これは国際交流基金に提出した事業実施報告書の全文です。

国際交流基金助成

1996
イスラエル尺八演奏旅行
報告書

倉 橋 義 雄

 イスラエル人作曲家メイール・ミンデル氏(Mr. Meir Mindel)作曲による尺八とオーケストラのための協奏曲《スギハラ》(SUGIHARA)の初演のため、去る3月9日から25日にかけてイスラエルに滞在し、上記曲目の演奏活動ならびに他の演奏活動を行なってきた。以下はその報告である。
 なおこの演奏旅行は、国際交流基金の助成のもと、イスラエルのキブツ・チェンバー・オーケストラ(Kibbutz Chamber Orchestra)の招待により実現した。

 《スギハラ》は、第二次世界大戦下のリトアニアで日本政府の命令に抗して通過ビザを発行し6千人のユダヤ人の命を救った故・杉原千畝氏(当時は駐リトアニア領事代理)に感謝し、その非常な勇気を讃える音楽。日本の尺八及びインド・チベット・中国などの各種打楽器による即興演奏を中核として、それらに対抗する形でのオーケストラ演奏を交えた形式の音楽で、打楽器の演奏はミハ・バルアム氏(Mr. Micha Bar-Am)。オーケストラはドロン・サロモン氏(Mr. Doron Salomon)指揮キブツ・チェンバー・オーケストラ。

1996年
3月9日(土)


20:40 テルアビブ着

●作曲家のメイール・ミンデル氏、ならびにイスラエル人尺八愛好家ヨシ・パイタン氏(Mr. Yossi Paitan)、ドリツ・バルネアさん(Ms. Dorit Barnea)及びニムロド・バルネア君(Mr. Nimrod Barnea=10歳)の出迎えを受けた。
 ミンデル氏とは初対面、パイタン氏とは3年ぶり、バルネアさんたちとは10年ぶりの再会であった。ちなみに私のイスラエル訪問は2回目10年ぶり。

●空港内カフェで日程などの打ち合わせ。
 実は私は《スギハラ》の演奏については相当の不安を抱いていた。尺八パートには楽譜がなく、何の指示もなく、またオーケストラのスコアや録音テープも受け取っていなかったので、どう演奏すればいいのか見当もつかず、つまり私はまったくの白紙状態でイスラエルに到着していたわけである。しかるに作曲者はこの日も「演奏についてはリハーサルのとき指示する」と言うのみ。そして笑っていわく「あなたは勇敢な演奏家ですね。普通の演奏家なら、こんなクレイジーな作曲家の曲は演奏しません」

3月10日(日)

10:00〜
第1回リハーサル
於:キブツ・シェファイム(Kibbutz Shefayim)

●キブツ・シェファイムはテルアビブ北郊の地中海に面した風光明媚なキブツ。果物と野菜の生産が主体だったが、これからは農業生産は縮小してサービス業に転換していくとかで、ホテル・シェファイムという立派なホテルがすでに建っていた。海べりにはマリン・リゾート施設が建設されていた。かつて農民だったキブツ住民も目下サービス業のノウハウを勉強中。

●映画《栄光への脱出》(EXODUS)のモデルになった非合法ユダヤ難民を乗せた船が到着したのがここの海岸で、イギリス官憲の目をくらまして彼らをかばったのがここのキブツの住民だったという。現在キブツ・チェンバー・オーケストラの本部及び練習場がここにある。

●キブツ・チェンバー・オーケストラというのは、キブツ在住の音楽家を主体にして結成されたオーケストラで、大都会のコンサート・ホールよりも各地のキブツなどを巡回演奏することが多く、草の根的にイスラエルの音楽文化の向上をめざす活動をしている。しかしあくまでもれっきとしたプロフェッショナル集団であり、技術水準は高い。とくに最近、大量のロシア移民音楽家を受け入れたことにより、水準は一段と向上した。本年(1996)は創立25周年ということで、新曲《スギハラ》の初演を含む一連のコンサート・シリーズは《創立25周年記念コンサート》とタイトルされている。

●作曲家のメイール・ミンデル氏が「杉原千畝氏の行為をどう思うか」と質問してきたので、私は
 「杉原氏は思想信条からユダヤ人を救ったのではないと思う。まったく予期しなかった事態が突然目の前に出現したので、とっさの判断でそうしたのだろう。瞬間的な二者択一を迫られたとき、政府命令ではなく人道を選んだのは偉大だったと思う。しかし典型的な意味での英雄だったとは思わない」と答えた。
 するとミンデル氏は首をかしげて、
 「スギハラは単なる外交官ではなく、日本政府のスパイだったのだ。だからユダヤ人に関する正確な情報もつかんでいた。しかしスパイ外交官というのは彼の仮面にすぎず、心では何とかしてユダヤ人を救おうということを考えていたのだ。リトアニアでそのチャンスがめぐってきたとき、彼は仮面を捨てて、真のスギハラになった。このような行為が日本人には難しいことであるということを私は知っている。だからこそ私はスギハラを真の英雄だと思う」と語った。
 さらに続けて「実は私の父は、あの1940年、リトアニアの日本領事館を取り囲んだユダヤ群衆の中のひとりだった。結局父はスギハラからビザを受け取ることはできなかったが、非合法にソ連へ逃げて、奇跡的に生き延びた。父は寡黙な人だったので、リトアニアでのことを誰にも語らず、私も成長するまでそのことを知らなかった。そして初めて父からそのことを知らされたとき、私は天から一撃を受けたような衝撃を覚えた。父はスギハラからビザを受け取ることはできなかったけれど、スギハラに深く感謝していた。私もスギハラのような人物が存在していたことに驚き、彼がなぜそのような行為をしたのか知りたいと思った。ヨーロッパ各地に彼の足跡を尋ね歩いたり、杉原幸子さんに手紙を書いたりもした。作品《スギハラ》は私の思いの結晶である」

