2014年10月15日「京都三曲」第75号掲載

会員の広場

映画の中の尺八

倉 橋 容 堂

 映画の中から聞こえる尺八の音には独特の響きがあり、演奏会で聞くのとは違った感動を覚える。極めて個性的な楽器として今や世界的に有名になった尺八を、日本の映画界はもっと活用してほしいと、私は思っている。以下は京都の映画に限定した尺八のお話。
 尺八界で伝説的に有名な映画は「大菩薩峠」(一九五七、内田吐夢監督、東映京撮)で、福田蘭童の本曲が聞ける。同じく伝説的な「炎上」(一九五八、市川崑監督、大映京撮)では市川雷蔵と仲代達矢が尺八を吹く。ともになかなか良い演奏なのだが、ちょっとしか聞かせてくれない。太秦の全盛期に製作された膨大な作品群の中で、尺八の音をたっぷり聞かせてくれる映画はほとんどない。
 画期的だったのは「暗殺」(一九六四、篠田正浩監督、松竹京撮)という映画。音楽は武満徹。全編尺八だけの効果抜群の音楽を、無名の新人だった横山勝也が力奏した。そのまま進めば「尺八の時代が来る」と思われたのに、その後尺八は忍者映画に吸収された。「忍者秘帖・梟の城」(一九六八、工藤栄一監督、東映京撮)では海童道宗祖が魅力的な音を聞かせ、「忍びの衆」(一九七〇、森一生監督、大映京撮)の尺八も良かったけれど、尺八=忍者という発想が余りにも陳腐だった。
 七十年代に「子連れ狼」で尺八が吹き矢になったのは、愛嬌か、言語道断か。シリーズ最終作「子連れ狼・その小さき手に」(一九九三、井上昭監督、映像京都、松竹京撮)では私が尺八を吹いた。吹き矢は吹いていない。私事で恐縮ながら、「春、狂う」(二〇一〇、高林陽一監督)でも私は尺八を吹かせていただいた。が、完成直後に監督が他界し、この映画は「お蔵入り」になってしまった。
 こうして振り返ってみると、京都での映画と尺八の結びつきは意外に弱い。ともに世界に発信できるだけの力量と伝統を持つのだから、誰か京都でステキな尺八映画を作ってくれないかな。