[A-2]井上征剛
ツェムリンスキー《人魚姫・管弦楽のための幻想曲》
  ──「死の交響曲」から生きることの痛みを描く音楽への展開

 当発表は、アレクサンダー・ツェムリンスキー初期の代表作《人魚姫・管弦楽のための幻想曲》(1902-03)を取り上げ、ツェムリンスキーが同時期に作曲の題材として検討した諸文学作品、原作であるアンデルセン『人魚姫』との比較、音楽手法の3点に着目し、彼の作曲活動におけるこの作品の意味について検討するものである。この作品は、もっぱらツェムリンスキーのアルマ・マーラーへの失恋をめぐるエピソードと結びついて知られている面があるが、ツェムリンスキーの作曲活動、とくに《むかしむかし》から《夢見るゲルゲ》に至る、彼の歌劇作曲史における重大な転機を示す作品でもある。
 ツェムリンスキーは《人魚姫》作曲に着手する前に、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、ケラー『村のロメオとユリア』などをもとにした作品を構想していた。これらの文学作品とアンデルセン『人魚姫』に共通するのは、主人公が世界に存在することに痛みを感じる者として描かれていることである。これらの文学作品から『人魚姫』を題材として選び、作曲を進める過程において、ツェムリンスキーは複数の登場人物の中から、あえて人魚姫だけを音楽で描く方向へと進んでいき、その結果、この作品は『人魚姫』の物語そのものではなく、主人公である人魚姫の心の痛みを描く音楽として成立することになった。
 《人魚姫》冒頭部の、短い音型の繰り返しによるたゆたう水の情景描写に主人公の閉塞した心理を重ねる手法を、ツェムリンスキーはのちに《夢見るゲルゲ》でも用いた。一方で、この作品で用意されている急転直下の「ハッピーエンド」は《夢見るゲルゲ》では採用されない。このような共通点と差異は、閉塞的な心理状態にある主人公が自分の置かれた状況をどのように受け止めるか、という問題に作曲家が出した答えが、《人魚姫》作曲時と《夢みるゲルゲ》作曲時で異なっている、ということを示している。

[A-3]和田ちはる
《Jüdische Chronik》が体現する思想 ──共同声明としての音楽作品──

 1960-61年に、P. デッサウ、B. ブラッハー、R. ヴァーグナー=レゲニー、K. A. ハルトマン、H. W. ヘンツェの5吊の作曲家が、J. ゲルラハのテクストに基づいて共同で書いた作品《Jüdische Chronik(ユダヤ編年記)》は、ドイツで戦後再び芽生えてきた、ネオ・ファシズムやアンチ・セミニズムといった風潮に対する警告として企図された。しかし、ドイツ全体への呼びかけとするべく、東西両ドイツの作曲家によって創作されたにもかかわらず、初演直前のベルリンの壁の建設という作品の主張とは別の政治的事情によって、この作品は最初の一歩から挫折を強いられた。H. ハイスターは「必要とされている時と場所においてほど上演されにくい」という、この種の政治参加の音楽のもつ逆説性を指摘したが、そのような音楽が、ときに時や場所を越える普遍的な説得力を持っていることも確かである。その意味で、この作品は今日においてもなお、一考に値するものであると考えられる。
 この作品は、現実の社会状況に対する芸術領域における反応として、比較的短期間で制作されたものであるが、その一方で、作品としての統一感を得るべく、編成や作曲上の基本素材に関するいくつかの事前の合意がなされている。コントラバス以外の弦楽器を用いない特殊なオーケストラ編成や、複数の作曲家の間で部分的に共有されている音列素材は、この作品がいわば「共同声明」といった性格にふさわしい全体を獲得することに貢献するものである。これまでこの作品は、音楽的な内容よりもその制作意図のほうにより大きな関心が向けられてきたが、本発表ではこのような音楽そのものの構造に重点を置いて、個々の作曲家による各楽章の分析を通して作品の全体像を明らかにするとともに、作品の発案者であるデッサウが、集団での創作という方法にどのような可能性を見ていたのかということを考察することを目指す。

[A-4]寺内大輔
J.ゾーン《コブラ》演奏における演奏者間の関係性──G. ベイトソンの視点を参照して

 アメリカの作曲家,ジョン・ゾーン John Zornの《コブラ(Cobra)》(1984)は,ゲーム的な要素を持つ集団即興演奏のための作品である。演奏者は,あらかじめ決められたルールにしたがい,演奏の調整役である<プロンプター>や,他の演奏者からの指示のもとで即興演奏を行う。
 しかしながら,それらの指示のほとんどは,音階やコード,音素材,音楽様式等,音や演奏内容に関わるものではなく,演奏行動のタイミングや様態に関わるものである。そのため,指示の一つひとつは,奏者間に多様な関係性をつくり出す。ソロ演奏から全員による演奏まで,あらゆる組み合わせが可能であり,複数のデュオが同時多発することもあるなど,そのヴァリエーションは,実に幅広い。また,《コブラ》のルールには,戦争ゲームからヒントを得たアイデアが盛り込まれていることから,時には演奏者同士が協力したり敵対したりする仕組みも備わっている。
 本研究では,《コブラ》のルールに含まれる様々な指示が,奏者間にどのような関係性を生じさせる可能性があるかについての整理・分類を行い,《コブラ》の演奏者全員が,全体的にどのようなシステムを生じさせているのかを考察する。その際,<精神過程>という概念を提示して,システムの様態を考察したG. ベイトソンの視点を参照する。

キーワード:ジョン・ゾーン,コブラ,即興演奏の様態,グレゴリー・ベイトソン,精神過程

[B-1]池上健一郎
演奏指南から作曲原理へ──ヨーゼフ・ハイドンの「変奏反復veräderte Reprise」をめぐって

 本発表は、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809年)の変奏技法とその美学を、いわゆる「変奏反復veränderte Reprise」を含む作品を分析対象として考察するものである。
 「変奏反復」の概念は、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788年)の《クラヴィーアのための6つの変奏反復付きソナタ》(1760年出版)に由来し、各形式部分を旋律の装飾的変化とともに反復することを指す。18世紀の演奏習慣において、旋律の即興的変奏は演奏家に当然求められる能力であったが、当時の理論家がたびたび指摘しているように、聴衆の喝采を浴びるために楽曲の本質を損なうほどの過度な変奏を行う者も少なからず存在していた。《変奏反復付きソナタ》は、こうした背景のもとで成立した、作曲家自身によって記譜された即興演奏の手引きという教育的性格を持っている。
 ハイドンは、特に1760年代後半から1780年代初頭にかけての室内楽作品において、おそらくエマヌエル・バッハから受け継いだ「変奏反復」を導入している。ただし、テンポの速い楽章の主要形式部分を全て反復したバッハとは異なり、緩徐楽章において、ソナタ形式の呈示部にのみこの手法を用いている。従来の研究においては、ハイドンの新機軸としてこうした「外面的」な変化のみが繰り返し指摘されてきた。しかし、発表者は、変奏反復部における旋律の体系的変化、発展的な形式の構成、下声部の部分的変奏といった点に着目し、ハイドンにおいて、「変奏反復」が演奏指南を主眼としたものから純粋な作曲原理へと質的に変化していることこそが問題であると考える。
 1780年以降、ハイドンは従来の「主題と変奏」にとどまらない多様な変奏曲形式を模索してゆくが、ソナタ形式の大規模な変容を伴う「変奏反復」付き楽章には、既にその端緒を見ることができる。また、それらの作品は、しばしば断絶が語られる1770年代初頭までと1780年代以降のハイドンの作曲様式を橋渡しする事例と評価することもできるだろう。

[B-2]大津聡
音楽家評伝と著者の伝記、あるいは評伝と歴史主義:ヤーンのモーツァルト評伝におけるオペラ《皇帝ティートの慈悲》を巡って

 オットー・ヤーンによるモーツァルト評伝(1856/59)は、モーツァルト評伝の歴史にそびえ立つ巨大な記念碑である。また、受容史的観点から見ても、ヤーンが描いたモーツァルトの全体像は、今日のモーツァルト像にまで影響を及ぼし続けていることも事実である。しかしながら、人間は特定の時代に縛られた存在でもあり、ヤーンによる評伝の後継者、ヘルマン・アーベルトが示唆している通り、評伝は、特定の時代の読者へのメーセージであるという宿命から、完全に免れることは出来ないのである。また、当然ながら、一個人の主観から完全に自由な音楽家の評伝というものも幻想である。ゲルノート・グルーバーは、ヤーンのモーツァルト評伝は、ヤーン自身の伝記、すなわち、ヤーンの経歴から、理解されるべきものであると常に示唆してきた。これは、評伝と、その著者の生涯との関係、あるいは評伝と歴史主義という問題である。グルーバーの指摘では、ヤーンのモーツァルト評伝の成立に先立つ19世紀半ばの政治的出来事、なかんずく、1848/49年の革命とヤーンとの関係が重要なトピックとして提示されるが、実のところ、それについて、ある程度具体的かつ論理的な説明がなされてきたとは言い難い。本研究は、ヤーンによる、初の本格的なモーツァルト評伝の成立事情を出発点として、ヤーンの評伝記述と彼自身の伝記的側面との関係について、独自の観点から光を当てようとするものである。膨大なモーツァルトの「生涯と作品」についての記述の内、本発表では、オペラ《皇帝ティートの慈悲》の評価の問題に着目する。彼の《皇帝ティートの慈悲》についての批判的記述を多角的に分析し、音楽家評伝とその著者の経歴、評伝における歴史主義の問題の一例を考察する。

[B-3]丸山瑶子
L. v. ベートーヴェン弦楽四重奏曲集Op. 18とOp. 59の比較分析
模倣書法の変化と楽曲構成との関連──同時代の弦楽四重奏様式に対する考察を含めて──

 従来、ベートーヴェンの弦楽四重奏書法はOp. 18(1800年成立)とOp. 59(1806年成立)の間で飛躍的に変化し、そしてこの様式変化は当時の弦楽四重奏の演奏会形態の変化に誘発されたと言われてきた。しかし未だに、両作品の比較は十分でなく、また音楽社会一般の変化が様式変化の理由とされながら、同時代の弦楽四重奏は殆ど考察されていない。以上の問題を解決するため、今まで発表者はベートーヴェン作品と同時代の弦楽四重奏を様々な観点から比較してきた。本発表ではそのうち3声以上の模倣書法を取り上げ、書法の変化と、楽曲構成との関連を考察する。
 Op. 18とOp. 59の模倣書法には次の相違がある。第一に声部の入りの順序が異なる。短い素材が模倣される際、Op. 18では内声から外声、または外声から内声の順で声部が加わる例が圧倒的に多い。一方作品59では、音高の高い順、または低い順に声部が入り、素材が音の高低に沿って直線的に模倣される例が急増する。更に直線的な模倣の一種として、高音域から低音域への模倣と逆方向の模倣が連続する例が増す。その結果、例えば、まず上声にある素材が低声へ下がった後、今度は低声から高音域へ素材が浮上し、最終的に再び上声が主旋律を続ける、といった構図が随所に生まれる。こうした素材の上下移動の中でも、低声の素材を引き継ぎ上声が主旋律を続けるというのは、Op. 59の主題構成における特徴と類似する。従って模倣声部の順序の変化は、模倣楽句の音響構成だけでなく、四重奏の主題構成法の変化とも関わると推察される。
 第二に、模倣される素材の長さや声部の入りの間隔が、Op. 18では規則的であるのに対し、Op. 59では上規則になる。そしてOp. 59ではこの上規則性が活用され、模倣が拍節法やシンタクスの変更に利用されていると考えられる。
 類似の書法は、同時代の四重奏にも現れる。本発表では同時代作品との比較を通じ、ベートーヴェンと同時代作曲家の様式的関連も検討する。