●午前中は尺八と打楽器だけのリハーサル。「何でもいいから演奏してみてほしい」という作曲者の要望で気ままに演奏していたら、作曲者はときおりグラフのような図面を私たちに示し、演奏パターンを指示した。尺八としては典型的過ぎるくらい典型的なパターンばかりで、面白みに欠けるところがあったので、音色で工夫してみたら、作曲者は大喜びして「あなたにキスしたいくらいだ!」
 尺八の音色と東洋の各種打楽器がかなでる協和音が美しく、不思議な安逸さを感じつつ、気ままな演奏が楽しめた。

●午後はいよいよオーケストラとのリハーサル。不思議な安逸さは消し飛んで、重苦しい消化不良感だけが残った。《スギハラ》という曲の全体像が全然つかめなかった。作曲者に質問しても「私はオーケストラに不満だ」と言うだけ。指揮者に質問してみると「オーケストラの連中が尺八に気を取られすぎている。尺八のほうばかり見て、指揮棒を見ていない」とのこと。

3月11日(月)

●午前中、オールド・ヤッファ及びテルアビブ市内を歩き回った。何かと10年前のことが思い出されるセンチメンタル・ジャーニー。ヤッファから見た地中海が美しかった。

13:00〜
テルアビブ大学にてフローラ・マルガリットさんと昼食。
     (Ms. Flora Margalit=元駐日イスラエル大使館文化アタッシェ)

19:30〜
イスラエル駐在特命全権大使・澁谷治彦氏からの招待を受け夕食会に出席。
於:大使公邸(ヘルツィリア)
出席者:
  倉橋義雄
  メイール・ミンデル氏(作曲家)
  ミハ・バルアム氏(打楽器奏者)
  ドロン・サロモン氏(指揮者)
  アハロン・キドロン氏
     (Mr. Aharon Kidron=キブツ・チェンバー・オーケストラ事務局長)
  ウリー・エプシュタイン博士
     (Dr. Ury Eppstein=ヘブライ大学教授)
大使館側:
  澁谷治彦氏(大使)
  羽田恵子さん(一等書記官)
  さかい氏

3月12日(火)

10:00〜
第2回リハーサル
於:キブツ・シェファイム

●オーケストラとの本格的なリハーサル。相変わらずの消化不良感。《スギハラ》という曲の全体像がどうしてもつかめなかった。

 20:30〜
 第1回コンサート
 於:エイン・ハホレシュ(Ein Hahoresh)文化ホール  

●テルアビブから北へ自動車で1時間くらいのいわゆる中央海岸地方の典型的な農村キブツでのコンサート。観客は同キブツだけでなく周辺市町村から約1000名集まった。

 曲目:1 メイール・ミンデル作曲《スギハラ》(初演)
      Meir Mindel:Sugihara (Premiere)
          倉橋義雄・・・・尺八
          ミハ・バルアム・・・・打楽器
    2 ショパン作曲《ピアノ協奏曲第1番》
      F. Chopin:Piano Concerto no.1, E minor, op.11
          オハド・ベンアリ(Mr. Ohad Ben-Ari)・・・・ピアノ
    3 メンデルスゾーン作曲《八重奏曲》(管弦楽編曲)
      F. Mendelssohn:Octet op.20
              Version for string orchestra
   《ドロン・サロモン指揮キブツ・チェンバー・オーケストラ》

●舞台リハーサルのとき初めて紋付袴の正装で登場したら、オーケストラ総員が起立して私を迎えた。このとき以後、彼らの私に対するまなざしが変った。民族衣装とは何か?

●本番での《スギハラ》の尺八演奏、相変わらず曲の全体像はつかめなかったけれど、なぜかオーケストラの呼吸が伝わり、手ごたえがあった。演了した瞬間、笑いたくなった。作曲者が舞台に上がってきて「あなたに感謝します」と言って握手。しかし同じ演奏は二度とできない。即興演奏の面白さと恐さ。

●エルサレムよりウリー・エプシュタイン博士が来聴。後日エルサレム・ポスト紙(Jerusalem Post)に批評を掲載した。

3月13日(水)

●午前中、再びテルアビブ市内を歩き回り、ディゼンゴフ・センターのテロ現場にも立ち寄った。
 日本大使館一等書記官の羽田恵子さんから「テロ現場を見に行かないように、路線バスに乗らないように」と警告されていたけれど、約束を二つとも破った。
 にぎやかなショッピング・センター街のど真ん中に花輪や蝋燭がところせましと飾られた一画があり、その周辺のビルの外壁が広範囲にわたって崩れ落ちていた。爆弾の威力のものすごさが生々しく伝わってきて、そこで20名近くの人間が死亡したということが、容易にありありと想像できた。どちらかといえば浮かれたような気分のテルアビブ繁華街には似合わない不思議な現実離れした光景だと思った。そして、この浮かれたような気分の底に、目には見えないけれど、おどろおどろした憎悪と恐怖心が渦巻いていることを悟らされたとき、私の背筋が冷たくなった。何事があっても冷静でいなければならない、このことだけは誰に対しても主張しようと思った。

 20:30〜
 第2回コンサート
 於:エイン・ハショフェット(Ein Hashofet)文化ホール

●テルアビブから北北東へ自動車で約2時間、中央海岸地方とガリラヤ地方をさえぎる山脈の稜線上に位置する静かなキブツでのコンサート。大ホールでのコンサートだったが、たまたまエジプトのシャルムエルシェイクで開かれた《反テロ首脳会議》の当日だったため、「全国民がTVニュースにくぎづけ」とかで、観客数は約500名。

