「邦楽ジャーナル」1996年6月号掲載

協奏曲「スギハラ」-- 杉原千畝に捧ぐ
イスラエル尺八演奏旅行記

倉 橋 義 雄

作品「スギハラ」の重さ

 「イスラエルで尺八を吹いてほしい」という依頼を受けたのは昨年の夏のこと。メイール・ミンデルというイスラエルの作曲家が尺八とオーケストラのための『スギハラ』という新作を書いたという。故・杉原千畝氏を称える音楽だということ。杉原千畝氏のことは、私も名前くらいは知っていた。“日本のシンドラー”と呼ばれ、ナチスの魔の手からユダヤ人を救った外交官だ。ふむ、これは悪い話ではない。
 私は二つ返事で依頼に応じてしまったけれど、あとからだんだん迷いが生じてきた。おそらく作品『スギハラ』はユダヤ人の特別な感情にもとづいて作曲されたものだろう。果たして私のような者に演奏できるものかどうか。私には杉原氏を尊敬するだけの知識もなければ歴史的背景もない。
 亡夫の思い出を綴った杉原幸子著『六千人の命のビザ』という本を読んで、思わずうなってしまった。6千枚のビザを発行するという行為の意味が、初めて分かった。そして『スギハラ』の重さを感じたけれど、もう手遅れだった。

 1939年、ドイツ軍に占領されたポーランドから大量のユダヤ人が脱出し、北隣のリトアニアは着の身着のままのユダヤ難民であふれた。しかしリトアニアにもまた危険が迫り、彼らは更にソ連への脱出を求めた。すでに西への道はすべて閉ざされ、残された道は東だけになっていたからである。ところがソ連政府はユダヤ人の入国を許さず、ただ「第三国の入国ビザを持って通過するだけなら許す」と表明した。ソ連を通過していくところ、そこに日本があった。彼らに許された唯一の道は、ソ連と日本を経由してアメリカ方面へ逃げること、具体的には《日本のビザ》が彼らの唯一の命の保証書となった。
 1940年、何万人もの必死のユダヤ人群衆がリトアニアの日本領事館を取り囲み、ビザ発行を求めた。そのとき領事館を守っていたのが、領事代理・杉原千畝氏だった。
 杉原氏は突然の事態に驚き、日本政府に訓令を求めたが、ドイツとの同盟関係を配慮した政府は、同氏に対しビザ発行を拒否するように命じた。ここに彼の葛藤が始まり、彼はついに政府命令を無視して独断でビザを発行することを決意した。
 すべて手書きによるビザ発行の作業は不眠不休で2ヵ月も続けられた。領事館の閉鎖が決まっても作業は続けられ、家族とともにベルリン行き最終列車に乗ってからもなお窓際で続けられた。同氏が発行したビザの数は6千枚。手書きということを考えると、驚くべき数である。列車が動き出し、もはや作業ができなくなったとき、同氏は窓から身をのりだして、列車のあとを追って走るユダヤ人たちに詫びた。このときユダヤ人たちは、ビザを受け取れなかった人でさえ、こう叫んだという。「私たちはあなたのことを忘れない!」
 その後、杉原氏は外務省をクビになり、清貧のうちに世を去った。日本では同氏のことは余り知られておらず、政府による公式の名誉回復も未だになされていない。

微妙な立場と認識の差

1996年3月9日

 重い気持ちで10年ぶりのテルアビブ空港に降り立った私は、作曲家メイール・ミンデル氏に迎えられた。同氏とはもちろんこの日が初対面。何となく気まずさが漂う初対面だった。「このような物情騒然とした時機にわが国を訪問してくれたあなたは“勇敢”な人だ。また私のクレイジーな要求に応えてくれたあなたは“勇敢”な演奏家だ」とミンデル氏。
 早く楽譜を送ってほしい、という私の催促にもかかわらず、ミンデル氏は直前まで何の連絡もよこさなかった。そしてやっと送ってきたFAXにはこう書いてあった。
 「『スギハラ』の尺八パートの作曲は断念した。だから即興演奏してほしい。ただしオーケストラとは“共演”ではなく“対決”してほしい。オーケストラとの対決において、尺八は必ず勝たなければならない」
 「まったく自由に演奏してもいいのか?」
 「リハーサルのとき、ある程度の指示はする。しかし、あなたの演奏については、あなたの責任で、全人格を賭けて取り組んでいただきたい」