[B-4]越懸澤麻衣
ベートーヴェンのスケッチに見られる「過去の音楽」

 本発表は、L. v. ベートーヴェン(1770*1827)がどのように「過去の音楽」――とりわけG. F. ヘンデルとJ. S. バッハの音楽――を受容したのかについて、彼が書き残したスケッチに見られる書き込みから考察してゆく試みである。ここで対象とするスケッチとは、数小節のみの断片から、作品全体の筆写、そして弦楽四重奏などへ楽譜の形態を変えて書き写したものを指す。
 これらの調査から明らかとなるのは、まずヘンデル作品に関しては《メサイア》から、そしてバッハ作品に関しては《平均律クラヴィーア曲集》からの筆写が非常に多いことである。このことは、当時のそれぞれの作曲家像と照らし合わせるならば、時代に沿ったものであったと言える。また、ヘンデル作品に関して興味深いことは、ベートーヴェン自身の言説や当時の受容の状況からは、ヘンデルのオラトリオ作品が彼の崇高なイメージの基礎となっていたことが読み取れる一方で、スケッチはフーガ(楽章/部分)が目立つという点である。そしてバッハ作品に顕著であり、ヘンデル作品にもある程度は見られる傾向として、ウィーン時代初期のJ. G. アルブレヒツベルガーのもとで対位法を習っていた1794年頃、パトロンであり弟子でもあったルドルフ大公のために理論書を作成していた1809年頃、そしてフーガ作品が増え始める1817年頃に、多くのスケッチが書かれたことが挙げられる。このように年代を追って見ていくことで、ベートーヴェンの過去の音楽への関心の変遷をたどることになろう。
 たしかに、これらのすべてのスケッチとベートーヴェンの作品との直接的な影響関係を指摘することは難しい。しかしながら、ベートーヴェンがヘンデルやバッハの音楽に強い関心を示し、自らの語法の手本とすべく熱心に取り組んだ証として、大変貴重な資料と言うことができるだろう。

[C-1]野原泰子
フランツ・リストとロシア音楽──その接点と影響関係をめぐる考察

 本発表では、フランツ・リスト(1811〜86)と同時代のロシア人音楽家たちとの接点を明らかにし、両者の創作理念の共通項や、創作上の影響関係について考察する。
 リストはヴィルトゥオーソ・ピアニストとして1842年と43年にペテルブルクやモスクワを訪れ、その演奏や革新的なプログラムでセンセーションを巻き起こした。このときリストはミハイル・グリンカと出会い、彼のオペラ《ルスランとリュドミーラ》(1842)を知る。このオペラは「全音音階」の使用でも有吊で、リストはこのオペラやグリンカの才能を賞賛し、ロシア内外でグリンカ作品の普及に尽力した。
 その後、リストは「力強い一団」と呼ばれる作曲家たち(ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフら)と繋がりをもつ。彼らは互いの音楽活動や作品に高い関心を抱き、その価値を認め合っていた。
 作曲家としてのリストは、つねに音楽の新たな可能性を探求し、晩年(1869年以降)には調性からの離脱を試みている。ピアノ小品《無調のバガテル》では、調性離脱の手段として全音音階や八音音階(全音と半音の交互からなる音階)が用いられている。八音音階は、リムスキー=コルサコフが音画《サトコ》(1867年)で初めて意図的に用いた音階で、ロシアでは「リムスキー=コルサコフ音階」として知られる。 晩年のリストが、同時代の音楽のなかでも、とりわけ「力強い一団」の作品に多大な関心を寄せ、そこに「新たなアイディア」や将来性を見出していたことは、リストを訪ねたボロディンの証言や、リストの書簡から明らかである。リストは音画《サトコ》をはじめとするリムスキー=コルサコフの作品を高く評価し、またリムスキー=コルサコフのほうも、幾つかの作品でのリストの影響を認めている。リストの八音音階などの使用にも、こうしたロシア音楽との相互関係が影響している可能性が考えられる。

[C-2]久岡加枝
「農民の合唱」から「ポリフォニー」へ:
スターリン期グルジアにおける「農村音楽」の公民的普及と文化的真正性をめぐって

 20世紀初頭にフォノグラフを用いた民謡録音が進んだグルジアでは、「ポリフォニック」な音楽的特徴を持つ西部農村地域の農作業の男声合唱に作曲家や音楽学者の文化的・学術的関心が集まっていた。
 20〜30年代グルジアの文化政策に関する資料からは、第一次五ヵ年計画が始まった28年以降、農民や労働者などのプロレタリア的要素に基づく文化建設が進む中で、共和国の教育人民委員部によって西部農村のポリフォニックな合唱の歌い手を集めて組織された「エスノグラフィー合唱団」の公演を通じた「農村音楽」の普及が推進されてきたことが明らかになった。またこうした農村文化の発掘の場として当時のグルジアで開催されていた地方の合唱団を対象としたコンクール「藝術オリンピック」では、「ヨーデル」や「微分音」などの「農村の要素」に基づく地方の合唱団のパフォーマンスが高く評価され、コンクールで研鑽を積んだ演奏団体には、報奨金やモスクワ中央で歌声を披露する機会が与えられてきたことが明らかとなった。こうしたスターリン期の大衆動員的な文化政策を通じた「農村音楽」の公民的な普及によって、グルジアでは「雪解け」以降のフォーク・リバイバルを生み出す土壌が培われ、ソ連崩壊後も「農村のフォークロア」に基づく民族文化の創出が推進されてきている。
 一方で、「農村」の要素を重視した文化政策のあり方は、30年代中期以降、37年の中央における「グルジア藝術祭」の出演を目的とした各地の合唱団の統合が進む中で「西洋的・普遍的」なスタイルを志向したものへ変化していく。37年の公演における民俗器楽オーケストラやバレエ的な舞踊によるステージ向けの演出によって中央の聴衆の関心を集める中で、西グルジアの男声合唱は「農村音楽」の枠組みを越えて「ポリフォニー」としてソ連音楽界から脚光を浴び、後のワールドミュージックデビューへ繋がっていく。

[C-3]菊間史織
ナターリヤ・サーツの児童劇場における子どもの交響曲──《ピーターと狼》委嘱の背景

 交響的物語《ピーターと狼》(1936)はサーツとプロコフィエフのコラボレーションによって生まれた作品であるが、その詳細なプロセスはもっぱらサーツの自伝的記述だけが伝えているため、プロコフィエフ研究者たちは十分な情報を得てこなかった。本研究は《ピーターと狼》が劇場側から「子どもの交響曲」としてプロコフィエフに提案されていた点に着目し、委嘱の背景を探っていく。
 サーツが設立し、芸術監督をつとめたモスクワ児童劇場(1921*1936)、中央児童劇場(1936-1992)では、演劇に加えて、サーツによる解説を伴うシンフォニーコンサートが行われていた。劇場の専属指揮者・作曲家であったレオニード・ポロヴィンキンの発言によれば、1934年までには、そのコンサートのためにソヴィエトの作曲家による作品、特に児童オペラや交響曲、カンタータが必要とされるようになっていた。子どもの交響曲の作曲は劇場が数年来抱いてきた課題のひとつだったのである。また、1935、36年は子どものための娯楽一般が社会的、政治的な関心を集めた時期でもあった。本研究では、これらの事実関係を明らかにしながら、劇場側が求めた子どもの交響曲の作品形態を探るため、ポロヴィンキンによる子どもの交響曲《音楽家ヴォロージャ》を読み解いていく。《音楽家ヴォロージャ》は忘れ去られた作品だが、1936年にサーツの演出により《ピーターと狼》と共に上演されたとされており、自筆譜はグリンカ音楽博物館に所蔵されている。本研究は自筆譜に基づき作品をMIDI音源で再現する。《音楽家ヴォロージャ》が典型的な多楽章形式のスタイルをとりながら、楽器の説明を主な目的としてつくられていることを明らかにすることで、《ピーターと狼》が劇場の課題に沿った点と独創的な点が見えてくる。

[C-4]山下正美
サハ出身の作曲家 M. N. ジルコフによるサハ(ヤクート)民俗音楽研究の内容と目的

 マルク・ニコラエヴィチ・ジルコフ(1892-1951)は、現在のロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)のヴィリュイスク市でコサックの家庭に生まれ、サハ(旧称ヤクート)音楽史の基礎文献中で「初めてのヤクートの専門的作曲家pervy? professional’ny? iakutski? kompozitor」と評されている人物である。今日、ジルコフの吊は、首都ヤクーツク市中心部にあるジルコフ記念音楽専門学校にも残されており、2012年にはジルコフの生誕120周年を記念する催しが複数開かれるなど、サハ共和国では今日も顧みられる存在となっている。
 発表者がM. N. ジルコフに注目するようになったのは、複数人のサハ音楽関係者たちから、彼の著書『ヤクート民俗音楽Iakutskaia narodnaia muzyka』(ZHIRKOV 1981)を参照するよう薦められたことにある。本書はサハ民族音楽研究における基礎文献となっていることから、本書の内容と、その著者であるジルコフについても調査を進める過程で、彼がヤクーチアにおける専門的音楽文化の創設、すなわち西洋音楽の受容過程で重要な役割を果たした人物として評価されており、今日のあらゆる音楽実践においても影響を残していることが窺えた。
 そこで本発表では、まずジルコフの来歴を辿った上で、特に1930年〜40年代のサハ音楽史の展開とジルコフの活動とを関連づけていく。その後、彼のサハ民俗音楽研究の内容について検討し、その目的がサハの英雄叙事詩オロンホを題材にしたオペラ《ニュルグン・ボートゥル》(初演1947年)の創出と結びついたものであったことを明らかにする。同時代の他の共和国の事例も適宜、比較・考察の視野に入れながら、本発表では当時のヤクーチアを事例に、民俗音楽/専門的音楽文化と作曲家とのかかわりについて考察していきたい。

[D-1]丹下聡子
アルテスのフルート教本再考
──導音の指使いから読み解く19世紀の演奏習慣──

 本発表は、アンリ・アルテスのフルート教本(1880)の中に設けられている導音のための指使いの項目に焦点を当て、そこから19世紀後期の演奏習慣を読み解く試みである。
 アルテスは19世紀フランスで活躍したフルート奏者・作曲家で、長年、パリ音楽院教授を務めた。彼の教本はベーム式フルートの基本的な教本として、現在でも広く使用されているが、パリ音楽院の後任者ポール・タファネルの功績のみが重要視され、アルテスに関してはまったく注目されてこなかった。しかし、彼のフルート教本の内容を精査したところ、導音のための指使いの項目から、今日では失われてしまった演奏習慣の興味深い事例が浮かび上がってきた。
 現在、管弦楽器の演奏において、導音を平均律の音高よりも高めに取ることは一般的に行なわれているが、アルテスの教本にある導音のための指使いを使用することはほとんどない。その指使いを使った音の音色だけが大幅に変わってしまい、フレーズ全体が均質な音色ではなくなってしまう。もともと、均質な音色と平均律の半音階を得られるように作られたベーム式フルートにおいて、導音の音程調節は基本的に息の調整だけでも可能なのである。
 実際、その後に書かれたタファネルの教本では、導音の指使いの項目は削除されている。二人ともベーム式フルートを使用していたが、タファネルは導音のために特別な指使いを使用する必要性を感じていなかったのである。
 多鍵式フルートが使われていた19世紀前半は、導音のために替え指を使って音程調節することが普通だった。その多鍵式フルートで育ったアルテスにとって、理想とする音は、最初からベーム式で育ったタファネルとは異なっていた。アルテスは多鍵式フルート時代から受け継いだ音の感覚をベーム式フルート演奏に生かすべく、自らの教本に導音の項目を入れたと考えられる。その指使いを実践することにより、当時の演奏習慣を推定できるのである。