●オーケストラ団員は観客数のことは話題にもしない。そういえば数日前、指揮者のドロン・サロモン氏はこう語っていた。
 「私たちにはスケジュール通りに事を運ぶことがたいせつなのだ。湾岸戦争のときもキブツ・チェンバー・オーケストラはスケジュール通りにコンサートを開いた。イラクがスカッド・ミサイルを撃ってきたときでも、私たちは腰にガスマスクをぶらさげながらちゃんと演奏した。観客?来る人は来たよ」

●《スギハラ》の尺八演奏、この日は手ごたえがなかった。歯車がうまくかみあわなかった印象。打楽器のミハ・バルアム氏は汗びっしょりで「今日の私は最高だった!」
 観客の反応は上々だったようだが、私にはどうしても《スギハラ》という曲が把握できない。いったい観客はどう感じたのか知りたかった。

●はるばるエルサレムよりフローラ・マルガリットさんが夫君のエイタン・マルガリット氏(Mr. Eitan Margalit=外交官)とともに来聴。感想を求めると「信じられないくらいに素晴らしかった!」もちろんこれは単なる美辞麗句。
 終演後、同夫妻に連れられてエルサレムへ。

3月14日(木)

●午前中、フローラ・マルガリットさんから日本文化の《間》の概念に関する難しい質問をあびせられた(彼女は論文作成中)。

●エルサレム見物に出かけたが、たまたまアメリカ合衆国クリントン大統領のエルサレム訪問とかちあって、交通規制で身動きできず、何ひとつ見られなかった。
 私の目の前をクリントン大統領と昨年暗殺されたラビン首相の夫人を乗せた自動車が通過した。

●路線バスでテルアビブへ。クリントン氏もテルアビブへ向かったとかで国道も大渋滞。

●夜、テルアビブで尺八愛好家ヨシ・パイタン氏と合流し、シラットの同氏宅へ。シラットというのはテルアビブとエルサレムのちょうど中間にある小さな町。ふたたび国道をエルサレム方向へ・・・・。西岸地区との境界すれすれにある同氏宅で隣人や日本文化クラブ(The Israeli Japanese Culture Club)の会員などを招いて夕食会。

●ヨシ・パイタン氏はテルアビブ大学の博士課程で海洋生物学を専攻する学者の卵。尺八を愛好していて、私の3人目のイスラエル人門人である。
 ちなみに最初のイスラエル人門人はドリツ・バルネアさんで、2人目はシェビ・ソカルさん(Ms. Shevi Sokal)。ドリツ・バルネアさんは現在レホボットに在住しているが、仕事(心理カウンセラー)が忙しすぎて尺八はやめている。シェビ・ソカルさんは消息不明。というわけでヨシ・パイタン氏は現在イスラエルでは数少ない(おそらく2名)尺八演奏家のひとり。今回の私の《スギハラ》の仕事は、このヨシ・パイタン氏の尽力により実現した。

3月15日(金)

 12:30〜
 尺八セミナー
 於:ラマットガン美術館(Ramat-Gan Museum for Israeli Art)
 主催:日本文化クラブ(The Israeli Japanese Culture Club)
 司会:アリエ・クッツ氏(Mr. Arie Kutz)
 挨拶:羽田恵子さん(日本大使館)
    メイール・ミンデル氏(作曲家)
 参加者:約30名
 尺八演奏と解説(約1時間)
 演奏曲目:《虚鈴》《神保三谷》《雲井獅子》《鶴之巣籠》《民謡メドレー》

●日本文化クラブというのは、日本の文化芸術を愛するイスラエルの芸術家や芸術愛好者によって2年前に結成された非営利団体。日本大使館の後援のもとに文化事業を主催したり、日本人芸術家の公演を開催したりしている。今回初めての尺八セミナーを開催。

●私は主として往昔の虚無僧が吹奏した《古典本曲》を紹介したが、このような音楽に接したのは初めてらしく、非常な興味をもって静聴していただいた。尺八の古典本曲は現在アメリカやヨーロッパで関心を集めているが、私はイスラエルではもっと強い関心を集めるのではないだろうかと期待していて、やはり期待通りになった。
 10年前、テルアビブ大学教授のシャイ・ブルスティン博士(Dr. Shai Burstyn)は私の演奏する古典本曲を聴いて、「ユダヤ教のある種の詠唱の節回しと似ている。ユダヤ人には非常に近しい音楽だ」と評し、古典本曲のことを詠唱音楽(chanting music)と呼んだ。その説の真偽のほどは私には分からないが、いずれにせよ古典本曲はユダヤ人には非常に好まれる音楽であると、私は思っている。私はアメリカに150名近い尺八愛好者を知っているが、驚くべきことに、そのうちの実に8割がユダヤ系アメリカ人なのである。

19:00〜
シャバット・パーティ(shabbat party=ユダヤ教の安息日を祝うパーティ)
於:ヨシ・パイタン氏の両親宅(リション・ル・ツィオン)

●たまたまパイタン家の家族全員が顔をそろえることとなり、にぎやかなパーティとなった。ヨシ氏の姉のティルツァ・パイタン・セラさん(Ms. Tylza Paitan Sela)は夫君のモシェ・セラ氏(Mr. Moshe Sela=モーさん)とともに鹿児島県串木野市に在住中で、この日偶然ながらビザ更新の関係で帰郷していた。私はティルツァさんとは電話で何度か話したことがあったが、この日が初対面。イスラエルで会えるとは思っていなかったので、驚いた。
 彼女は日本の文化に憧れて渡日、絵画や書道などを学んで、いまでは串木野市や鹿児島市でたびたび個展を開いたり、文化講演会の講師になったりしている。モーさんは建築家で、日本の建築に興味をもち、いまは宮大工として串木野市内の仏教寺院の造営に参加している。その関係で現在夫婦ともにその寺院に住み込んでいる。近い将来イスラエルに帰って、モーさんの手で日本建築をつくり、そこを日本とイスラエルの文化交流の拠点にしたいと語っていた。「かならずつくります」と言うふたりの目は、修飾的表現ではなく本当に輝いていた。

