2006年3月 季刊「上方芸能」159号掲載

[特集] 美学な幕切れS

日暮れて道遠し

倉橋義雄(尺八演奏家)

 編集部から原稿依頼が来たとき、そのテーマを見て、背筋に冷たいものが走るのを覚えました。「来るべきものが、とうとう来た」と思いました。美学な幕切れ・・・・何という冷たく恐ろしいテーマでしょう。原稿依頼という美名のもと、編集部が私に「いつまで尺八を吹いているのか。お前の才能は、ハイこれまで。美しくやめなさい」と諭していることは、火を見るよりも明らかでした。
 でもそんなこと、人に言われなくても、私自身が一番よく知っています。つまり日暮れて道遠し、人生の半ばを過ぎ、最近つくづく才能の限界を思い知らされているのです。
 反面、何くそ何が限界じゃ、奮闘努力すれば道は開く、大器晩成、今に見ておれ編集部、と日々ジタバタ藻掻いてもおります。
 思い出すのは父のこと。私の父の人生は、尺八演奏家としては、まことに不本意なものでした。敗戦で命からがら中国大陸から引き揚げて、幼い子供を二人も栄養失調で亡くすという最悪の体験をしています。まさに尺八どころではなかった、ということでしょう。
 それでも父の尺八に対する愛着は止みがたく、許される範囲で研鑚を重ね、晩年にはある程度の自信を身につけ、無住庵という尺八道場を開軒いたしました。
 ところが、知らぬ間に、時代は父を追い越し、演奏家に要求される技術水準は父の想像を絶した高みに達していたのです。そのことを思い知らされた日の父の顔を、忘れることはできません。若き天才尺八奏者A師(いまは人間国宝)の演奏を初めて耳にした父は、まるで絵に描いたみたいに目を真ん丸にして、演奏会場のロビーに立ちすくんでいました。
 最晩年の父は枯淡の極みのような境地に達していたと思われますが、不遇でした。
 門弟の人たちが古稀祝賀演奏会を開いてくださったときは、よほど嬉しかったのか、鬼気迫るような名演奏をいたしました。そしてポツリと「有終の美を飾れたなあ」。
 半年後、枯葉が落ちるように、父は静かに他界しました。最期の言葉は「ちょっと失礼します」。ジタバタし続けた人生だったくせに、最期ばかりが美しく決まり過ぎていて、まさに美学な人生の幕切れ。私は、腹が立ちました。「何が有終の美やねん、諦めることが美なのか?」
 それから幾星霜、私も父の気持ちが分かる齢になりましたが、父には反撥して、死ぬまで人生諦めないでジタバタしようと思っています。美学な幕切れ、死んで靖国の桜に、一宿一飯の恩義、そんなカッコいい幕切れよりも、泥にまみれて野垂れ死にする幕切れを選びます。と言う次第で、編集部様、おあいにく様、私はまだ当分尺八はやめませんよー。