[D-3]大高誠二
マティス・リュシーとフレージング論──1880年代のフーゴー・リーマンとの関係から

 1882年にフーゴー・リーマン(1848-1919)は、論文『音楽のフレージング』を発表し、音楽のフレージング、そして拍節やリズムの問題への取り組みを開始した。その後幾つかの短い論文を発表した後、この取り組みの最初の大きな理論的成果として、1884年に『音楽の強弱法と緩急法』を出版する。この中で彼は、小節内の位置に応じて様々な度合いの強さを各音に割り当てる拍節論を「Akzenttheorie」と吊付けて批判し、強弱と緩急の連続的変化に基づく独自の拍節論を展開した。
 初期のリーマンがモーリツ・ハウプトマン(1792-1868)の学説の影響を大きく受けながら自説を構築したことはよく知られている。しかしことフレージング論と拍節論に関しては、この時期のリーマンの歩みにハウプトマンに劣らず重大な影響を与えていたのは、当時パリでピアノ教師をしていたマティス・リュシー(1828-1910)であった。
 リュシーは1863年に『ピアノ教育の改革』、1873年に『音楽表現論』、そして1883年に『音楽のリズム』を著し、好評を得ていた。この中で彼は、演奏家の気まぐれに任された演奏表現を批判し、表現が音楽構造に基いて必然的に決定されることを主張している。ここで彼が取り上げた主な表現方法は、3種類のアクセントと、強弱と緩急の連続的変化であった。
 リュシーは1880年代中盤のリーマンの論文に頻繁に登場している。その書きぶりは、初期は賞賛と共にであったが、後には強い批判の調子を伴うものとなっていった。それに対してリュシーの側からも、直接リーマンを吊指した反論がなされ、一時的に論争のような状態となっていた。
 こうした議論の結果、評判の良くなかったリーマンのフレージング版の楽譜が出版されたりもしているが、理論的には興味深い内容を含んでいる。本発表では、リュシーが1880年代のリーマンに与えた影響について検討するとともに、彼らのフレージング論や拍節・リズム論の意義を捉え直すことを目指す。

[D-4]上田泰史
A.-F. マルモンテル(1816-1898)によるV. クーザン(1792-1867)の芸術論受容――パリ国立音楽院のピアノ教育と音楽美学

 本発表は19世紀のパリ国立音楽院のピアノ教育において、音楽の価値が同時代の哲学・美学的文脈の中でいかに規定されていたのかを明らかにすることを目的とする。ここでは1848年に男子クラス教授に着任したマルモンテルの著書『音楽美学の基礎概念と諸芸術における美に関する考察』(1883、以下『基礎概念』)を中心に扱う。この著作で彼は77年にフランスで翻訳されたE. ハンスリック(1825~1904)の『音楽美について』に関心を寄せつつ、音楽は自然を模倣せず、感情を表現しないこと、器楽に自律的価値が認められることを主張した(上田 2012)。
 だが、これと類似した観点は既にエクレクティスム哲学の首領クーザン(1792~1867)の美学に見られる。これまで、彼の音楽に対する影響は、F.-J. フェティス(1784~1871)の和声史観に見出されているが(Ellis 1995)、マルモンテルやF. ル・クペ(1811~87)らピアノ科教授にも読まれていたクーザンの芸術論の影響は、教育との関連でも探求される余地がある。フェティスの論説「音楽美学の現状」(1838)が示すように美学Esthétiqueは世紀前半から中葉のフランスにおいて殆ど認知されていなかった。
 発表ではまず、美学を忌避していたフランスの公式哲学の状況(Mauve 1991)を提示し、次にクーザンの『真善美について』(1858, 36年初版)に基づき音楽に特権的な地位を認めた彼の美学的立場を明確にする。その上で、マルモンテルとクーザンが他芸術との関連で見出した音楽の特殊性に関する議論をいくつかの観点から比較しクーザン美学の反映を『基礎概念』に見出す。この検討を通してプラトンを誤読してイデアと芸術を結びつけたクーザンの教理がマルモンテルに取り込まれ、世紀中葉以降ピアノ教育における様式や表現の概念の説明に援用された可能性を提示したい。

[E-1]田村治美
グラスハープとアルモニカの研究

 グラスハープ(以下GH)は音高を調律された複数の硝子のゴブレットで構成され、水で濡れた指で淵を擦ることによって音楽を奏する楽器である。ヨーロッパで音楽演奏として流行したのは18世紀で、B.フランクリンによる楽器改良(アルモニカと命名)を経て演奏技法の可能性が高まり、F. ボイセ、M. キルヒゲスナー、C. L. レーリヒなど優れた音楽家が輩出され、欧米各地に広がった。モーツァルト、ハッセ、ナウマン、ライヒャルト、ベートーヴェンなど多くの作品も残されている。硝子の擦音への言及はガリレオやベーコンらの音響学実験に遡る。その音色は心身に影響を与えると言われ、近代催眠療法の祖とされるF. メスメルが精神治療に使用し、B.フランクリン自身もまた鬱病の治癒に用いたという記録が残される一方、神経障害や鬱病、眩暈、筋肉の痙攣を引き起こすと噂されドイツで演奏が禁止になった。1830年頃アルモニカは急激に衰退したが、このような噂の流布とともに、音楽の流行や価値観の変化によって楽器が淘汰されたことが挙げられている。さらに筆者は18世紀の啓蒙主義的な自然科学観への転換とそれに伴う社会的政治的背景がこの楽器の興亡とその後の運命に関与したと考えている。その独特の音色は文学者にも影響を与え、ゲーテ、シラー、ゴーティエ、シャトーブリアン、さらにはE. T. A. ホフマン、J. サンド、W.スコットらロマン派の文学にも登場した。リストやメンデルスゾーンもこの楽器と関わりがあったことが記録されている。
 本発表では、グラスハープとその改良形態であるアルモニカについて、「歴史」「楽器構造」「音響特性」「作品分析」「人間への影響」の5つの視点から文献調査と実験研究の成果を概略し、さらに演奏会のアンケート調査結果を踏まえてその音楽的展開の可能性を考察する。尚、この研究は2011年度カワイサウンド音楽技術振興財団による研究助成により実現させていただきました。心より感謝します。

[E-2]児玉瑞穂
18世紀末頃のライプツィヒ、ドレスデンにおける初期多鍵式フルートの製作概念──グレンザー、トロムリッツ、ポットギーザーの付加鍵に関する見解

 本発表は、ドレスデンで活動し、ドイツ国内でも広く吊声を得た木管楽器製作家であったグレンザー一族のH. グレンザー(1764-1813)と、18世紀後半にライプツィヒで活躍したフルート奏者でフルート製作家であったJ. G. トロムリッツ(1725-1805)、音楽愛好家でフルート・デザイナーであったH. W. T. ポットギーザー(1766-1829)の見解と彼らの製作した楽器を比較することにより、18世紀末頃のライプツィヒ、ドレスデンにおけるフルートへの鍵の付加に関する問題とその理想を明らかにすることを目的としている。多鍵式フルートの初期段階に関する従来の研究では、グレンザーが製作していたタイプの8鍵式フルートが当時の主流であったとされており、それとは異なる鍵配列を持つ楽器は散発的に製作された実験的なものに過ぎないと考えられてきた。しかし、実験的なものとされてきた楽器も、当時のフルートに対する問題意識や理想が表れた重要な資料であると考えられる。実際にグレンザー、トロムリッツ、ポットギーザーの3人はそれぞれの見解を『一般音楽新聞(AmZ)』上で発表しているが、その意見は同時代の近隣でありながら非常に異なっている。鍵の付加に関する一般的な目的は、18世紀末頃までに演奏家や楽器製作者の間で認識され始めた1鍵式フルートの音質、音程および音律の問題の解消にある。グレンザーに当時の多鍵式のフルートの典型的パターンを用いて楽器を作る傾向が強く見られる一方で、トロムリッツとポットギーザーはグレンザーのフルートに見られないような特殊な鍵や楽器のデザインの提案を行っている。これらは当時のライプツィヒやドレスデンにおいて、フルートに対して多様な理想があったことの表れであると考えることができる。これらを検証することにより当時のライプツィヒやドレスデンにおける音楽観の理解を深めることができよう。

[E-3]筒井はる香・山吊敏之
1810〜20年代ヴィーン式フォルテピアノのペダルと連弾文化の関連について
──ミヒャエル・ローゼンベルガー製作(1820年頃)のピアノに基づいて──

 1810〜20年代のヴィーン式フォルテピアノの特色の一つにペダルの種類の多さが挙げられる。ダンパーやシフトの他、モデレイター、ダブル・モデレイター、ファゴット、トルコ風などの様々な種類があり、一台に4本〜7本ものペダルがある楽器に遭遇することは稀ではない。しかしファゴットやトルコ風などの音色変換のためのペダルを「しっかりした演奏家なら決して使わない子供だまし《(ツェルニー 1839)の装置とみなす音楽家が多く現われ、やがて3本(ないし2本)に収斂されてく。
 フォルテピアノ研究において、ヴィーン式フォルテピアノ特有の音色変換ペダルの出現時期や使用法について明らかになっていない点が多い。一方、ダンパー、シフト、モデレイターについては教則本等によってある程度明らかになってはいるのだが、これらについても、複数のペダルと組み合わせる効果等、知られていない点はまだ多い。
 発表者は、1810〜20年代のペダルの増加とその後の縮小には、連弾文化の興隆と衰退に関連があるのではないかと仮説を立て、連弾文化と楽器の関連ついて論じることを目的としている。このような目的のため、本発表では19世紀初頭のヴィーンにおける連弾文化の興隆について概観した後、楽器製作に与えた影響としてペダルの増加を挙げ、それぞれのペダルの効果に関して報告する。そしてヴィーンのピアノ製作者ミヒャエル・ローゼンベルガー(1766*1832)のピアノ(1820年頃製作)に基づいて複数のペダルの組合せによって得られる音響の多様性を提示する。
 実際に4本の足を使えば、6本のペダルを駆使することはそう困難なことではないばかりか、複数のペダルを組み合わせることによって絶大な効果を得ることもある。「トルコ風ペダル」はその象徴で、連弾に適した装置である。トルコ風ペダルの使用といえば、通常、大音量に限られる傾向があるが、本発表では、陰影のある劇的な効果を生み出すことが可能であることを示したい。

[F-1]寺本圭佑
民俗音楽作品におけるアトリビュートの形成過程
─アイルランド人ハープ奏者カロラン (1670-1738) を例に─

 民俗音楽作品には作者不詳として伝承されている作品が多い。アイルランドの民俗音楽においても同様である。だが、例外的に作者名が知られているものとして、ハープ奏者カロランの名が挙げられる。カロランは古い民謡を改作するだけではなく、当世風のハープ音楽を創作していた。加えて彼は作曲家としての強い自我意識を持っていたことが知られている。これが、カロランの作品が他の民俗音楽に埋没することなく、現在まで伝えられてきた理由のひとつであろう。ただし盲目のカロランは自筆譜を一切残さなかった。したがって、現在カロラン作と伝えられている作品の大半は、後世に作曲者以外の何者かによってアトリビュートが与えられたものである。
  カロランのアトリビュートがとりわけ問題となるのは、作品全集の編纂においてであろう。1958年、オサリヴァンがカロランの伝記と作品の包括的な研究書を出版した。これは一般に「カロラン全集」として認識されており、213曲が収録されている。彼は校訂報告で典拠とした資料について明記している。しかし、発表者がこれらの典拠を再確認した結果、資料自体には直接カロランのアトリビュートが与えられていない場合があることが明らかになった。
  これに鑑みて、発表者はオサリヴァンが見落としていた資料も含め、1724年から1958年までの56種の出版譜および手稿譜の調査を行い、アトリビュートの形成過程に焦点を当てた研究を試みた。その結果、資料に直接カロラン作と明記された作品は計1281曲であった。個々の資料を詳しく調べると、単にカロラン作と書かれているだけの場合や、アトリビュートについて詳しい考察が加えられている場合もあった。本発表では、年代順に具体例を列挙しながら、作者不詳として伝えられていた民俗音楽作品が、「いつ/誰によって/どのように」カロランの作品とみなされていったのかを明確化することを目的とする。