3月16日(土)

●シャバット(安息日)

 12:30〜
 キブツ・チェンバー・オーケストラ《ファミリー・コンサート》
 於:モアツ・ハイム(Moaz Chaim)キブツ食堂
 演奏曲目:《フィガロの結婚》(オーケストラ)
      《火祭りの踊り》 (オーケストラ)
                       他
      《民謡メドレー》(尺八)

●ガリラヤ湖の南、死海の北、ヨルダン渓谷とベートシャン渓谷が合流するあたりに位置する小さなキブツでのコンサート。
 キブツのすぐ近くにヨルダン川が流れ、その対岸はヨルダン王国。いまでは国交が樹立していて平和そのものだが、つい最近まではおそらくピリピリした緊張感漂う地域だったのだろう。
 いわゆる大地溝帯の北辺に位置し、海抜マイナス200メートルくらいの低地で、《辺境》という言葉を思い出させるようなところだが、実際にはヤシの木が茂り緑豊かな南国の楽園ふう。ここでの生活が本当に楽園なのか、そこまで私には分からない。
 《ファミリー・コンサート》ということで、キブツの住人が家族連れで200名くらい集まってきて、子供が多かった。私は尺八で日本の民謡を数曲メドレーで演奏した。古典本曲の気分を含めて、なるべく格調を下げないようにつとめながら、同時になるべく派手に聞こえるように演奏してみたら、意外なことに子供たちが大喜びしていた。

 21:00〜
 第3回コンサート
 於:ベートシャン・ハキマロン劇場(Hakimaron, Beit Shean)

●町はずれの小さな丘のふもとに案内されて、「こんなところで?」と不審に思っていると、何とその丘には大きな鉄の扉があって、扉の中へ入ると、そこには大きな立派な劇場があった。客席は2000席くらいだろうか。丘の内部をくりぬいた地下の大劇場。外へ出てみると、普通の自然の丘にすぎない。何やら秘密めいた劇場の雰囲気が気に入って、そのアイデアに感心していると、「ここは防空シェルターを兼ねているのだ」との説明。少々認識の甘さを恥じた。
 観客は500名くらい集まったことと思うが、ホールが立派すぎてやや淋しく感じた。しかし《辺境》の地でこれだけの人を集めるとは、きっとキブツ・チェンバー・オーケストラは地味ながら大衆の根強い支持を得ているのだろうと思った。

●こんなところで日本人に出会った。若い夫婦とその友人の女性1名。私の尺八を聴きに来たという。「こんなところで日本人に出会うとは思わなかった」と言ったら、「こんなところへ尺八の先生がやって来るとは思わなかった」という返事。
 彼らは田崎真珠の社員で、ダイヤモンド加工技術の研修のため派遣されてきたという。ベートシャン郊外のキブツにもう何年も暮らしているのでヘブライ語はペラペラ。このような《辺境》に派遣されたせいか、会社員でありながら会社員らしくなく、質実な辺境人!の雰囲気を漂わせていた。水がにじむように世界の隅々にまで進出している日本企業の執念のようなものを感じると同時に、企業が結果的にこのような人材を育てていることを面白く思った。

●この日もまた《スギハラ》には悪戦苦闘した。びっしょり汗をかいた。どうしても曲が理解できず、こんなところで何のために尺八を吹いているのか、わけが分からなくなった。作曲者には悪いけれど、これはとんでもない駄作かもしれない、とさえ思った。しかし当の作曲者は「日に日に良くなっている」とご満悦なのだから、ますますわけが分からない。この日は新聞記者も来ていたそうで、批評が気になった。

3月17日(日)

●路線バスでエルサレムへ。

●フローラ・マルガリットさんの案内で国会議事堂(Knesset)及びイスラエル美術館(The Israel Museum)を見学。

●残念至極なことに時間がなく、エルサレム・オールドシティ訪問は、涙をのんで次の機会を待つことにした。

 17:00〜
 尺八セミナー
 於:イスラエル外務省(Ministry of Foreign Affairs, エルサレム)
 司会:シュロモ・イスラエリ氏(Mr. Shlomo Israeli=音楽評論家)
 参加者:約50名
 尺八演奏と解説(約1時間30分)
 演奏曲目:《虚鈴》《神保三谷》《鹿之遠音》《むかいぢ》《民謡メドレー》
      《北国の春》

●若い外交官のためのセミナー。世界の文化を理解するための教養セミナーの一環として、初めて尺八が取りあげられた。まるで大学の音楽学部でセミナーを開いているような雰囲気があり、イスラエル外交官の音楽的教養の深さと異文化に対するマナーの良さには感心した。

●セミナー終了後、シュロモ・イスラエリ氏より同氏が担当する深夜ラジオDJ番組にゲストとして出演するよう要請あり。私は尺八演奏は問題ないものの、英語でのトークには自信がなく、難色を示したら、「大丈夫、大丈夫、問題ない」とのこと。事前にちゃんと打ち合わせをするという約束のもとに出演を受諾した。

 20:30〜
 尺八セミナー
 於:Confederation Building(エルサレム)
 司会:ハナ・エングラルドさん(Ms. Chana Englard)
 参加者:約100名
 尺八演奏と解説(約1時間30分)
 演奏曲目:《虚鈴》《神保三谷》《雲井獅子》《むかいぢ》《鹿之遠音》
      《鶴之巣籠》

