1993年10月15日「京都三曲」第12号掲載

会員の広場

ガイジンが来るぞ!

倉 橋 義 雄

 最近東京へ行って感じることは、日に日に外国人が増えているということです。京都や大阪にも多くの外国人がいますが、東京での多さは比べものになりません。どこへ行っても英語だけでなく聞いたこともないような各国語が大声で話されていますし、JRの駅名表示も日本語と英語が同等量になっています。一見して外国人だと分かる人達だけでもこの多さですから、一見しても分からない東洋系の人達を含めると、私達の実感以上に多くの外国人が東京には住んでいるのでしょう。このことは現在の世界状況を考えると当然の成り行きだと言えますから、今後ますます外国人は増えるだろうし、東京だけでなく京都も、いや日本全国が今の東京のようになっても不思議ではありません。
 そこで気になるのはドイツでのネオナチの動きです。「ドイツ的でないから」と言ってトルコ系住民を殺すのは言語道断の悪業ですから、大半の日本人はネオナチには批判的です。ところが、余りに多くの外国人が堂々と歩いているのを見ると、ふとこの私にもネオナチ的な心情が湧いてくるのです。後で猛反省いたしますが、ドイツのネオナチは簡単に批判できても、私達の心の中のネオナチ的なものは、相当の覚悟がないと根絶できません。
 特に私達伝統芸能に関与する者は、ネオナチ的になる要素を普通以上に多く持っているのではないかと、自戒をこめて考えています。私は今までに90人以上の外国人に尺八を教えてきましたので、このことを骨身にしみて感じてきました。本当にイヤになるほどの摩擦を経験してきました。何度かつくづく「外人は嫌いや」と思いましたが、これこそネオナチ的心情の出発点です。
 日本人は、たとえ納得できなくても師匠の言いつけには服従しますが、たいていの外国人は、納得できない限り絶対に服従しません。必ず「なぜ?」と言って説明を求めます。このとき師匠がちゃんと合理的に説明すればよし、もし「昔からの習慣だ」とか「ここは日本だ」と言って逃げれば、鼻で笑われるだけです。それどころか、師匠の意見にも堂々と反論します。そのときまともに議論しないで「師匠に逆らうのは失礼だ」などと言うと、「あの師匠はファシストだ」ということになります。たいへん扱い難い人達なのですが、でも冷静に考えてみれば、世界的一般的常識的見地から見ると、《外国人の言い分のほうが正しい》のですね。
 伝統の世界には常識に反する不合理なものがいっぱい残っているのは事実です。私達が「仕方ない」と思っていることでも、外国人は当然のように疑問を呈します。今後この傾向はますます強まり「郷に入れば・・・・」式の論理は通用しなくなると思います。このとき外国人と共に不合理を是正する努力を欠くと、私達はネオナチになります。また真に古き良きものについては、努力して彼らを納得させなければなりません。その努力を怠ると、やはり私達はネオナチになります。
 いずれにせよ、これから、しんどいけれども面白い時代がやって来そうです。