[F-2]樋口騰迪
20世紀初頭の「シャンソン」に於ける民謡・古謡の影響
─イヴェット・ギルベールの活動を中心に─

 イヴェット・ギルベール(1865-1944)は、芝居仕立ての艶笑歌の如きをそのレペルトワールの中心に据えて、ベル・エポックを代表する歌手として人気を博した。併し20世紀に入って彼女はフランス各地の民謡や古謡を積極的に収集、出版しフランス内外で自らも積極的にこれを歌うようになる。
 パリの大衆は、こうした彼女の活動によって民謡や古謡を身近に聴くことが可能となり、そこに聴かれる中世的な響きに、一種のエキゾティシズム的憧憬を感じたのであった。こうしたことは、「中世風シャンソン」とでも言うべきイミテーション的創作をも生むことになり、20世紀初頭のパリに於いて、かなり大きな広がりを持つものであった。それはギルベールの活動が、所謂クラシックの音楽家による同様の運動と密接な交流を持ちつつ展開されたことによっても裏打ちされている。こうした彼女の活動による民謡・古謡の大衆レヴェルでの伝播は、ジャズやタンゴ、?民地音楽など様々の外来音楽と同様、パリの大衆音楽に少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる。それは、18-19世紀におよその形が出来上がったパリの都市民謡が、今日一般に通行の、大衆音楽のいちジャンルとしての「シャンソン」へと変質してゆくための、重要な契機であった。
 今回の発表では、先ずフランス国立図書館所蔵の資料に基づいて、こうしたイヴェット・ギルベールによる活動の実態の概略を紹介する。そうして、彼女の編纂による楽譜集に収められた作品と、従来パリでヒットしていた作品を比較分析することによって、フランス各地の民謡・古謡とパリの大衆歌謡との音楽的性格の異同を明らかとし、ギルベールによる民謡・古謡の紹介が、パリ大衆の音楽性に如何なる影響をもたらし、「シャンソン」なるものの成立を進めたのか検討することとしたい。

[F-3]大田美佐子
クルト・ヴァイル作品に映し出された1940年代のアメリカ

 ワイマール共和国のベルリンで時代のアイコンとなり、世界中で上演され続けている『三文オペラ』の作曲家クルト・ヴァイル。しかしながら、アメリカでの作品群は戦後、アドルノによって「文化産業」に絡め取られたと辛辣な評価を受けた。事実、アドルノの発言はヴァイル研究の起点となり、研究を促進した。冷戦終結前後の「ヴァイル・ルネッサンス」やオフ・ブロードウェイの再評価を経て、アメリカでの作品群も、今では実験的な「社会派音楽劇」として評価し直されている。
 同時期にドイツから亡命したキャバレーの作曲家、フリードリヒ・ホレンダーが亡命者をテーマに小説を書き、西海岸で亡命キャバレーを興行する一方で、ヴァイルのミュージカルは、「アメリカのアイデンティティ」をテーマにしていた。音楽学者スティーヴン・ヒントンも指摘するように、亡命の地でも一貫して、観客が自分の社会に対して問題意識を高められるような作品を届けることが、彼自身の創作姿勢の根幹にはあった。その結果、様々なジャンルが交錯するアメリカ音楽史のなかでも、特に黎明期のブロードウェイの歴史に関連して、ミュージカルの手法を開拓したその作品群は、重厚な存在感を示している。
 彼は実際の作品で、どのように「アメリカのアイデンティティ」を問う「仕掛け」を作っていたのだろうか。本発表では、まず新旧大陸の文化史的背景を比較考察するため、1940年代を中心とした『三文オペラ』の展開とアメリカにおける受容の問題を整理する。そのうえで、民謡の世界との強い結びつきを示す音楽劇『Down in the Valley』と、アメリカ建国史を人々の生活の視点から描いた音楽劇『Love Life』のふたつの作品を取り上げ、テキスト、音楽、受容の三つの側面から考察する。1940年代のこのふたつの作品で試みられた、彼の「社会派音楽劇」の特性とその実験性を明らかにしたい。

[G-2]仲辻真帆
山田一雄(和男)の作曲活動  ―日本的なものをめぐって―

指揮者として活躍した山田一雄(1912〜1991)は、第二次世界大戦前を中心に作曲活動を精力的に行っていた。彼の作品は、近代日本音楽史を検討する上で重要な示唆を与えるものであるにもかかわらず、近年まで顧みられる機会が少なかった。本発表では山田の作曲活動に焦点を絞り、作品に具体的な考察を加えながらそれらを歴史的に位置づける。
 山田一雄は東京音楽学校でクラウス・プリングスハイムや信時潔、橋本国彦等から作曲を学んだ。山田の作品はマーラーを連想させる部分がある一方で、彼の作品の根底には常に「日本的なもの」が流れていた。《大管絃楽の為の交響的「木曽」》(1939)では民謡をとり入れ《おほむたから》(1944)では古事記や声明から着想を得た。それは昭和戦前期にあっても天皇崇拝や戦争賛美と結びつくことはなかったが、当時、多くの作曲家が直面していた民族性や「日本的作曲」をめぐる問題との関連の中で捉えられるものである。また、山田は日本語による声楽作品の創作に意欲的に取り組み、草野心平、深井史郎など詩人・作曲家から成る「ポムクラブ」で歌曲創作の新しい試みを行った。1930年代には吉田隆子らと「楽団創生」で活動し、安部幸明、尾崎宗吉らと「楽団プロメテ」を結成するなど、様々な作曲家と交流している。
 今回の発表では、東京藝術大学附属図書館に所蔵されている山田一雄の自筆資料の検証結果をふまえて論述を進める。スケッチや数種類の自筆譜が残されている作品については修正・加筆を含めた作曲経緯などが明らかにできる。作曲者による様々な書き込みからは、作品に関わった人物(演奏者・献呈者等)の他、創作における理念や目的も浮かび上がる。山田の自筆資料に基づく研究成果は未だ公開されておらず、本発表を今後の研究の端緒としたい。昭和戦前期の時代背景や社会状況にも言及し、交流のあった同時代の作曲家とのかかわりから彼らに共通していた課題についても検討する。

[G-3]三枝まり
戦前における日本音楽コンクール作曲部門の歴史とその役割

 1930年代から終戦までを活動期間とする作曲家にとって、ナショナリズムと西洋近代化という流れが同時に進行するなかで、日本の伝統的な音楽を創作に取り入れることはきわめて重要な現実的な問題であった。
 特に1932年に日本音楽コンクールが始まると、第1回では声楽、ピアノ、ヴァイオリン、作曲部門で審査が行われ、その後チェロも加わり、戦前の日本における音楽文化向上に貢献していったと考えられる。1932年は東京音楽学校に作曲科が設置された年でもあり、以降、日本人による創作活動が推進される。
 本研究では、1932年の開始から終戦までの日本音楽コンクールに焦点をあて、戦時下の日本の作曲界において、特に日本の伝統音楽がどのように取り上げられたのか、作品研究および創作理念、作曲の審査員や審査基準、講評、新聞雑誌等における評価を通して明らかにすることを目的とする。戦前の日本音楽コンクールの作曲部門についてはこれまで論述の対象とされることはほとんどなかった。今日十分な評価を行われていない作曲家も少なくない。発表では、作曲部門の審査員を務めた近衞秀麿の遺族宅で今年発見された入選作品なども紹介しながら草分け的存在であった作曲家たちを掘り起し、彼等の業績を評価したい。

[H-1]赤塚健太郎
バロック時代の弓奏弦楽器の運弓法と当時の舞踏の協調関係
――ムッファトの証言を主要な手がかりとして──

 バロック音楽の演奏習慣をめぐる諸問題の中でも、舞曲の演奏法は格別の注目を集めてきた主題のひとつである。その一因として、舞曲の楽譜では、具体的な奏法の示唆が与えられることが少ないという事情が挙げられよう。
 こうした状況を受け、弓奏弦楽器における運弓法を手がかりに当時の舞曲演奏の習慣を読み解こうとする研究が行われてきた。ヴァイオリン属の楽器を例に述べると、上げ弓と下げ弓の交代が運弓の基本となるが、このうち後者が強い音を生むと一般に考えられている。よって下げ弓が該当する音を強調すべき音と判断することで、楽譜に潜在する拍節リズムを可視化できるのである。
 無論、そうした運弓の指示が舞曲の楽譜に詳細に書き込まれること自体はまれである。しかし当時の奏法書には、舞曲における運弓の原則を説いたものがあり、研究者の関心を集めてきた。中でもドイツの音楽家ゲオルク・ムッファト(1653-1704)が器楽曲集《フロリレギウム》第2集(1698年刊)に付した大規模な序文は、当時の舞踏・舞曲の中心地であったフランスで学んだ作曲者が、フランス式の舞曲奏法をドイツの音楽家に向けて説いた証言として重視されている。
 しかし従来の研究は、運弓法を上げ弓と下げ弓、すなわち強音と弱音の単純な二元論で捉えるに過ぎないものが多かった。またバロック時代の舞曲の運弓に関する文献を読み解く際に当然の前提とされるべき、実際の舞踏に対する言及も十分になされてきてはいない。
 そこで本発表では、当時の舞踏における強勢表現であるムーヴマンとの関わりを念頭に置きつつ、ムッファトの証言に代表される当時の運弓法の資料を再考する。それにより、当時の運弓法において、上げ弓や下げ弓の連続、あるいは弓を弦から離すことが重要な表現手段として認められ、舞曲のリズム表現において多大な意味を担っていたことが明らかになる。

[H-2]中津川侑紗
ワンダ・ランドフスカ著『古楽』再考
――20世紀初頭のパリの歴史的文脈において――

 20世紀初頭から中葉の欧米において、ユダヤ系ポーランド人のワンダ・ランドフスカ(1879〜1959)は古楽・チェンバロ復興の旗手としての役割を果たした。鍵盤奏者であり著述家でもあった彼女が1900年にパリへ移住した頃、チェンバロは19世紀に一度勢力を失った貧弱な楽器と見做される傾向が依然として強く、バロック時代の鍵盤作品の多くはチェンバロに取って代わって発展を遂げたピアノで演奏することが主流となっていた。そこでランドフスカは1909年に『古楽 Musique ancienne』を刊行して、音楽における進歩主義を批判することで古楽とチェンバロの復権を勢いづけた。本書は当時の音楽業界にセンセーションを巻き起こしたとされ、彼女の古楽演奏活動の礎を築くことになる。第一次世界大戦後には新版が刊行され、1923年のアメリカ・デビューを機に英訳版も出版された。さらにランドフスカは本書の一部を抜粋・改訂するかたちで1910〜30年代の音楽雑誌に投稿し、晩年においては改訂版の刊行を目指して文章を書き溜めていたという。それゆえ『古楽』に認められる音楽思想は半世紀以上にわたるランドフスカの活動を支える一つの骨組みになったと考えられるが、本書に焦点をあてた研究はまだ進められていない。
 そこで、本発表ではランドフスカの主著『古楽』を重点的に取り上げ、初版刊行時の文化的・歴史的文脈において考察する。20世紀初頭のフランスで「進歩」の概念をめぐり様々な思惑が渦巻くなか、彼女は芸術における進歩の性質を否定し、その価値を左右するのは人間の嗜好だと論じた。このような切り口から表された本書は当時のパリの音楽業界においてどのような位置付けにあったのだろうか? ランドフスカの古楽観とはいかなるものだったのだろうか? 以上の問いを @『古楽』と同時代に出版された他の著述家による著作の比較・検討 A本書に関する新聞・雑誌記事の検証 Bこれまで未検証だった書簡・文書等の手稿資料の調査をもとに明らかにする。

[I-1]宮崎晴代
中世のソルミゼーション理論と「グイドの手」
──Elias SalomonのScientia Artis Musicaeに見られる「グイドの手」の使用について──

