1996年4月1日京都市芸術文化情報誌「藝文京」通巻57号掲載

風土と文化

尺八アメリカだより

倉 橋 義 雄

 武満徹さんが亡くなりました。かつてニューヨークで「ノーヴェンバー・ステップス」を発表されたときの衝撃は、いまでもニューヨークでは伝説的に語り継がれています。
 「ノーヴェンバー・ステップス」で驚嘆した尺八という楽器を、いまアメリカでは普通の人々がごく普通に吹くようになっております。とくに愛好者が多いのはニューヨークとサンフランシスコですが、少し大きな町ならどこにでも尺八クラブが存在しています。
 武満さんは別格として、アメリカで尺八を普及させた功労者として、ジョン・海山・ネプチューンさんとラニー・如月・セルディンさんの名をあげることができます。ジョンさんは日本在住ですが、抜群の腕前をもつアメリカ人奏者の登場は、アメリカ人のプライドをくすぐり、尺八に対する関心を更に高めました。ラニーさんの腕前は失礼ながら抜群とは言えませんが、マネージメント面に天与の才があり、ニューヨークで唯一のプロ奏者としての立場を最大限に生かして、尺八を愛好するアメリカ人の数を驚異的に増加させました。現在ニューヨークとその周辺で、アメリカ最大の尺八道場を開設しています。
 そのほか多くの人たちの努力の成果として、もはやアメリカでの尺八は熱いブームの段階を通過して、安定的に定着したものになっております。ところが、ここ数年、私たちが予想しなかったような形で微妙な変化が生じており、しかも予測しなかった形での新しい盛り上がりを見せつつあるのです。
 これまでのアメリカ人尺八愛好家は、大なり小なり日本や東洋に対する憧れを抱いている人たちで、どちらかと言えば白人インテリ層が中心でした。ところが、いま、だんだん尺八の<非日本化>とでもいうべき傾向が強まり、しかも非白人や低所得者層にも愛好者が増えつつあるのです。
 私が最近ニューヨークで出会った男子高校生を例にとれば、彼はごく普通のニューヨークの高校生で、つまり少々柄が悪くて優等生でもなく、日本やアジアには興味もありません。それなのに一所懸命尺八の練習をしているのです。<なぜ尺八を吹いているのか>と尋ねてみたら<これはオレの楽器だから>という答が返ってきました。
 これは伝聞した話ですが、サンフランシスコの刑務所に服役中の黒人男性が、たまたまカセットで尺八の音を聴き、ただちに<これはオレが求めていた音だ>と直感して、さっそく獄内から楽器を注文したそうです。楽器を手にするまで、それが日本の楽器であることには気がつかなかったということです。ちなみにサンフランシスコ近郊には本業として尺八を製造販売しているアメリカ人がいて、この話はその人から聞きました。
 まさに微妙な事態です。私にとっても、ラニーさんのような<伝統的な>アメリカ人奏者にとっても、厳しい事態ではあります。なぜなら、いったい彼らが尺八のどのようなところに魅力を感じているのか、よく分からないからです。彼らに熱意があることは分かります。しかし、具体的に何をどのように学ぼうとしているのか、さっぱり見当がつかないのです。
 <こんな曲は吹きたくない>と言ってレッスンを拒否したかと思えば、私の何気ない演奏に涙して感激してくれたりもいたします。
 また、古典がいいのか新曲がいいのか、彼らの好みの傾向もはっきりしません。
 <オレは尺八を学びたいのであって、日本の音楽を学びたいのではないのだ>と明言する人もいます。理解できそうで理解しにくい理屈です。
 では何を学びたいのか、実は彼ら自身にもよく分かっていないようです。しかるに、いまアメリカでは着実にそのような尺八愛好者が増えつつあります。そして、まるで申し合わせたように彼らが言うことは、
 <初めて尺八の音を聴いたとき、これだ!と直感した>
 最近になって、私は自己変革してみようかという気になりました。ひょっとしたら尺八には私にとって未知の魅力があるのかもしれない、と思ったからです。
 なまじ東洋趣味がないからこそ、彼らは自由奔放に尺八の音を楽しんでいるのかもしれない。そして、伝統的な感性にがんじがらめになっている私が感じられない<何か>を、彼らは感じているのかもしれない。もしそうだとしたら、私もその<何か>を感じてみたい、そう思うのです。