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   レッド・ツェッペリン


 ロックの歴史、とは基本的には、ブルースをどう解釈するか、の歴史なのだと思う。
 つまり、ブルースをどう面白くやるか、という試みの変遷なのだ。


 もちろんジャズもそれは同じだ。
 しかしジャズがブルースから歌を失くして、音楽的にどんどん複雑にしていったのに対し、ロックは歌をさらに拡張して、リズムを分かりやすく強調していった。

 そのようにしてロックの側の歴史は、チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリーに始まり、ビートルズ、ローリング・ストーンズを経て、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、そしてレッド・ツェッペリンというように連なっていく。

 今上に挙げたようなアーティスト達は、それぞれのやり方で、ブルースを解釈して、その様式を創造していった。
 これらのアーティスト達の音楽的な差というのは、ひょっとしたらブルースというものに対する切り口の違い、という言い方も出来るかもしれない。



 レッド・ツェッペリンというバンドは、ブルース自体を直接解釈する最後の試みだったかもしれない。
 さらにあえていえばツェッペリンはアヴァンギャルドだった。ビートルズと並んで、最も。


 彼らはブルースを徹底的に客観視した。
 その上でブルースの持っている可能性を汲み尽くそうとしたのだ。
 それはブルースが結局自分達の音楽ではない白人達の、ある意味無責任さがなしえる行為かもしれない。


 このような視点を持つことができたミュージシャンは非常に少ない。
 その殆どが黒人のブルースそのものをリスペクトしそのコピーをするか、または黒人ブルースを多少解釈したものをコピーするかのいずれかになる。
 いずれにせよそれは、すでにある様式の退屈な反復だ。
 その手のブルースの周囲を回っていたミュージシャンは歴史的に重要な仕事を行うべくもない。



 繰り返すが、ツェッペリンはアヴァンギャルドだった。

 「ホール・ロッタ・ラヴ」有名な曲だ。
 この曲のリフは、説明が必要のないほどトラディショナルなブルースリフの、リズムを変えただけのものだ。
 もちろんこの曲で彼らがやりたかったことは、凡庸なロックバンドのように、こういう典型的なブルース・リフをリズムを当時風にしてやること、ではなかった。
 このトラディショナルなリフと、非常に長い時間に渡る音響的な中間部との、圧倒的な対比、それが彼らの意図なのだ。
 だから、この曲を普通のブルースロックのように聴き始めると、中間部で大きく裏切られることになる。
 さらに続く、中間部の音響を抜けた先のリズムのブレイク、そして導入されるギターソロ、それらはあらゆる音楽の中でも最高の部類に属するサスペンスだろう。


 「ブラックドッグ」非常に有名な曲。
 この曲におけるリフとそれに続くヴォーカルは、トラディショナルなブルースのギターとヴォーカルのコールアンドレスポンスを大きくデフォルメしたものであることは誰の耳にも明らかだろう。
 そのデフォルメの仕方は相当に極端で、実験的だ。
 ある意味でここにはユーモアのようなものさえ感じるのだ。



 お分かりだと思うが、これらは非常に意志的なものだ。
 黒人ブルースを単純にリスペクトするようなところからは、決して出てこない発想だろう。
 こういう質のブルースとの関わり方、を持ったロック・アーティストはほとんどいない。
 このブルースとの関わり方は、徹底的に客観的で、実験的で、そしてアヴァンギャルドだ。


 しかしこのような姿勢が長続きしないのが世の常だ。
 こういう姿勢を維持し続けられたアーティストは非常に少ない。いくつか挙げるとすれば、ビートルズ、ジャズの世界ではマイルス・デイヴィス、などがいる。
 やはりほとんどのアーティストは自分自身を様式化する道をたどってしまう。
 ツェッペリンもその例外ではなかった。

 様式の反復は、それが例え自分の作り上げた様式であったとしても、他人のコピーと等しく、魅力が残念ながら、ない。


 しかし様式化される前の彼らの試みは、ほとんど類例のないもので、至上の魅力に満ちている。

 こうした試みを、プログレッシヴな地点に堕とすことなく、シンプルに分かりやすく、ある意味ポップさを保ってやり遂げたことは、ほとんど奇跡的と言っていいのはないか?





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