 中世のソルミゼーション理論は、10世紀頃を境として大きく発展してきた。その中でもGuido d’Arezzoの果たした功績については周知のとおりであるが、Guidoの理論書のみならず、この時代には修道院の少年聖歌隊教育を目的とした歌唱本、すなわち実用的な内容を持つ歌唱の教科書とも言える理論書が、相次いで書かれている。近年、こういった中世のソルミゼーション理論に関する研究が急速に進み、 C. M. Atkinson、T.J.H.MaCarthy、S. Mengozzi、D. Pescheらによって、11〜14世紀ごろにおけるソルミゼーション理論の展開が次第に明らかとなってきている。
 本発表では、「Guidoの手」の使用とムタツィオ理論を結びつけた理論書としては初期の一つであるElias SalomonのScientia Artis musicae(1274)を取り上げる。この書はドルドーニュの聖職者、Elias Salomonが1274年教皇グレゴリウス10世に献呈した理論書で、当時の少年聖歌隊の歌唱教育書として、極めて実用的な内容が論じられている重要な書である。中でも「Guidoの手」を描いた(聖職者の顔を手と一緒に円の中に描いている)図は特徴的であるがゆえに、その図自体は「Guidoの手」の代表であるかのように広く知られている。また「Guidoの手」の使用とムタツィオ理論を、どのように結びつけていくかを論じているという点では、中世のソルミゼーション理論の研究に欠かせない書の一つである。しかしながら、理論書全体に関する研究は進んでおらず、J.Dyerの論文やいくつかの包括的な研究書で触れられているのみである。
 そこで、発表者はこの理論書の中でも、特に「Guidoの手」とムタツィオ理論に特化している第6章と第7章に焦点を絞り、原文を読み解きながら、どのようにして「Guidoの手」とムタツィオ理論が結び付けられているのかを明らかにしていく。そしてその上で、中世のソルミゼーション理論における本理論書の位置づけを試みていきたい。

[I-2]深堀彩香
16世紀イエズス会における音楽の位置付けの変遷

 本発表では、16世紀におけるローマ・カトリック教会とイエズス会の関係性を踏まえた上で、当時行われた音楽に関する議論から、イエズス会の音楽に対する考え方とその実践について考察する。
 1540年に創立されたイエズス会は、当初、修院内における歌唱および楽器の使用、ミサおよび聖務日課における合唱、荘厳ミサを禁止していた。その後徐々に、晩課や祝祭日のミサでの歌唱、聖歌隊の活動等を容認していったものの、初期のイエズス会における音楽の使用は非常に限定的なものであった。それゆえ、今日、イエズス会は一般に、音楽の使用に慎重であったと言われている。しかし実際には、会内部において、音楽がイエズス会の精神性にとって危険なものであると主張し、音楽の使用廃止や制限を求める反音楽派の人々がいる一方で、音楽の必要性や有用性を主張する人々もいた。イエズス会では音楽に関して様々な議論が交わされていたが、音楽の使用を制限する方針を取るに至ったのは、単にイエズス会内の議論によるものだけではなく、カトリック教会の影響が少なからずあったと考えられる。カトリック教会は、16世紀初頭に起きた宗教改革に対抗する形で16世紀半ばに反宗教改革を展開し始めた。同時期にローマ教皇から正式に認可されたイエズス会は、反宗教改革を牽引する修道会としての役割を委ねられていたため、カトリック教会の意向に沿うような活動を行う必要があった。したがって、イエズス会の音楽の使用に関しても、カトリック教会からの影響を考慮しなければならないだろう。
 今回は、音楽に関するイエズス会内部の議論およびイエズス会とローマ・カトリック教会との関係性に着目し、イエズス会が音楽の使用に関して慎重にならざるを得なかった背景を当時の議論の内容から考察することによって、彼らが音楽をどのように捉え、何を重要視していたのかを明らかにする。

[I-3]高野裕子
F. クープランのクラヴサン音楽と「趣味の和」に関する一試論

 ルセール・ド・ラ・ヴィエヴィル Jean-Laurent Lecerf de La Vi?ville (1674-1707) とラグネ Fran?ois Raguenet (1660-1722) による議論の数々(1702-05) は、18世紀初期フランス音楽の新たな幕開けの象徴であると言える。その主題は、フランス音楽とイタリア音楽間における優劣の比較であった。その数年後、メルキュール・ギャラン誌上で発表された「L. T. 氏によるイタリア音楽とフランス音楽に関する論文」(1713) では、たんに優劣を競うのではなく、両音楽の優れている点を結合させようとする姿勢が見える。この論文内容を証明するように、当時のフランスの音楽家たちは、2つの音楽の特徴を結合させることにより、イタリア風カンタータやトリオ・ソナタなどの新しい音楽ジャンルを生み出していった。
 F. クープラン Fran?ois Couperin (1668-1733) も、新たな音楽創作に挑戦した一人である。F. クープランは、コンセール《趣味の和》(1724) の序文において「(イタリア趣味とフランス趣味の)優れた点を評価し、特定の作曲家や国を差別しない」と宣言し、音楽の趣味を結合しようと試みた。
 本発表は、コンセールやトリオ・ソナタで試みられた「趣味の和」が、F. クープランのクラヴサン楽曲内において、どのように実践され
ているかを明らかにしようとするものである。主に、次の2つの方法を取る。
[1}F. クープラン自身が『クラヴサン奏法』 (1716) 内で示唆している「フランス的」・「イタリア的」奏法の定義。
[2]上記の奏法を参照に、F. クープランのクラヴサン曲集全4巻に収録されている楽曲の考察。
これらの検証を通して、F. クープランのクラヴサン音楽における「趣味の和」を明らかにするのみならず、18世紀初期におけるフランス・クラヴサン音楽の潮流を知る、一つの手がかりを提示することを目指す。

[I-4]岡野宏
後期マッテゾンの音楽美学における宗教性

 本発表では、後述する理由によって発表者が後期マッテゾンとよぶ時期において、彼が発表した著作に現れる独自の美学について考察を行う。  ヨハン・マッテゾン(1681〜1764)の音楽美学の研究においてしばしば参照される著作としては、初期のオーケストラ三部作(1713年、 17年、 21年)や『音楽的愛国者』(1728年)、『核心的旋律学』(1737年)、とりわけ代表作とされる『完全なる楽長』(1739年)がある。しかし、先行研究で『完全なる楽長』以後の著作が参照されることはほとんどなかった。近年変化が見られるものの、この時期の思想についてはいまだ未検討の部分が多いのが現状である。 発表者は『完全なる楽長』以後の時期をさしあたって「後期マッテゾン」と呼び、そこにそれ以前とは異なる音楽美学を見ている。その一つのポイントとなるのが「宗教性」の変貌である。元来マッテゾンはルター主義に基づき、「神からの贈り物」「神への賞賛」としての音楽観を持ち、著作の随所で示してきた。ただ実際のところ、それらは純粋に宗教感情から発するものというより、オペラや器楽曲などの世俗音楽を擁護するという意図の下で書かれていた面もあった。  これに対し、晩年のマッテゾンの著作、例えば『天上の音楽の主張』(1747年)や『知と音楽の七つの対話』(1751年)、『プルス・ウルトラ』(1754〜56年)などにおいては、その思想により強く宗教感情が反映されており、そのことが独自の美学を作り出していると考えられる。発表では、「アフェクテン・レーレ」に代表される「理性的」マッテゾンの一般的イメージとは異なったありかたを取り出すことを目指していきたい。

[J-1]鄭理耀
シューマンのピアノテクニック ─練習から創作へ─

 1830年にパガニーニを体験したロベルト・シューマンは、自身もピアノで新たな超絶技巧を開拓しようという大志を抱いた。それを成し遂げるべく、彼がピアノ技法にどう取り組んだのかについて、自筆楽譜などの現存する一次資料から明らかにすることを本発表の目的とする。
 発表で扱う資料は、以下の二つである。ひとつは、“Uebungstagebuch(練習日誌)”と題されたものである。これは、シューマンが1831年5月末から1832年4月までに取り組んだ作品の中から、練習箇所を部分的に取り出して書き留めたもので、日付と作曲家吊が記されているものもある。これを分析することで、シューマン特有の練習方法が解明された。もうひとつは、“Clavierschule(ピアノ教則本)”に関する資料である。日々の練習の中で、シューマン独自のメソッドを打ち立てようとして生まれた構想である。具体的には、章立てとそれに属するスケッチが残されている。それらを精査し、シューマンと関連のあった作曲家による教則本と比較すると、シューマン教則本の独自性がはっきりと浮かび上がってきた。また、彼の想定した教則本は、初心者からヴィルトゥオーゾの育成までをも視野に入れた、当時の先端をいくものであることが判明した。
 これらの資料は、シューマンの技巧的作品の成立過程を解き明かす重要な手掛かりにもなる。とりわけ未完の教則本は、≪パガニーニのカプリースによる6つの練習曲第1集≫Op.3へ大きく影響していることが明らかになった。また、一連の資料分析を通して、シューマンの多才な音楽活動の基盤が指の練習から作られていったことが考えられる。

[J-2]伊藤 綾
ローベルト・シューマン《女の愛と生涯》作品42におけるメタファー

 ローベルト・シューマン(1810-1856)はクララとの結婚が確定した直後の1840年7月、男性崇拝主義の古風な女性の一生を描いたアーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781-1838)の詩集『女の愛と生涯』(1830年)に作曲し、同吊の連作歌曲集(作品42)として発表した。その成立背景ゆえに、先行研究の中にはこの作品を「詩の主人公にクララを重ねあわせて作曲したビーダーマイヤー的作品」と結論づける向きが少なくない。楽曲を成立背景から切り離し、純粋にその構造から連作性を考察した研究としては、小澤(Kazuko Ozawa, 2005)やテヴィンケル(Christiane Tewinkel, 2006)が新しいが、全8曲に共通する音楽要素の列挙にとどまり、言葉と音楽の関係を考察するまでは至っていない。
 そこで本研究では、先行研究を下敷きにしつつ言葉と音楽の関係により重きをおき、この歌曲集の再分析を行った。その結果、歌曲集全体にメタファー(隠喩)と考えられるいくつかの特徴的な音楽要素が見られた。なかでも象徴的なのが、第1曲と最終第8曲後奏に共通する旋律に置かれているサラバンドのリズムである。いくつかの先行研究は「連作性の強調」としてこのことに言及しているが、注目すべきはむしろ「死のメタファー」の意味を持つこのリズムが、夫の死を嘆く最終曲のみならず、夫との出会いの喜びを歌い上げる第1曲冒頭から現れる点であろう。これは「夫に先立たれた悲しみに浸る女性の回想録」という原詩にはない性格が歌曲集に与えられていることを示している。
 本発表では、この歌曲集におけるメタファーとしての様々な音楽要素に注目し、シューマンの連作の意図の考察を試みたい。そこから原詩のビーダーマイヤー的性格が、シューマンの連作歌曲集においては「埋めることの出来ない喪失感の描写」へと昇華させられていることが明らかになるだろう。

[J-3]松尾梨沙
ショパン歌曲の詩学

 ショパンが生涯にわたり書き続けた歌曲は、全てがポーランド語の詩によるものであった。ナショナル・エディションからは現在18曲(補遺を除く)の歌曲が出版されているが、それらの詩の作者は6吊のポーランド詩人である。一曲ずつ丹念に見ていくと、詩人の個性や、またショパンとの交友関係の違いによって、ショパンの作曲姿勢も各々全く異なる様相を見せていることがわかる。ところが今日まで彼の歌曲に対して、そうした詩人ごとの特徴が深く検証、指摘されたことは殆どなかった。ポーランドでさえショパンの歌曲を「マージナルな」産物とみなしていた時代が長かったし、日本では彼の歌曲を知るごく少数の専門家でも、未だに「余興」「平凡」としか評価しない節がある。それはあくまでシンプルな有節歌曲作品のみから判断された、一面的な評価に過ぎないのではないか。
 本発表ではこうした現状を踏まえ、これらの詩人と作品の中から特徴的なものを数点例示し、詩人の生い立ちや傾向を辿った上で詩学・楽曲分析を施すことで、同時代同郷の詩学や詩人たちに対するショパンの姿勢を明らかにする。例えばショパンが最も多く書き遺した歌曲は、ヴィトフィツキの詩によるものであった。しかしそれは恐らく、二人の交友がワルシャワ時代から極めて長く続いたからであって、ヴィトフィツキの詩が芸術性に富むものであったからだとは考えにくい。他方、ほぼ全てポーランド原詩を採用する中で一曲だけ、リトアニア民謡のポーランド語訳詩に曲を付けたものがあった。訳詩者オシンスキは文芸評論家として知られ、ショパンより一世代ほど年上だったが、ミツキェヴィチの傑作『父祖の祭』をパロディ化するなど、機知や軽妙さを好む文人であった。この歌曲でもショパンがその機知に敏感に反応しており、そこにショパン自身の皮肉さえ読み取ることが可能である。本発表ではこうした検証により、ショパン歌曲の愉しみをさらに追究する。

