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   ドビュッシー


 ドビュッシーが好きだという意見は意外と聴かない。

 逆に、自分はこだわり派だ、というような人からはドビュッシーが好きだという意見を聞くこともあるのだが、それはしばしばポーズが含まれているのであてにならない。
 一方で、時代も様式も近いラヴェルという作曲家がいるが、彼の人気は絶大で、クラシックが好きで特にフランス音楽が好みだという人達は、圧倒的な確率で彼をフェイバリットに挙げる。
 試しに彼らにドビュッシーの印象を尋ねると、たいてい曖昧な答えが返ってくる。「<月の光>とか<アラベスク>とかは好きなんだけど・・・、聴いててあんまりよくわからない」、みたいな答えが大半だ。

 なぜだろう?私はそのこと考えてみたいと思った。



 まず、押さえたいのが、ドビュッシーの音楽は「抽象的」だ、ということだ。
 抽象的、という言葉がまた抽象的だが、それについて少し述べてみたい。


 まず、音楽というものは1から順に時間の流れに沿って聴いていくことになる。
 つまり1の次は2、2の次は3、というように聴いていくわけだが、そうすると必ず必要となってくるのが、「記憶させて次に行く」という仕組みだ。
 つまり最初のある要素@が定着したら、似た要素を使って変化させたA、それが定着したらまた次のB、そしてもう一度最初に戻って@を繰り返し、今度少し大きく変化させて次のC、そんな風に楽節を記憶させ、定着させながら次に移っていく。
 音楽の形式はそのようにして出来ている場合が殆どだ。ある種の3段論法的な語り方だ。


 クラシックの長い歴史の中では、様々な変革が起こってきたが、今述べたこの部分に対してメスを入れた作曲家は非常に少ない。というよりも殆どいない。
 長いクラシックの歴史の中でこれを変えることが出来たのは、私が挙げうるかぎり、ベートーヴェンとドビュッシーだけだ。
 そしてドビュッシーはもっともラジカルにそれを行った。


 ではドビュッシーはどのように時間の流れを作ったのか?
 まずドビュッシーは@とAが一聴しただけで脈絡を感じることが出来ないように作曲している。もちろんAとBも。そして@が復帰したときには、@はもうまるで違った顔をしていたりする。
 しかし彼は全く無関係なものを何の脈絡もなく接木した訳ではない。
 ここが重要なのだが、彼はその全ての部分に対して、「潜在的なレヴェル」での統一を計っているのだ。

 例えば、ある特徴的なリズム、響き、それらを様々な部分にちりばめ瞬間的に出現させ、過ぎ去った部分の時間の記憶を潜在的に呼び覚まし続けるようにする。
 そうすると結果どうなるかといえば、まったくとりとめもなく無関係なものが連続したり、あっちこっちにふわふわしているようでいて、しかし奇妙な説得力が音楽の進行に存在し続ける、といった非常に不思議な音楽が出来あがる。

 音楽は時間芸術だ。その「時間の流れ方/形式/記憶」というパラメーターにメスを入れるのは、誰もが難しすぎて出来なかった。
 しかし彼はそれをなんの躊躇もなく行った。
 それは想像を絶する才能だ。彼は生涯をかけてこの非常に難しい課題に取り組んだ。


 彼は和音や音階、リズム、オーケストレーションなど全てにおいて人のやっていなかったことを開拓しつくしたが、それはあくまでも上に挙げた「時間と形式」の変革のためにそれらが必要になった、ということでしかない。
 全く新しい時間の流れ方を作るためには、全く新しい音の素材がどうしても必要になったというだけなのだ。

 隅から隅まで人と違う新しい要素で作品を埋め尽くし、そして全ての要素が全く新しい仕方でしかも、常に必然的に配置される。
 無駄な音、不要な要素は混入できるはずもない。恐ろしく危ういバランスで曲は成り立っているからだ。

 そうして彼は、音楽史上でも一人だけポツンと浮いた存在となった。


 今まで書いてきたことを読んでもらえれば理解してもらえると思うが、このような音楽が慣習的に理解できるはずがない。

 しかしまったく違った耳で最大限の集中を持って彼の音楽を聴くならば、他では絶対に味わうことの出来ない快楽が、あなたを襲うだろう。


 時代はまだ彼に追いついていない。いまだに誰も彼のように音楽を書けない。





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