3月10日

 第1回リハーサル。これから行動をともにすることになるキブツ・チェンバー・オーケストラの練習場へ。
 作曲家ミンデル氏の説明。
 「私の父は、あの1940年、リトアニアの日本領事館を取り囲んだユダヤ群衆の中のひとりだった。結局父はビザを受け取ることはできなかったが、非合法にソ連へ逃げて奇跡的に生き延びた。初めて父からそのことを知らされたとき、私は天から一撃を受けたような衝撃を覚えた。父は杉原氏を尊敬していて、私も同氏のような人物が存在したことを知って驚いた。私は彼がなぜそのような行為をしたのか知りたいと思い、ヨーロッパ各地に彼の足跡を尋ね歩いたり、杉原幸子さんにも手紙を書いた。作品『スギハラ』は私の思いの結晶である」
 そして私に、「杉原氏のことをどう思うか」と質問してきたので、私はこう答えた。
 「厳しい二者択一を迫られたとき、政府命令ではなく人道を選んだことは偉大だったと思う。しかし彼に主義があったわけでなく、それはいわば瞬間的判断にもとづく選択だったから、私は彼を尊敬するけれど、典型的な意味での英雄だったとは思わない」
 するとミンデル氏は首をかしげて、「いや彼は真の英雄だった」と強調した。
 やはり微妙な認識の差があった。ミンデル氏にとって重要なことは、杉原氏が「ユダヤ人を救った」こと。この点に関しては、彼は正しく英雄だった。しかし私にとって重要なことは、彼が「偉大な二者択一をした」こと。私と同じ凡人としての彼が、決定的な瞬間において“立場”ではなく“良心”を選んだということ。そのことが重要なのだ。だからこそ、彼の選択は重大な今日的意義をもつ問題提起として、私たちに迫ってくるのではないか。
 この認識の差が原因したのかどうかは知らないが、第1回リハーサルはギクシャクしたものになってしまった。オーケストラの音には違和感だけを感じ、『スギハラ』という曲の全体像がぜんぜん把握できなかった。

3月11日

 駐イスラエル特命全権大使・渋谷治彦氏から招待を受けて、大使公邸での夕食会に出席。招待されたのは、私のほかには作曲家ミンデル氏、指揮者ドロン・サロモン氏、打楽器奏者ミハ・バルアム氏、事務局長アハロン・キドロン氏、及びヘブライ大学の東洋音楽学者ウリー・エプシュタイン博士。
 いまだに公式には杉原千畝氏は命令違反の外交官であり、大使館には公式には『スギハラ』を後援できないという“立場”がある。渋谷大使はじめ大使館の人たちは、国際交流基金に働きかけてくれたり、夕食会に招いてくれたり、“立場”が許す限りでの最善を尽くしていただいたと私は思っている。しかしその微妙な“立場”というものがイスラエルの人たちには分かり難いらしく、友好的な夕食会ながら、会話にはときおり微妙な食い違いが生じた。

「スギハラ」絶賛、しかし・・・

3月12日

 午前中、第2回リハーサル。あいかわらずギクシャク。
 夜、いよいよ第1回コンサート。中央海岸地方のエイン・ハホレシュという典型的な農村キブツでのコンサート。

 キブツというのは、近代イスラエルの象徴ともいえる共同体で、20世紀の初めユダヤ人社会主義者たちがシオニズム運動の理念と社会主義の理想を融合させて建設したのが始まり。現在も徹底的に私有財産を否定して静かな共同生活を守っている。全国に200ヵ所、約3万人が暮している。

 『スギハラ』初演。やや捨て鉢な気持ちで舞台に上ったのに、どういうわけかオーケストラの呼吸がひしひしと伝わってきて、手ごたえある演奏になった。演了したとき作曲者ミンデル氏が舞台に上り、「あなたに感謝する」と言って私と握手。
 エルサレムからエプシュタイン博士が来聴。「素晴らしかった」とほめていただいた。後日、同博士はエルサレム・ポストという英字新聞に批評を掲載し、『スギハラ』を作品・演奏ともに絶賛した。
 とりあえずの初演の成功に胸をなでおろしたけれど、私は単に尺八を即興的に演奏しただけのこと、『スギハラ』を演奏したわけではなく、納得できないものが残った。

3月13日

 エジプトで「反テロ首脳会議」が開かれた日、私はこっそりテルアビブの爆弾テロ現場を見に行った。なまなましい破壊の跡に蝋燭や花輪がおびただしく飾られていた。浮かれたようなテルアビブ繁華街には似合わない現実離れした光景だと思った。そして、この浮かれたような気分の底に恐るべき憎悪と恐怖心が渦巻いていると悟ったとき、私の背筋が冷たくなった。
 その後、第2回コンサート。中央海岸地方とガリラヤ地方をさえぎる山脈の稜線上に位置するエイン・ハショフェットという静かなキブツにて。この日は、「全国民がTVニュースにくぎづけ」とかで、観客は少なかった。
 この日の『スギハラ』は空振り。ぜんぜん満足しなかった。ところが観客の反応は上々だったとのこと。いったい観客は何を求めているのか。

3月16日

 第3回コンサート。ヨルダン川沿いの国境の町ベートシャンにて。
 私の『スギハラ』はますます悪くなった。オーケストラとの歯車がかみあわず、ただ尺八を吹いていたというだけのこと。この曲のどこが良いのか、さっぱり分からず、汗びっしょり、不愉快になった。ひょっとしたら、『スギハラ』というのは「駄作かもしれない」と思った。ところが作曲者は、「日に日に良くなっている」と言う。作曲者の友人が聴きに来て、感激のあまり、「あなたを抱擁したい」と言ったという。