[K-1]高坂葉月
アドルノの「ヴァリアンテ」の観点からみるマーラーの交響曲第七番第一楽章──主題の変形とソナタ形式との関係性をめぐって

 マーラーの交響曲第七番に関しては、第一楽章の先進性がたびたび指摘されてきた。しかしながら、楽曲にアプローチする視点が二極化しているために、この楽章の興味深い特徴がいまだ十分にすくいとられていないように思われる。楽曲分析の視点は、特徴的な四度の動機の配置およびその展開の観察を中心とした、いわばミクロなものと、変則的ながらもソナタ形式と容易に認識しうる全体の形式区分へと向けられた、いわばマクロなものに大別される。ただ、主題の変容の記述に終始する前者と、主題がいかように変形されていても同一のものとして扱う後者は焦点を結ばないゆえに、常に変容する主題がソナタの原理のダイナミズムの中でいかように機能するのか、その仕組みと関係性を包括的に扱うような研究はなされてこなかった。
 本発表は、アドルノがマーラー作品における主題の間断なき変形に対して与えた「ヴァリアンテ Variante」の概念を導入して、この作品の構造的特徴を明らかにしようとするものである。マーラーの作品においては、ひとつの主題が同じ形で出てくることがきわめて少なく、その都度変形させられている。にもかかわらず、それらは聞き手にとって同じもののようにきこえる。このヴァリアンテの手法は、交響曲第七番第一楽章ではとりわけ顕著で、アドルノも「照明を変えることによって、楽章全体がヴァリアンテとなる」と述べていた。本発表では、主題のヴァリアンテの分析からその展開の規則性を導き出し、それをソナタの展開原理と併せて考察する。一元論的な発展方法に基づく主題のヴァリアンテと、二元論的展開に基づくソナタ形式の原理がどのような関係にあるのかを複眼的に明らかにすることで、この作品の構造的特徴、および先進性の考察に新しい視座が与えられることになるだろう。

[K-3]今野哲也
「無調性」作品における「和声構造」分析の試み
──P.ヒンデミットの和声理論の再認識と「集合音」の方法の導入──

 本発表は、ヒンデミットの『楽曲作法教育T理論編』で展開された和声理論を基に、独自の方法を導入し、主に「無調性」作品を対象とした「和声構造」分析のための方法論を提案するものである。ヒンデミットの和声理論は、従来の分析理論の原理を保ちながらも、「無調性」にも対応し得る独自の観点を持っている。そのためこの理論を用いることで、「無調性」作品においても擬似的な意味での「和声構造」を導出し得る。しかしその後、この理論が進展を遂げたとは言い難く、それは一部の方法論の恣意性、あるいは著者が実践した分析の精度に問題があったためと考えられる。しかしながらその独創的な発想はきわめて有効なもので、本発表が提案する「集合音」の方法を導入することで、問題の解決と同時に、より実践的な方法論として再構築を図る意義は充分にある。
「集合音」の基本的な考え方は、個別の「和音」を抽象的に把握するための一種のコードである。ここではより演繹的な分析を目指し、ピッチクラス・セット理論でも用いられる数字表記を援用するが、セット理論とはその発想において異なる。ヒンデミット理論は従来の和声論的発想を多く保持するため、島岡譲(1926-)が提唱する「ゆれ」の概念の方がむしろ、本発表における理論的展開にとっては推奨される。 本発表はA.ベルクの《アルテンベルク歌曲集》Op.4の第3曲「宇宙の極限を乗り越えて」を対象に、この方法論を実践する。分析は個々の和音の「根音」判定から始められるが、一定範囲の「根音」の連なりをマクロ化すると、この歌曲の「和声構造」として[cis-des-c-cis]が導出される。両端の[cis]の部分には、楽曲の枠組みとなる12音和音が置かれるが、この再帰的な構造は、歌詞の構造にも合致する。こうした考察から、「和音」や「和声」は、この作品においても「和声構造」を構築するための基礎であり、依然として重要な観点である旨を述べ、発表の結論とする。

[K-4]丸山千鶴
ブーレーズ《Structures Ia》の音楽聴分析
──全面的セリー主義音楽における知覚とセリー組織外の要素との係りについて──

 これまで、セリー音楽の研究で知覚の問題が論じられる場合は、殆どがセリー構造の知覚という観点に立っていた。そして、作品における首尾一貫したセリー構造を耳で知覚することができないことから、そこでの構造と聴取の齟齬が指摘される。つまり、作曲のための書法上のシステムが精緻化される一方で、聴取に関しては無関心な作曲になっているという批判である。
 しかし、セリー音楽もまた当然のことながら「聴かれる」ための音楽であり、それを純粋な聴取体験における知覚の観点から分析する研究も可能なはずである。そこで本研究では《Structures Ia》を事例として、鳴り響く音楽をありのままに聴取するという方法でセリー音楽を音楽聴の側面から検討し、その結果を作曲上のセリー組織と照合する。音楽をありのままに聴取するとは、水平の関係、垂直の関係、リズムや、テクスチャー等の要素をもとに聴く、19世紀以来制度化された聴取方法によって聴くことである。というのも、我々の一般的な聴取のモードは基本的にこの制度のもとにあってそれに馴らされており、セリー音楽を聴く場合にもそのモードの強い影響の外に立つことは困難だと推測されるからである。
 《Structures Ia》では、作曲上の組織に於いて12の音高や音価の出現頻度は統計的に一律であるために常に均質に聴こえてもよいはずなのだが、実際には聴取によって様々な音楽的パターンが知覚される。それらは作品に知覚上の一貫性を与え、ある種の形式感を形成していると思われる。本研究は、このように聴覚的観察によって構成される音楽の構造に、作曲上のセリー組織やセリー組織外の要素がどのように係わっているのかを明らかにするものである。セリー組織外の要素はセリー構造の観点から見た研究では触れられることの少なかった要素であるが、音楽聴にはそれが大きく作用している。その観点から本発表では、音楽聴と特にセリー組織外の要素との係りについて明らかにする。

[L-2]齊藤紀子
三木楽器の『ピアノ納入簿』(1902-1940)にみるピアノの流通について

 本発表は、三木楽器の保管するピアノの紊入に関する帳簿をもとに、関西を中心に日本国内各地を始め、フィリピンや台湾にもピアノを紊入していた三木楽器が、どのようにしてピアノの販路を開拓していったのか、その流通経路を探り、明らかにすることを目的とする。
 三木楽器は、『鉄道唱歌』の出版(1900年)や、スタインウェイ社のピアノを日本総代理店として初めて輸入(1921年)し、声楽学習教材『コールユーブンゲンChorübungen』の翻訳出版権を日本で初めて取得(1925年)するなど、楽器販売や音楽書籍の出版を中心に日本の西洋音楽受容の上で重要な足跡を残してきた楽器商の一つで、今日も大阪市内中心部に本社を構えている。楽器商として「三木楽器」の社吊が正式に登記されたのは1956年のことであるが、それより半世紀以上遡る1888年から、楽器の販売を始めていた。三木楽器の前身である河内屋佐助(三木家)は、1825年に大坂本屋仲間に加入した書林である。河内屋佐助の四代目主人三木佐助は、1888年、山葉寅楠(現ヤマハの創始者)の製作した風琴の販売に着手したのを機に、河内屋佐助に楽器部を創設し、山葉製のピアノやスタインウェイを始めとする海外メーカーのピアノを輸入し、販売していた。そうしたピアノの内、1902年から1940年にかけて販売された3700台分の紊入記録が二冊の帳簿として保管されている。
 本発表では、この二冊の帳簿『ピアノ納入簿』のなかでも、北海道の富貴堂や岡山の細謹舎、熊本の長崎次郎など書物の出版・販売を行う日本各地の会社を介したピアノの紊入に焦点をあて、ピアノの販路がどのような背景のもとに構築されていったのかを提示する。

[L-3]矢向正人・宮城拓美・竹下秋雄
近年の音楽データベース

 音楽データベースは、計算機関連技術の進歩と相まって近年に質量ともに大きく進歩している。それらは音楽研究の方法に変化を与える可能性を持っている。本研究は、音楽研究の側からこの現状と可能性を正しく認識することを目的とする。音楽データベースは、文字情報データベース、楽譜情報データベース、演奏情報データベース、画像情報データベース、音響映像情報データベースに分類できる。近年の音楽データベースは、これらを組み合わせ多様なアクセスを可能にするマルチメディア・データベースが増加していることも特徴である。本研究では、まず、これら音楽データベース各種の近年の制作例について調査報告を行う。調査したデータベースについて、データの対象、構造、サイズ、使用目的、ユーザ等により分類したあと、それぞれの有用性を、データベースの正確性、効率性、使い易さ、保全性、拡張性、再利用性等の観点から評価し、音楽研究のためのデータベースの最適化について検討する。次に、音楽研究にもっとも必要と思われる楽譜情報データベースを対象に、代表的なデータベースについて、既存のソフトウェアを利用して音楽分析を行う手順を確認したうえ、データ形式、データの検証・遡及、開発・入力コスト、互換性、データベース管理についての評価検討を行う。また、複数の楽譜情報データベースの並行利用の可能性や、曖昧に記述されたり構造が隅々まで知られていない未解読楽譜のためのデータベースの可能性を検討する。最後に、楽譜・演奏情報データベースにおいて、楽譜情報に付随する演奏情報を配置するときに生じる多様なデータ記述の問題への対処、また、このマルチメディア的対応にともない新たに生じる音楽研究領域について検討する。とりわけ、近年のISMIR等にみる音楽情報検索分野で考案されている検索方法が、音楽構造や旋律パターンなどの認識をいかに変えうるかについて検討する。

[L-4]平野貴俊
フランス国営放送ORTF (1964-1974) の芸術音楽関連活動──文化省音楽行政との関連を中心に

 1964年、フランス・ラジオ放送・テレヴィジョン Radiodiffusion Télévision française(RTF、1948-1964)を継いで発足したフランス・ラジオ放送・テレヴィジョン公社 Office de Radiodiffusion Télévision française(ORTF、1964-1974)は、RTFと同様フランスにおける芸術音楽の普及に重要な貢献を果たした。ORTF傘下の音楽団体、とりわけピエール・シェフェール率いる音楽研究グループ、マリウス・コンスタン率いる現代音楽演奏団体アンサンブル・アルス・ノヴァは、同時代音楽の活性化に大きく寄与した。これらの団体を個別に扱った研究は存在するが、ORTFの音楽活動の包括的検証は未だ十分に行われていない。本研究発表では、フランス国立公文書館、ラジオ・フランス等所蔵の史料に依拠しながら、ORTFの芸術音楽関連活動の意義を考察する。
 1960年代半ばのフランスでは、同時代音楽の上興、レコードおよびFM放送の普及を背景として「音楽の危機 crise de la musique」が新聞等で喧伝された。これを受けて文化相アンドレ・マルローが文化省音楽局 Direction de la musique を設置、局長マルセル・ランドウスキ Marcel Landowski (1915-1999) が音楽の「民主化」を旨とする改革に着手した。ORTFでは、アンリ・バローの後任としてORTFの音楽監督 directeur de la musique に就任したミシェル・フィリッポ Michel Philippot(1925-1996、在任1964-1972)が、上記「危機」に呼応するかのように、同時代音楽の普及に重点をおく方向性を打ちだした。これによって、ORTFではフランス各地の現代音楽フェスティヴァルが放送され、傘下の管弦楽団は同時代のレパートリーをより多く組みこむようになった。
 一方、フィリッポの後任ピエール・ヴォズランスキー Pierre Vozlinsky(1931-1994、在任1972-1974)は、同時代音楽の普及に重点をおくこれまでの方針に異を唱え、大衆迎合的な色彩の強い内容を積極的に持ちこんだ。ORTFと文化省の間で交わされたやり取りからは、ヴォズランスキーの戦略がしばしば両者の関係に緊張をもたらしたことが読みとれる。このラディカルな方針の転換の背景には、1968年5月にパリで生じた暴動とそれに伴う放送局の改革があった。