●ハナ・エングラルドさんは、10年前ヘブライ大学の学生だったとき、私が同大学で開いたレクチャーを受講したという。失礼ながら私には記憶がなかった。いまは同大学音楽舞踊アカデミー(Jerusalem Rupin Academy of Music and Dance)に勤務しているハナやかな女性。
 彼女の要望で急遽実施することになったセミナーだが、同大学の学生を中心に若い人たちが約100名も集まった。決して楽しいとは言えない古典本曲ばかりのセミナーなのに、みんな実に楽しそうに受講してくれたことが、ありがたくもあり不思議でもあった。
 ヘブライ大学教授ウリー・エプシュタイン博士夫妻も来聴。

●セミナー終了後、ハナ・エングラルドさん、フローラ・マルガリットさん及びヘブライ大学でヘブライ語と音楽をまなんでいる屋山久美子さんとパブで歓談。

3月18日(月)

 10:00〜
 TV出演(録画)
 TV局:イスラエルTV(Israeli TV, channel 1, エルサレム)
 番組名:Kalaydioskope(ロシア語番組)
 放送予定:3月29日(金)午後3時30分
 司会者:アレックス・メドビン氏(Mr. Alex Medvin)
 出演者:倉橋義雄
     メイール・ミンデル氏

●いわゆるワイドショーのようなものであるが、知的な気品ある番組。
 《スギハラ》についてメイール・ミンデル氏が司会者と対談しながら説明し、私がテーマ・パターンを尺八で演奏した。対談の内容については、ロシア語だったため(メイール・ミンデル氏はロシアからの移民)、何も分からなかった。

●正午頃、ヘブライ大学教授ダリア・コーヘン博士(Dr. Dalia Cohen)と10年ぶりの再会。同博士の案内でヘブライ大学音楽舞踊アカデミーを見学。

●エルサレムYMCAにてダリア・コーヘン博士及び妹のスマダル・ギベルマンさん(Ms. Smadar Giberman=音楽家)と昼食。

 16:30〜
 尺八セミナー
 於:Kerem Alliance Israelite Universelle(エルサレム)
 司会:ウリー・エプシュタイン博士
    ダリア・コーヘン博士
 参加者:約100名
 尺八演奏と解説(約1時間30分)
 演奏曲目:《虚鈴》《神保三谷》《むかいぢ》《紫鈴法》《鹿之遠音》

●エルサレムの音楽関係者のためのセミナー。音楽学者、作曲家、学生などが集まった。なごやかな雰囲気ではあったが、演奏法や楽譜の表記法などについて専門的な質問が相次いだ。音律や拍子をはじめ旋律についても西洋音楽とはあまりにも掛け離れた音楽であるために、とまどっている様子も感じられた。しかし従来の音楽的常識をくつがえすものに出会ったからといって、それを拒絶するのではなく、素直に美しいものは美しいと認められる心の余裕が、私にはうらやましかった。

●メイール・ミンデル氏とともにタクシーでレホボットへ。もうひとりのイスラエル人尺八演奏家ヤエル・シャロニさん(Ms. Yael Sharoni=エルサレム在住)が見えなくなるまで私たちを見送ってくれた。

 21:00〜
 心理学者のパーティで尺八演奏
 於:レホボット(Rehovot)市内のアパート
 参加者:約30名

●ドリツ・バルネアさんの要請で尺八を演奏。《民謡メドレー》と《北国の春》を演奏。イスラエル人だけでなく、ヨーロッパから招かれた学者も数人交じっていたが、みんな単純素直に喜んでいた。

3月19日(火)

●メイール・ミンデル氏の招待で、同氏が居住するキブツ・ネグバ(Kibbutz Negba)に滞在することになった。

●ネグバというのは《ネゲブ砂漠へ!》(To Negev!)という意味。かつてここがイスラエルの最南端であったころ、砂漠への思いをこめて命名されたという。イスラエル南部の広大な平原の中に島のように浮かぶキブツ。遠くにかすかにジュデア山脈が見えていた。住民数は約300名。

●午前中、メイール・ミンデル氏の娘さんといっしょに、近所のハメイヨアブ温泉で無為にすごす。

●キブツ・ネグバ食堂で昼食中、メイール・ミンデル氏が興奮したおももちでやって来た。「信じられない朗報だ。夢が現実になった(Dream comes true!)」。何事かと身構えていると、同氏は私に新聞のコピーを示した。英字新聞エルサレム・ポスト紙(Jerusalem Post)。エイン・ハホレシュでの第1回コンサートの批評が載っていた。筆者はウリー・エプシュタイン博士。読むと、《スギハラ》を作品・演奏ともに絶賛してあった。私は「少しほめすぎだ」と思って体がこそばゆくなったが、メイール・ミンデル氏によると、エルサレム・ポスト紙で絶賛されることはこの国の音楽家にとっては最高に名誉なことであるという。

