ話を元に戻した。

「帰りたくないわけじゃないんですよ。だって自分の家で、故郷ですもん」
「ああ、普通はそうだろう」

 その言い方に、ああそうか、と思い出す。博士は家出同然に奨学金をもぎ取ってラトポリカの大学に潜り込んだ人だった。今となっては年に一通程度の手紙をやり取りするくらいには落ち着いたらしいけれど、この人は一度として故郷の地を踏んでいないのだった。
 どうしたわけか博士は、のろたらと歩くあたしと同じ歩調で肩を並べてくれている。それはなんだか、ひどく新鮮な感覚だった。
 この人が自分の歩みを緩めるのは、あたしが知る限り、小さなリルちゃんの手を引くときくらいだ。作り物でありながらも日々豊かに成長していく小さな心に、神経を研ぎ澄ませ、全身で向き合っているそのときだけ。
 ――それなら今は、あたしにちゃんと向き合ってくれているのだろうか。そう思うと、少し胸の奥が熱くなった。

「だけどやり残したこと、いっぱいあるんです。リルちゃん文字も書けるようになりましたし、次は交換日記みたいなのどうかなって考えてたんですよ。ていうか博士が設定したRiL-23の成長フェーズ、細かすぎてあれあたしくらいしか理解してないですから。もはやプロトタイプの開発に携わった人間もあたししか残ってませんし。あと個人的には着せてあげたいお洋服もたくさんありますし」
「時間はかかるが、少しずつ他の者に引き継いでいくしかないだろう。幸い、リルもほとんど人見知りをしなくなったからな。……あー、最後に挙げたその経費の無駄遣いは殊更に引き継がなくていい、というか引き継ぐんじゃない」
「無駄遣いじゃなくて立派な情操教育ですー。っていうか、ちょっとひどくないですか博士。もしかして、今あたしが抜けてもちっとも困らないんです?」
「大いに困る」
「まぁそうですよねーどうせあたしの代わりなんて……って、え?」

 思わず、足が止まった。

「君ほど有能な人間も、リルがあれほど心を開く相手も他にはいない。君がこのプロジェクトを抜けたら、少なからぬ支障を来すことは免れないだろう」

 ここまで淡々と殺し文句を垂れ流す人なんて、この人のほかにいるだろうか。
 固まってるあたしをよそに、博士は構わず歩いていく。
 はたと我に返ったあたしは、慌てて叫んだ。

「ま、待ってください。それならあたし、やっぱりここに――

 薄赤い長髪をふわりと揺らし、振り返った博士は。
 拳を握り意気込んだあたしをたしなめるように、かすかに笑んだ。

「家族というのは、何物にも代え難いものだろう?」

 ――胸が詰まった。
 暮れていく黄昏空の色をした瞳が、静かなその声が、いつになく優しかったから。
 どうしようもなく泣きたい気持ちになって、

「……っ、はは……。なんですか、それ」

 笑った。声を立ててあたしは笑った。

「何がそんなにおかしい」
「いえ、博士からそんな台詞を聞く日がくるなんて思ってなかったので」

 ラトポリカの大学に入って何ヵ月か過ぎた頃、すでに噂に名高かったルフ博士その人を、初めて見かけたときのことを、今でも覚えている。
 夕凪のような眼差しだと思った。沈みかけた夕日に染まる、さざなみ一つさえ絶え果てた凪の海。およそ人の感情に揺らぐことのないような、つめたい瞳。
 研究室で言葉を交わすようになって、初めに抱いたその印象は少しずつ揺らいだ。人の感情の機微に――興味がないのではなく、判らないのだ、この人は。人と人の関わり、ちょっとした言葉やしぐさ。そこにどういう感情が存在しているのかを。恐ろしく頭がいいくせに、あるいはそれゆえにというべきか。
 心を宿した人形――ひょっとしたらこの人は、ただ純粋に人を、人の心を知りたくて、その果てのない研究に身を投じたのかもしれない。彼の助手という立場に収まってから、そんなことを考えるようになった。
 乏しかった表情に明らかな変化が生まれたのは、RiL-23――リルちゃんが作られてからだ。
 今ではまるで本当の親子のように、博士をお父さんと呼び慕い、満開の花のようにきらきらと笑う、硝子の瞳の少女。

 ――家族というのは、何物にも代え難いものだろう?

 この人をしてそんなふうに思わせたのは、ほかでもない。リルちゃんの存在だ。
 もしもあたしが、あなたを変えたあの子の、その心を育てる一端を担えたというのなら。
 あなたの凪いだ海を、あたしはほんの少しでも揺らがせたのだろうか。そんなふうに、少しくらい自惚れてもいいんだろうか。
 胸の奥につっかえていた小さな棘が、そのとき、ゆっくりと溶けていくような感覚を覚えた。

「博士、あたし決心がついた気がします」

 すぅ、と大きく息を吸い込んで、告げた。

「故郷に、帰ろうと思います」

 そうか、と博士は静かにうなずいた。

「それがいいだろう。汽車もいつまで動くかわからないからな」
「はい。だから多分もう、ラトポリカには戻ってこられないと思います」

 自分で放った言葉が、胸の奥に重くのしかかる。
 とても長い、下手したら一生の別れになるのだ、これは。
 ひゅうひゅうと刺すように冷たい風が、短い髪を揺らして吹き抜けていく。街外れに蔓延る氷の木々をかすめる風は、時折小さな青い氷のつぶてをはらんで吹く。日差しにきらりと輝くその美しい欠片は、街を、人を、世界を確実に蝕んでいくものだ。
 たまらなくなって、あたしはもう一度口を開いた。

「あのですね、博士」

 いくつもの可笑しな衝動が、そのときあたしを突き動かしていた。
 ――もしかしたらあたしはずっと、この人に恋をしていたのかもしれない、とか。
 ――それを今この人に伝えてみたら、どんな顔をするだろう、とか。

「なんだ」

 そう応えるかのように形作られた唇、そこから紡がれたはずの声を。
 重々しい鐘の音が。
 かき消していく。
 あたしたちはどちらからともなく、同じ方角を仰ぎ見た。
 高らかに時を告げる、街の中心にそびえ立つ時計塔を。
 決められた数の鐘の音が鳴り響いたあと、波の引くようにゆっくりと消えていく残響が、熱に浮かされたようなあたしの意識をすっと冷ましていった。

「いえ、やっぱりなんでもないです」

 首を振り、にっこりと笑ってみせた。
 ――きっと今この瞬間に掌からこぼれ落ちた、一つのあり得た未来への感傷を、振り払うように。
 電話越しに久しぶりに耳にした、父の、母の声、その温かさ。タイプ・ブルーの病なんて嘘っぱちだと笑い飛ばしたけれど、万に一つの可能性が頭をちらついて離れないこと。
 電車で半日、山道を登ってさらに半日のあたしの故郷。氷の樹海がじわじわと浸食を続けるこの世界で、それはもう、望めばいつだって帰れる場所ではない。失う可能性を天秤にかけたときから、答えはとうに決まっていたはずだった。
 小さな、けれどとても大切な一つの未来を選び取ったこの日を。きっとあたしは何年、何十年と経っても、鮮やかに思い出すのだろう。
 あっという間に過ぎた八年。ひたむきに走って走って、結局何にもなれなかったけれど、不思議と後悔はない気がする。

 さよなら。
 あたしの、永遠の憧憬の街。
▲top