[M-2]七條めぐみ
アムステルダムの楽譜出版におけるフランス・バロックオペラの「加工」(1680-1740)──組曲《アルミード》に見られる編曲と様式の変容

 本発表の目的は、ジャン・バティスト・リュリ(1632-1687)のトラジェディ・リリック《アルミード》(1686年初演)の器楽組曲版を例に、アムステルダムの出版社がフランス・バロックオペラをどのように「加工」したのかを明らかにすることである。
 17世紀末から18世紀前半にかけて、アムステルダムではイタリア音楽やフランス音楽が盛んに出版され、ヨーロッパ各国へ売り出されていた。当時のフランス音楽を代表するリュリのオペラは出版社の重要なレパートリーとなり、中でも器楽曲を抜粋した「組曲版」が数多く出版された。これらの版は、曲の順序を入れ替え、弦楽5部編成を4部編成に縮小するという独特の方法で編曲されている。先行研究ではドイツの管弦楽組曲との関連も指摘されているが、組曲版がどのような楽譜をモデルとし、どのような意図で作成されたのか、編曲者の側に立った研究が行われていない。そこで本発表では、アムステルダムの組曲版を詳細に分析することで、その成立過程を浮き彫りにする。
 《アルミード》は、1709年頃にエティエンヌ・ロジェにより器楽組曲として出版された。この楽譜はロジェの組曲版の中で唯一、アムステルダムで作曲家として活動したニコラ・ドロジエによる編曲に基づいている。ドロジエ版は2つのヴァイオリン・パートとバス・パートから成るトリオで、アムステルダムの出版社シュティヒターによって印刷され、ロジェの手で販売された。パリの初版譜とロジェ版、ドロジエ版を比較すると、ドロジエは新たな第2ヴァイオリン・パートを作り出すことで、旋律とバスをはっきりと対比させている一方、ロジェはヴィオラ・パートを加えることで、4声部としてのバランスを重視していることが分かる。このように組曲《アルミード》には、2人の編曲者の意図がそれぞれ反映されており、フランス・オペラが国境を越えて変容していく過程が表れていると言えよう。

[M-3]佐藤康太
テレマン1760年「ルカ受難曲」の復元可能性──エヴァンゲリストの声種を中心に

 テレマンの1760年《ルカ受難曲》には初演時のパート譜がVnパートしか残っておらず、それ以外は多かれ少なかれ編曲を含む形で伝わっている。この複雑な史料状況のため、オリジナル稿の復元は困難を極める。本発表では特に各史料間で大きく異なるエヴァンゲリストの声種について、詳細な史料研究をもとに発表者の仮説を提示する。
 大きな手掛かりとなるのはテレマンによる1764年の《ルカ受難曲》である。この受難曲では1760年《ルカ受難曲》から聖書部分が借用されている。前者には自筆総譜が残されており、借用箇所は当時アシスタントを務めていた孫のゲオルク・ミヒャエルによって書かれ、その上にテレマンが細かい修正を加えている。他の受難曲における同様の事例から、この際ゲオルク・ミヒャエルはかなり忠実にオリジナルを写した可能性が高い。この1764年の受難曲ではエヴァンゲリストのパートはバスとアルトによって分割されている。
 同じバス - アルトの分割を示唆するのがC.P.E.バッハによる1771年の《ルカ受難曲》である。バッハはこの受難曲において1760年《ルカ受難曲》から聖書部分および大部分のコラールを借用しており、ここではアルト、バスに加えてさらにソプラノがエヴァンゲリストの一部を担当する。このソプラノ声部は1764年のアルト担当部分をさらに2分割する形で追加されている。ソプラノの追加はパート譜上でバッハ自身が行っており、上演直前の段階で決定された可能性が高い。バッハの書簡からまさに1771年当時、アルト歌手ホラントが高齢のため歌唱に支障をきたしていることが確認され、これが変更の直接の要因になったと思われる。
 バッハが1764年の《ルカ受難曲》から借用した可能性は細かい読みの比較から否定されるため、このバスとアルトによる分割が1760年《ルカ受難曲》のエヴァンゲリストの声種である可能性が最も高いと考えられる。

[M-4]宮内晴加
A.ソレールの鍵盤ソナタに見られるD.スカルラッティの影響

 18世紀スペインの鍵盤音楽を語る上で、作曲家アントニオ・ソレール(Antonio Soler, 1729-1783)の名は外せないであろう。エル・エスコリアルの修道院で修道生活を送る傍ら、写本によって伝えられてきた140曲を越えるソナタを残し、王子ドン・ガブリエルの音楽教師も務めた人物である。
 ソレールは、スペイン王妃マリア・バルバラの音楽教師であったドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1757)の弟子とされてきた。それは、ソレールのソナタの多くが反復記号で区切られた前後半二部分からなる単一楽章で書かれ、その中にスカルラッティのソナタを思わせる遠隔転調や難度の高い技巧などが見られるからである。さらに、1772年にソレールからソナタの筆写譜を譲り受けたフィッツウィリアム卿が「ソレール神父はスカルラッティのレッスンを受けた」と記述していることも相まって、ソレールがスカルラッティから受けた影響は多大なものであると考えられてきた。
 しかし、ソレールの研究者でソナタの筆写譜の編集・校訂を行ったサムエル・ルビオがソナタ集《Sonatas para Instrumentos de Tecla》第1巻(1957)の序文で「その影響は我々が考えてきたほど大きくはない」と述べるなど、研究者の中でも意見が分かれている。それにもかかわらず、ソナタ比較を通しての詳細な考察はほとんど見られない。
 本発表ではそのような背景を踏まえ、ソレールとスカルラッティの直接的な接触の可能性の有無にも触れつつ、ソレールのソナタの写本や理論書『転調の秘訣と音楽の遺産Llave de la modulación y antiguedades de la música』をはじめとする著作、書簡などからソレールによるスカルラッティへの評価を再検証するとともに、両者のソナタの比較分析を通して、ソレールのソナタにおけるスカルラッティの影響を探る。

[N-1]室町さやか
オスペダーレ・デッラ・ピエタの女性演奏家「ミキエリーナたち」の同定

 17-18世紀のヴェネツィアの福祉施設オスペダーレが女性のみで構成されたコーロを有し、同時代の国際的な評価を得ていたことはすでによく知られている事実である。第62回全国大会発表ではヴェネツィアのオスペダーレ研究における一次史料調査について論じ、オスペダーレの音楽活動、とりわけオスペダーレ・デッラ・ピエタの活動を研究する際にはコーロの構成員である女性たちの同定に留意しなければならないことを述べた。
  ピエタの女性演奏家たちの同定は史料の不足や居住者たちの名前が曖昧な呼び名で記録されていることから非常に困難を伴う。しかしながらコーロの音楽活動が無名の女性たちによるものである以上、彼女たちに焦点を当てて同定を行うことは必ずなさねばならないことである。本研究では17-18世紀にピエタのコーロで活躍していたMichielinaの同定を行った。Michielinaの名を持つコーロのメンバーは1600年代から1700年代にかけて複数確認されており、それぞれオルガン奏者、歌手、ヴァイオリニストなどの役割を持っていたことが先行研究によって論じられている。またヴィヴァルディやガスパリーニのオラトリオに歌手として出演した者の中にMichielinaの名があるなど興味深い活動をしていたにもかかわらず、Michielinaと呼ばれる人物がどの年代に何人いたのか、どのような来歴を持つ人物であったのかは、これまで詳細に研究されてはこなかった。
  本研究ではヴェネツィア古文書館に残されたピエタの会議議事録の内容から「Michielinaたち」の同定を行い、複数の記録が同一人物のものであることを明らかにした。とりわけひとりのMichielinaがチェロ奏者としてコーロに入り、後にマエストラ・ディ・コーロとなり、晩年には副書記マエストラとしてコーロで活動を続けていたという事実は国際的な音楽学研究の場でも初めて明らかにされる知見であり、本研究の成果であるといえる。

[N-2]小石かつら
近代的演奏会におけるプログラム構成の変遷──ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー協会、パリ音楽院管弦楽団のプログラムを比較する

 19世紀以降ヨーロッパ各地でひろがったオーケストラ団体の近代的な演奏会(公共演奏会)は、どのようなものだったのだろうか。本発表は、演奏会のプログラム構成および変遷に着目することでその一端を解明するものである。
 世界最古の自主運営オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のプログラム構成は、1781年に最初の定期演奏会が開催されてから、大きく以下の四つの段階をたどっている。第一段階は、最初期から1800年代初頭までで、この時期の基本スタイルは、演奏会の最後が小規模な交響曲(もしくは楽章抜粋)で締めくくられるものであった。しかし徐々に最後の交響曲が省かれ、その前の声楽曲で終了するものが散見しはじめ、更にこの声楽曲がオペラの終曲に置き換えられることで、演奏会の後半(休憩後の第二部)がオペラの縮小版となっていく(以下「オペラ縮小版型」)。第二段階は、演奏会の後半が「オペラ縮小型」ではなく、大規模な交響曲1曲のみとなるスタイル(以下「交響曲独占型」)が現れ(1807年)、これが徐々に増加して「オペラ縮小型」と「交響曲独占型」が拮抗するに至る段階である。両スタイルは1830年代から1850年頃にかけてゲヴァントハウス管の全定期演奏会を分かち合う。続く第三段階は「交響曲独占型」へと比重が高まる段階であり、1880年代にはほぼ全例で「交響曲独占型」が定着する。第四段階は、演奏会後半だけでなく演奏会全体が器楽曲で占められていく段階で、1910年代半ば頃には、声楽曲が演奏されなくなるスタイルが完成する。
 果たしてこれはライプツィヒ特有の現象なのだろうか。それともグローバルなものなのだろうか。本発表では、この変化の前半部分つまり第二段階(1850年頃)までに着目し、ロンドン・フィルハーモニー協会(1813創立)およびパリ音楽院管弦楽団(1828創立)のプログラム構成と比較・考察することで、演奏会プログラムの変遷とその意味を考察することにしたい。

[N-3]津上智実
音楽を歴史的に聴く──ピアニスト小倉末子の「洋琴楽発達研究演奏会」と大正期における教養主義的聴衆層の成立

 ピアニスト小倉末子(1891〜1944)は大正7(1918)年秋からの約半年間に東京で行なった「洋琴楽発達研究演奏会」において、歴史的展望をもって6回の連続演奏会を構成し、16世紀から20世紀に至る鍵盤曲のレパートリー(29人の作曲家による計60曲)を一人で弾き切って、大きな反響を呼んだ。この「歴史的独奏会」シリーズは、どのような歴史的位置と文化的意義を持っているのだろうか?
 プログラム構成の比較研究によって、これはアントン・ルビンシュタイン Anton Rubinstein(1829-1894)の「歴史的独奏会 Historical Recitals」(全7回、1885-86、ヨーロッパおよびロシアの主要都市)、より直接的にはその弟子のオシップ・ガブリロウィッチ Ossip Gabrilowitsch(1878-1936)の「6つの歴史的独奏会」(全6回、1915-16、ニューヨーク、ボストン、シカゴ)の系譜に属するものであること、さらには緩やかにイグナーツ・モシェレス Ignaz Moscheles(1794-1870)の先例にまで遡るものであることが判明した。
 ガブリロヴィッチの場合と同様、小倉の場合も、バロックから古典派、初期・中期・後期ロマン派を経て現代曲に至る広汎な演奏曲目に、作曲家と楽曲に関する詳細な解説書が添えられることによって、歴史主義的で主知主義的な連続演奏会が実現した。そこに当初の予想を超える多数の聴衆が詰め掛けたという事実は、大正期における教養主義的な聴衆層の成立を裏付けるものと見做すことができる。阿部次郎の『三太郎の日記』(1914〜1918)と踵を接する形で、日本の音楽界に教養主義が出現していたことを例証するものと位置づけられる。