ミンデル氏との格闘、そして・・・

3月19日

 作曲者メイール・ミンデル氏の招待で、同氏が居住するキブツ・ネグバへ。イスラエル南部の平原の中に島のように浮かぶキブツ。
 同キブツは独立戦争(第1次中東戦争)の激戦地となったところ。キブツの内外に当時をしのぶ数々の記念物が遺されていた。ミンデル氏は、ネグバの先人たちが彼らの生活とイスラエルを守るためにいかに“勇敢”に戦ったか、具体的な遺物を示しながら、1日かけて私に熱っぽく語ってくれた。
 彼はソ連に生まれ、12歳のときイスラエルに移住、以来ずっとネグバで暮らしているという。彼はイスラエルとネグバを熱烈に愛し、先人の遺産を次世代に伝えることを責務と考えている。遺産というのはユダヤ人の“知恵”と“名誉”のこと。
 彼にとって守るべきものは精神的なものであり、土地や命を守ることでさえ彼にとっては精神的な行為、すなわちユダヤ人の“名誉”を守る行為なのであった。そして、ひたすら精神的なことに打ち込める環境として彼はキブツを愛し、そのことを繰り返し私に語った。
 私はネグバへ来て初めて彼の徹底的に純粋なロマンティシズムを理解し、作品『スギハラ』の背景を知った。しかし私は彼の愛すべき人柄に魅かれながらも、彼を知れば知るほど、失礼ながら反発せざるを得ない気持ちになった。
 「あなたの教育は何を目的としているのか。ユダヤ人以外に対する“敵意”を育てるだけではないだろうか。アラブ人も含めてすべての人々と手をつないでいこうとする未来への視点がない」
 「私はあなたの意見に同意したい。しかしそれはイスラエルでは難しい問題なのだ。ユダヤ人はただユダヤ人であるというだけの理由で殺されてきた。この地でアラブ人はユダヤ人の存在そのものを否定して攻めてきた。このようなクレイジーな歴史をもつ民族がほかにあるだろうか」

3月23日

 第4回コンサート。テルアビブのコンサート・ホールにて
 「今日はテルアビブだ。ベストを尽くしてほしい」とミンデル氏。
 いつもとは違った緊張した雰囲気が漂う中での久しぶりの『スギハラ』の演奏。最初の1音を出したときから驚くべき手ごたえを感じた。何がどうなったのか分からない。しかしオーケストラの音がすべて私の手中にあり、自由自在に対話できるではないか。尺八を吹くにつれ、私は興奮を隠せなくなった。演了したときの充実感。割れるような拍手。鳴りやまない拍手。これでイスラエルへ来た甲斐があった。
 ロビーにて、観客の握手攻め。すごかった。「あなたの尺八を聴きに来た」という人が多かった。こんなに尺八がもてはやされることは、日本ではありえないことだ。とまどいながらも、うれしかった。
 握手攻めが一段落したとき、ひとりの老紳士がやって来て、そっと私に握手を求め、小さな声でささやいた。「私は杉原氏に救われた者です。今日はありがとう」
 私は控室に戻って呆然とした。「とんでもないことだ」と思った。私は『スギハラ』に気をとられて、愚かにも杉原千畝氏のことを忘れていたではないか。まったく無意味な演奏をしてしまった。大失敗だ。大多数の観客たちは珍しい“尺八”の音にまどわされていただけのこと、あの熱狂と杉原氏とは何の関係もない。私に感謝される資格はない。頭がモヤモヤした。しかし何とも言えぬ不思議な感動がこみあげてきて、涙が出た。
 ミンデル氏がやって来た。「今日のあなたの演奏はいつもと違った。今日のあなたはオーケストラに妥協していた」

3月24日

 イスラエル南部、ガザ地区のすぐ東、ネゲブ砂漠近くのキブツ・ドロツにて、最後のコンサート。CD制作のための録音班がやって来た。
 最後の『スギハラ』は力が抜けた。力んでみても音にならず、どうしてもオーケストラの音に溶け込めず、気持ちは白けるばかり、イスラエルへ来て初めて「恥ずかしい」と思った。こんな演奏が録音されたのかと思うと悔しかった。
 ミンデル氏は会心の笑みを浮かべて私と握手。「今日の『スギハラ』は最高だった。ありがとう」
 私ははっとして、むっとして、そしてやっと理解して、苦笑した。
 そうだったのか、彼は私と格闘していたのか。今日とうとう彼は私をねじ伏せることに成功し、私はふらふらになった。そしてそこに彼の望む『スギハラ』の表現があった。私が『スギハラ』を理解するかどうか、そんなことは彼にはどうでもよかったのだ。
 ミンデル氏「人間の仕事には2種類あって、ひとつは金もうけのためのダーティな仕事、もうひとつは精神的なクリーンな仕事だ。私はキブツに住んで、金にわずらわされることなく、ひたすらクリーンな仕事に打ち込んできた。あなたがオーケストラから謝礼金をもらうかもらわないか、そんなことは私は知らないが、私が見る限りあなたはイスラエルでクリーンな仕事を達成した」

(了)