●午後、メイール・ミンデル氏の案内で、キブツ・ネグバ見学。同キブツはそのまま野外博物館になっていて、キブツの先輩たちがいかに勇敢に戦ってキブツを守り発展させてきたか、見学者たちに具体的に理解させるしくみになっていた。毎日のように団体見学者が訪問しているという。メイール・ミンデル氏はネグバ博物館のマネージャーでもある。
 この日の見学者は私ひとり。相次いだテロ事件のせいで、外国からの団体の大半がキャンセルしてしまって、ここ数日はひまだという。
 「このような時機に予定通りイスラエルを訪問してくれたあなたは勇敢な人だ。私たちはきっとあなたもキャンセルするものと思っていた。家族の人はさぞかし反対したことだろう」
 「イスラエルがむしろ安全な国であることを、私は知っているし、家族も知っている。危ないといえばニューヨークのほうが危ない」
 「あなたは変な日本人だ」
 まず文化ホールで映画鑑賞。英語の字幕スーパーつき。1948年の独立戦争(第1次中東戦争)でキブツ・ネグバの住民がいかに勇敢に戦ったかということを紹介する内容。当時の実写フィルムと証言(いまはキブツで静かに暮らしている老人たちの証言)を交えてたくみに構成されていた。
 「われわれが戦った相手はゲリラではない。当時はベエルシェバもエイラートもなくここがイスラエルの最南端だったから、ここへ攻めてきたのはエジプトの正規軍だったのだ。われわれには武器も金もなく、ただ知恵と勇気だけで正規軍相手の最も困難な戦いにいどみ、住民の実に1割を亡くしたけれど、ついに勝った。われわれはわれわれ自身の生活を守り、そしてイスラエルを守ったのだ」とメイール・ミンデル氏の誇らしげな説明。
 「そのときあなたも戦ったのか」という私の質問に、同氏はつまらなさそうな顔をして、
 「私はまだ2歳だった。しかもソ連にいた。私は、1958年、12歳のとき両親とともにイスラエルに移住して、そのとき以来ずっとここキブツ・ネグバで暮らしている。私には誕生日がふたつある。ひとつは本当の誕生日で、もうひとつはネグバへ移住してきた日だ。私はネグバで生まれ変わり、ネグバの人間になった。ネグバの先輩たちの遺産を守り、それを若い人たちや新しい移民者に伝えるのが、いまの私の使命だ」
 戦没者共同墓地を参拝。男女戦士の像が立っていた。
 「ポーランドから来た男がいた。その男は戦争にそなえてキブツの地下に大きな穴を掘るように提案した。何のために? みんな不審に思ったが、その男の言うことをきいて深い穴を掘った。やがて戦争が始まり、エジプト軍の猛爆撃があった。しかしその男の穴のおかげで、キブツの犠牲者は最小限にくいとめられた。その男の知恵がキブツを救った。いまその男もこの墓地に眠っている」とミンデル氏。
 小学校見学。日本の分教場ふうの質素な校舎ながら、十数台のコンピューターもそなえられていた。いまはキブツの運営にも農業にもコンピューターが利用されていて、コンピューター教育は必須とのこと。
 動物園見学。小規模ながらいろいろな動物が飼育されていた。動物たちの世話はすべて小学生たちがしているという。小学生教育の一環としての動物園。
 「生き物を愛するということは、ただペットとして可愛がることではない。毎日きっちり食べ物をあたえ、病気を治し、ときには糞まみれになって、はじめて真の愛情をはぐくむことができる」とミンデル氏。
 ジンバブエから移住してきたというたくましい青年が、動物飼育の指導員として働いていた。
 フィールドアスレチック。日本のそれよりも大きく高く複雑で、面白そうでもあり危険そうでもあった。
 「キブツの子供たちは勇敢でなければならない。高いところを恐れてはいけないのだ。子供たちはここで遊び、そして勇気を身につける」
 立札があり、ヘブライ語と英語で次のように書かれていた。
 「子供が負傷した場合その責任は両親に帰せられる。危険につき観光客の子供は遊ばないように」
 キブツの中央部に物見櫓のような古いコンクリート製の水槽タンクがあった。上部のタンクにはいびつな丸い穴が無数にあいていて、見る者に異様な緊張感を強いた。
 「このタンクは、48年前、戦争にそなえて僅か35時間でつくられたものだ。そして戦争中は物見櫓のかわりになった。当然敵の集中砲火をあびた。あるときタンクの上で見張りをしていた者が銃弾に倒れた。さて、だれがその者を助けに行くか?だれしもがためらっていたとき、ひとりの青年が勇敢にも砲火の中に飛び出し、ハシゴを昇り、倒れた者を背負って帰ってきた。その青年はネグバの英雄として称賛された。しかし、25年後の1973年、ヨムキップール戦争(第4次中東戦争)で不幸にもその英雄の息子が戦死した。英雄は息子の死をいたく悲しみ『もう私には生きていく資格がない』と言ってピストル自殺した。ネグバの悲劇である」
 「ところで、キブツの目標とは何か?」
 「平和な生活である」
 「しかしあなたの教育によってはぐくまれるのは、外に対する《敵意》ではないだろうか?」
 「あなたは何が言いたいのか?」ミンデル氏の機嫌が悪くなった。
 「私が言いたいのは、もう時代は変わったのだから、これからは何事があっても冷静でいなければならない、ということだ。あなたはユダヤ人で私は日本人だが、同時にあなたはあなた私は私でもある。個を見て全体を推量したり、あるいは全体を見て個を推量してはいけない。テロ犯人は憎んでも、だからといってアラブ人全体に対する敵意を持ってはいけないではないか」
 「私はあなたの意見に完全に同意する。だが、それはイスラエルでは難しいことなのだ。ふむ、実に難しい。あなたは反ユダヤ主義(anti-semitism)というものを知らない。ユダヤ人はただユダヤ人であるというだけの理由で殺されてきたのだ。またあなたは抹殺戦争というものを知らない。アメリカは日本を占領したけれど、全日本人を抹殺して全日本人から土地を奪おうとしたわけではない。ここでわれわれが戦った相手というのは、われわれの存在そのものを否定して攻めてきたのだ」

●ミンデル氏宅で夕食。
 夫人のツィビさん(Ms. Tzivi Mindel)は胃癌の大手術を終えたばかりだそうで、見るからに疲れている様子。せいいっぱい愛想良く私を迎えてくれたことが、私にはうれしくもあり、気の毒にも思えた。
 「妻は音楽家ではない。私の戦友だ。六日間戦争(第3次中東戦争)のとき同じ塹壕の中にいた。男と女の関係ではなく、戦友として、彼女は私の最良のパートナーだった」
 ツィビさんを語るミンデル氏の表情には、今度は癌という敵と戦っているツィビさんへの思いやりが満ちていた。

●夜、ミンデル氏が運転する自動車でエルサレムへ。
 同氏が指導する合唱団の練習を見学したのち、同氏とともにシュロモ・イスラエリ氏のラジオ番組に出演するため放送局へ。
 しかるに、何としたことか、どうしても放送局の所在が分からず、道に迷い迷い、あせりにあせり、やっとのことで放送局にたどりついたのが何と本番の4分前。打ち合わせをする余裕もなく、あわてふためいてスタジオへ。
 文字通りのぶっつけ本番生放送。

 22:00〜
 ラジオ出演(生放送)
 放送局:コルハムジカ(Kol Hamusica, IBA, エルサレム)
 番組名:MA'AVARIM(Natural Music of Far People)1時間番組
 DJ:シュロモ・イスラエリ氏
 出演者:倉橋義雄
     メイール・ミンデル氏
 演奏曲目:《むかいぢ》《鹿之遠音》《根笹派・松風之曲》《吾妻之曲》
      《スギハラ》のテーマ・パターン

●私としては最悪のコンディション。反省している。
 ウォーミングアップなしのぶっつけ演奏。打ち合わせなしのめちゃくちゃな英語トーク。非常に疲れた。

●イスラエリ氏は私に次のようなことを質問してきた。
★尺八はどうのような形状をしているのか、ラジオ聴取者にも理解できるように説明せよ。
★尺八の起源や歴史について説明せよ。
 「尺八は南アジアから日本に伝来したものであるが、一説によると、そもそもの起源はエジプトにある」と私が言うと、イスラエリ氏は「ほう、この辺じゃないか」と言って喜ぶ。
★尺八独特の音色にはどのようなものがあるか、実演せよ。
★面白いエピソードがある曲があれば紹介せよ。
 上記の質問には、めちゃくちゃな英語ながら、だいたい答えることができたが、次の質問には答えられなかった。
★《スギハラ》という曲をどう思うか、尺八演奏家の立場から述べよ。
 「うーむ、それは難しい質問である」
 「難しいか?」
 「答えるのも難しいし、演奏するのも難しい」
 「ははは、そんなに難しいか?」
 「ははは、難しい」
 「ははははは」
 イスラエリ氏とミンデル氏のトークはヘブライ語につき内容不明。《スギハラ》について語っていたことだけは間違いない。

●ハナ・エングラルドさんがラジオを聴いて、さっそく来局。ミキサー室から見学。
 放送終了後、エングラルドさんミンデル氏とロシア・パブで歓談。

3月20日(水)

●窓をあけドアも開放して、暖かく乾いた草原の風を部屋の中にまねきいれて、ひねもすコーヒーを飲みながらの読書。至福。

●イェディオット・アハロノット紙(Yediot Ahronot)のカメラマン、エヤル・フィシェル氏(Mr. Eyal Fisher)が来訪。私の写真を撮りたいという希望。紋付袴の正装で草原に立ちポーズ。

●メイール・ミンデル氏が、また興奮したおももちでやって来た。昨夜のラジオ番組で「《スギハラ》をCDに録音したいけれど金がない」ということを語ったところ、さっそく匿名氏から放送局に電話があり「2万シェケル(60万円)寄付する」とのこと。
 「これで録音できるぞ! 24日の最終コンサートに録音班がやって来るぞ!」

●キブツ・チェンバー・オーケストラの希望により、私はキブツ・ネグバ滞在をきりあげて、明日再びテルアビブのホテルに戻ることになった。送迎の都合によるもの。

●メイール・ミンデル氏の案内で農地見学。一滴の水をもむだにしないイスラエルの水利システムには驚嘆した。

●ミンデル氏宅で夕食。軍隊から一時帰休していた娘さんもいっしょに。恥ずかしがり屋の娘さんの唯一の質問「日本の男性はイスラエルのことをどう思っているのか?」

 20:30〜
 ネグバ・コンサート
 於:キブツ・ネグバ文化ホール
 司会:メイール・ミンデル氏
 演奏曲目:第1部(尺八)・・・・《神保三谷》《民謡メドレー》
      第2部(ブラス五重奏団)・・・・《ウィリアムテル序曲》ほか

●なごやかな楽しいコンサート。観客はキブツ・ネグバの住民約100名。
 各キブツでこのようなコンサートが定期的に開かれているとすれば、TVづけファミコンづけの生活よりはるかに文化的だし、また音楽家の生活を経済的に保証するうえでも大きな力になると思った。

3月21日(木)

●キブツ・チェンバー・オーケストラの自動車でテルアビブへ。

13:00〜
昼食会
於:アジア・ハウス(Asia House, Tel Aviv)
出席者:倉橋義雄
    ドロン・サロモン氏(指揮者)
    アハロン・キドロン氏(キブツ・チェンバー・オーケストラ事務局長)
    アビ氏(同事務次長)

●私への感謝、という名目の昼食会。
 演奏だけではなく私の態度が非常に友好的で協力的だったことへの感謝、だとか。私も「えらそうなソリスト」だとか「わがままな外国人」にはなりたくなくて、何でも自分でできることは自分でするように(当然のことではあるが)努力していたので、その点が理解されたことはうれしく、素直に感謝を受けることにした。
 おたがいに気心が知れてきたこともあり、気楽で楽しい昼食会であったが、話のはずみに「ぜひ日本で《スギハラ》を演奏したい」という希望がもちだされた。「実現に向けて努力していただきたい」。
 オーケストラを日本へ派遣するということは大変なことであり、ざっと計算しても2千万円は必要だ。一介の尺八演奏家にすぎない私には身にあまること、うかつに受諾できるようなことではない。私にできることといえば、今回の演奏旅行の成果を各界に報告すること、それだけは誠実に実行いたします、と約束した。

●夕方、長距離路線バスとタクシーを乗りついで、ハイファ北郊のキリアット・ビアリク(Kiryat Bialik)へ。ドリツ・バルネアさんの両親ハバ&ロルフ・ヨナス夫妻(Chava & Rolf Jonas)宅を訪問。
 ロルフ氏、「ラジオを聴いたぞ」と言って番組の録音テープをステレオ・スピーカーで再生してくれて、私は冷や汗。

●夜、ヨナス夫妻の友人たちを招いてのパーティ。私は尺八は吹かなかったけれど、そのかわり《耳なし芳一》の話を英語で語って、けっこうみんなを恐がらせた。

3月22日(金)

●午前中、ハバ&ロルフ・ヨナス夫妻の案内でツィポリ遺跡(Zippoli)見学。
 絵のように美しいガリラヤ地方の丘陵地帯にある古い遺跡。古代ペルシャ時代のものだとか。この国にあるものは、どれもこれも、気が遠くなるほどに古い。
 同じ遺跡の中のヘレニズム時代につくられたというモザイク床に描かれたビーナスの絵、はっとするほど美しく、いつかどこかで見たことがあるような気がした。ロルフ氏にそう言うと「あなたは女の顔は忘れないタイプだね」

●鉄道のキリアット・モツキン駅(Kiryat Motzkin)からテルアビブ行きの普通列車に乗車。ヨナス夫妻は感無量という表情で私を見送ってくれた。しかし実は翌日テルアビブでまた会うことになっていた。
 念願の鉄道でのんびりテルアビブへ。

17:00〜
シャバット・パーティ
於:ドリツ&アミール・バルネア夫妻宅(Dorit & Amir Barnea, レホボット)

3月23日(土)

●シャバット(安息日)

 11:15〜
 第4回コンサート(マチネー metinee)
 於:ツァブタ・ホール(Tzavta Hall, テルアビブ)

●ドロン・サロモン氏「テルアビブの観客は洗練されているぞ」

●メイール・ミンデル氏「今日はテルアビブだ。最良(best)の演奏をしてほしい。明日は録音だ。より最良(more best)の演奏をしてほしい」

●ツァブタ・ホールは思いのほか小さなホールで、客席数は700くらいだろうか。しかし超満員だった。いつもと違う緊張した雰囲気。

●《スギハラ》の演奏、驚くような手ごたえを感じた。何がどうなったのか分からない。しかしオーケストラの音が完全に私の手中にあって、思いのままに対話できるではないか。尺八を吹くにつれ、私は興奮を隠せなくなった。
 演了。何とも言えぬ充実感。割れるような拍手。鳴りやまない拍手。カーテンコール。アンコール。格調高く民謡を独奏。これで満足。

●休憩時のロビーで、観客からの握手攻め。とにかくすごい。ドリツ・バルネアさんが私の耳元でささやいた「今日の客はみんなあなたの尺八を聴きに来た。みんなそう言ってた」・・・・尺八がこんなにもてはやされることは、日本では決してありえないこと。信じられない。しかし、うれしい。

●観客の握手攻めが一段落したとき、ひとりの老紳士が近ずいてきて、そっと私に握手を求め、小さな声で「私は杉原氏に救われた者です。今日はありがとう」
 私は控室に戻って、しばらく呆然とした。「とんでもないことだ」と思った。私は《スギハラ》に気をとられて、杉原千畝氏のことを忘れていた。そんな私の演奏とは、いったい何だったのか。私はまったく無意味な演奏をしてしまったのではないか。私に感謝される資格はない。頭の中がモヤモヤした。しかし何とも言えぬ不思議な感動がこみあげてきた。こんな私が、感謝された!

●メイール・ミンデル氏がやって来て「どうだった?」と私にきいた。
 「今日は気持ちが良かった」
 「そうだろう。今日の演奏はいつもと違った。しかし今日のあなたはオーケストラに妥協していた」

●打楽器のミハ・バルアム氏の娘さんが「いつかあなたを招きたい」・・・・エルサレムの舞台芸術研究所で働いているという。実現すれば、うれしい。

●日本大使館の羽田恵子さん(一等書記官)が来聴。手作りいなりずしの差し入れ、ありがとう。

●ドリツ&アミール・バルネア夫妻と3人の子供たち、及びハバ&ロルフ・ヨナス夫妻と昼食。別れを惜しむ。

3月24日(日)

●テルアビブ市内で羽田恵子さんと昼食。大使館の支援に感謝。

 20:30〜
 第5回コンサート
 於:ドロツ(Dorot)地域ホール

●最後のコンサート。
 テルアビブから南へ自動車で2時間30分もかかる辺地のキブツでのコンサート。ガザ地区のすぐ東、ネゲブ砂漠までもうひといきのところ。こんな淋しいところでも観客は500名くらい集まった。
 メイール・ミンデル氏が言った通り録音班がやって来て、舞台リハーサルと本番と両方とも録音した。
 最後の《スギハラ》の演奏、不出来。力めども力は入らず、空振りの連続。こんな演奏が録音されたのかと思うと悔しかった。

●休憩時に舞台横でオーケストラ団員とのお別れセレモニー。
 アハロン・キドロン氏が挨拶。「はるばる極東から参加していただいて感謝している。キブツ・チェンバー・オーケストラは創立25周年になるが、このような経験は初めてだった。またお会いできる機会が来ることを望んでいる」

●控室でメイール・ミンデル氏及びドロン・サロモン氏とお別れ。
 メイール・ミンデル氏「今日の《スギハラ》は最高だった。良いCDができるだろう。人間の仕事には2種類あって、ひとつはダーティな仕事、もうひとつはクリーンな仕事だ。ダーティな仕事とは金もうけの仕事、クリーンな仕事とは精神的な仕事だ。私はキブツに住んで金にわずらわされることなく、ひたすらクリーンな仕事に打ち込んできた。あなたがオーケストラから謝礼金をもらうかもらわないか、そんなことは私は知らないが、私が見る限りあなたはイスラエルでクリーンな仕事を達成した」

3月25日(月)

11:15 テルアビブ発

−報告書終−