[N-4]京谷政樹
サーストン・ダートの音楽解釈──「イギリス的な営為」としての歴史的演奏運動

 本発表の目的は、サーストン・ダートThurston Dart(1921-1971)の音楽解釈を検討し、彼の音楽活動がどのような意識のもとで行われたのかを明らかにすることである。ダートは1950年代から60年代にかけてのイギリスで、演奏家および音楽学者として、歴史的な情報にもとづき音楽作品を演奏しようとする運動、すなわち「歴史的演奏運動historical performance movement」に携わった人物だった。従来の古楽復興史では、ダートの音楽活動は、ピリオド楽器が普及していない当時のイギリスの音楽環境下で歴史的オーセンティシティ(正統性)の追求を試みた例として理解されてきた。例えば、 H. M. ブラウンは「衒学あるいは解放? 歴史的演奏運動のスケッチPedantry or Liberation? A sketch of the historical performance movement」(1988)において、ダートの著作『音楽の解釈The Interpretation of Music』(1954)の内容を「この時代に特有の、真のオーセンティシティと妥協との混合」だと述べている。
 しかし、実際にはダートの音楽活動は、オーセンティシティの追求とは異なった意識のもとで行われていたと考えられる。彼は、オーセンティシティに固執することに対して否定的な態度を取っていたからである。例えば、彼はオーセンティックな響き sonorityの再現に囚われることを「見当違いで観念的なこと」だと述べている。したがって、本発表でダートの音楽活動や音楽解釈を支えた意識がどのようなものだったかを検討することは、古楽復興史の新しい一面を明らかにするという点で意義があると考えられる。
 本発表では、まずダートの音楽解釈の特徴を明らかにする。具体的には、作品が書かれた時代の響きおよび演奏習慣に対してダートがどのような態度を取ったのかを『音楽の解釈』や彼の論文の内容をもとに検討する。その上で、ダートの音楽解釈が彼のイギリス観と関わりがあることを示しつつ、彼が自身をイギリスの伝統を受け継ぐものと考え、歴史的な情報にもとづく演奏を「イギリス的な営為」として行っていた、ということを指摘したい。

[O-1]白石悠里子
フォーレの室内楽作品における様式再考
─2つピアノ四重奏曲(Op. 15、Op. 45)を例に─

 本発表では、ガブリエル・フォーレ(1845−1924)の2つのピアノ四重奏曲Op. 15(1876-79、終楽章のみ1883)およびOp. 45(1885-86)を例に、この作曲家の様式、とりわけ「ホモジェナイティ(同質性)」の面からの考察を試みる。フォーレの様式分析をめぐっては、J.-M. ネクトゥーらを中心に3つの時代区分が提唱されているが、各時代の様式的差異は必ずしも明確に捉えられるものではない。実際、すでに1922年にF.シュミットは、各時代の様式は平行して用いられていたという指摘をしており、またネクトゥーの見方に対して、1973年にはY. ジェラールが2区分の可能性を唱えている。このような状況の中で、C. カバレロは「ホモジェナイティ」という概念からフォーレの様式を捉える方法を提案した。ただし彼の論考では、作品への具体的な指摘が、先行研究に依拠した作曲家の各時代に共通する旋律パターンへの言及にとどまっているため、「ホモジェナイティ」の音楽的様態についてはまだ議論の余地がある。
  本発表で考察対象とする2つのピアノ四重奏曲に関して、C. ケックランは共通点の多さを指摘した上で一緒に考察をしている。一方でロジェ=デュカスは、第2番は第1番とは違った様相を見せていることに注目し、以降のフォーレの室内楽作品にも共通する個性があると述べている。確かに、各作品の第1楽章を比較すると主題構成などの形式はほぼ同じだが、ピアノと弦楽のパート間で主旋律を担う割合を比べると、第1番はピアノが主旋律を担う傾向が強いのに対して第2番ではむしろ弦楽に主旋律が委ねられ、ピアノは伴奏を受け持つようになる。この傾向は、後に書かれた2つのピアノ五重奏曲でさらに明確になることから、晩年のフォーレの様式にも共通する「ホモジェナイティ」の一つの様態を示し得るのである。

[O-2]神保夏子
マルグリット・ロンとフォーレ??演奏家の言説に見る創造と伝承のポリティクス

 フランスのピアニスト・ピアノ教育者のマルグリット・ロン (1874-1966) がそのキャリアを通じて最も熱心に普及・伝承に取り組んだ対象は、1903〜1912年頃に親交のあったガブリエル・フォーレ (1845-1924) の音楽であった。もっとも、作曲家本人との人間関係に重大な破綻をきたしつつ、彼の死後、「フォーレの伝統」の継承者を名乗って活動を行った彼女は、従来のフォーレ研究の文脈では様々な観点から批判の対象とされてきた。本発表は、作曲家側の視点に重きを置く多くの研究では軽視されてきた「演奏家側の物語」に着目することで、ロンが広めようとした「フォーレ崇拝」の脈絡を再検証しつつ、なぜ彼女が「フォーレ」に固執したのか、なぜフォーレ自身の演奏を聴き知りながらも、後世の研究者から見れば一見作曲家自身の「意図」とは反するような演奏伝承に携わることになったのかという問いへの答えを探ることを通じて、20世紀前半の「作曲家」と「演奏家」との揺れ動く関係性の一側面を描き出すことを目的とする。具体的には、パリ・マーラー音楽資料館マルグリット・ロン・アーカイヴ所蔵の未刊行資料を含む、ロンのフォーレ関連の諸言説の検証、とりわけ、彼女に多大な影響を与えたと考えられる、夫で音楽著述家のジョゼフ・ド・マルリアーヴ(1873-1914)の評論との比較と、ロン自身の伝記的背景を踏まえた語りの時系列的変化の分析を行う。本研究からは、フォーレの最初期の熱烈な擁護者であった亡夫マルリアーヴへの忠誠の念が、フォーレ作品の普及に対するロンの使命感の根源にあったことが示されるとともに、やがてフランス音楽の「アンバサダー」としての社会的役割を担うようになった彼女が、夫によって「最もフランス的」な音楽家と定義されたフォーレを、個人的な軋轢とは切り離し、時に著しく政治的な文脈の中で偶像化していくプロセスが明らかにされる。

[O-3]永井玉藻
プーランクの《カルメル会修道女の対話》作曲過程における音色の選択

 フランシス・プーランクの作品におけるオーケストラの扱い方は、先行研究では殆ど言及されない。これは、キース・ダニエルが著書で指摘したように、プーランクがオーケストラ楽器の使用法に関して特に改革を成さなかったことと、交響曲のような、オーケストラのみのための作品をほとんど残さなかったことに起因する。また、プーランク自身が優れたピアニストで、作曲の際にはピアノを用いるタイプだったことも、彼のオーケストレーション手法に対する無関心の原因である。
 しかし、プーランクのオペラ作品において、楽器の選択はピアノ・スコア作成時から着想されていたわけではない。彼の2作目のオペラ、《カルメル会修道女の対話》作曲過程においては、まずピアノ・ヴォーカルスコアが作成され、その作業を中断していた時期にオーケストレーションが始められている。このピアノ・ヴォーカルスコアには、一部の例外を除いて、楽器の指定はほぼ書き記されていない。また、プーランクはオーケストレーションの段階で、ピアノ・ヴォーカルスコアにない音や旋律の追加だけでなく、特殊奏法を物語における一定の条件下でのみ用いたり、特定の楽器に物語のコンテクストに結びつく直接的な表現を担わせたりしている。
 本発表では《カルメル会修道女の対話》を対象に、特にミラノのブライデンセ国立図書館リコルディ・アーカイブ所蔵の資料と、パリのフランス国立図書館音楽部門ならびにオペラ座資料館所蔵の資料を比較する。これにより、当該作品におけるオーケストレーション手法とその特徴を精査し、プーランクのオペラ作曲過程におけるオーケストレーションの役割について考察する。

[O-4]那須聡子
オリヴィエ・メシアンのピアノ作品に見られる運指と作品解釈

 本研究は、オリヴィエ・メシアン Olivier Messiaen(1908-1992)のピアノ作品を対象とし、これらの出版楽譜に記された運指とイヴォンヌ・ロリオ Yvonne Loriod(1924-2010)の弟子たちが楽譜に記入した運指とを比較しながら、彼らの運指がどのような考察を経て決定されたのか、そこにはどのような演奏効果が求められていたのか、演奏家の違いによる演奏技術上や作品解釈の問題による運指の特徴は見られるのかということについて考察する。
  運指はタッチやペダルなどと共にピアノ奏法に含まれ、演奏の際はこれらの奏法は互いに結び付き、アーティキュレーションや強弱を表しながらフレーズを形成する。作品中の運指の問題は、ロリオやペーター・ヒル Peter Hill(1948-)らピアニストが指摘するように、奏者は楽譜に書かれている運指を指針としながらも、自身の手の大きさや形などを考慮に入れて、より自身の手に適した運指を決定する。奏法それぞれに奏者の解釈を指摘し得るが、運指は奏者独自の諸問題を大きく反映していると考えられる。
  メシアンをはじめ、ロリオや他の研究者らによる、メシアンの運指や奏法に関する言及や考察はあまりなされていないが、ロリオとヒルとの間で行われた対談から、メシアンはピアノを弾きながら入念に運指を確認したのち、楽譜出版の際に運指を書き込んでいたことが分かる(Loriod 1994: 292-293)。このことから、メシアンは演奏しやすさを考慮に入れながら運指を決定したと言える。他方で、メシアンはヒルの譜面とは異なる奏法に対して称賛の言葉を述べていることから、メシアンは奏者それぞれの奏法や作品解釈の違いに、ある程度寛容な態度を示していたと言える(ibid.)。このことから、メシアンの出版楽譜に見られる演奏指示は、奏者に対して絶対的なものではなく、彼自身の作品解釈を示しているとも考えられるだろう。
  以上のように本研究の目的は、奏者ごとによるメシアン作品の解釈の可能性を、それぞれの楽譜に記入された運指から見出すことにある。

[P-3]柴田真希
能の古態としての黒川能
─昭和11年の黒川能の東京公演に関する資料の考察を通して─

 本発表では、昭和11年に行われた黒川能の東京公演に関する資料への考察を通して、現在では定着している黒川能を能の古態とする評価がどのように始まったものなのかを明らかにする。
   黒川能は山形県鶴岡市に伝承される国指定重要無形民俗文化財である。黒川地域の鎮守である春日神社の男性の氏子たち約100名が上座下座の2座にわかれて神事能を演じる。演能の機会は年に4回あり、外部からの依頼公演にも応じており、国立能楽堂や国立劇場の舞台に出演してきた。
   昭和11年の公演は、東京で行われた公演としては2度目になる。公演は能楽書院の設立30周年を記念して企画されたもので、2日間で約2000人の観客が訪れた。多くの能楽研究者や能楽師なども鑑賞し、黒川能が能楽関係者の目に一度に触れる初の機会となった。能楽専門誌である『能楽画報』には、能楽関係者の評が数多く掲載されており、公演の様相を知ることができる。評を分析すると、黒川能の音楽や演出方法に能の古態を見ようとする一方で、芸に対する評価よりも、舞台での黒川能の役者の敬虔な姿勢を評価する視線が見受けられる。さらに、出演した黒川能の役者の日記を分析すると、役者たちは東京の目の肥えた観客の前での演能に緊張を感じると同時に、神事能としての黒川能に誇りと責任を感じながら舞台に立ったことがわかる。本発表は、観客、出演者という両者の言説の分析を通じて、当時の人々の黒川能への視線のあり方とその影響を明らかにする。
   昨年、昭和11年の公演前日にラジオで全国放送された黒川能の狂言小謡の音源が早稲田大学演劇博物館にて発見された。発表では音源の分析も行うことで、どのような音楽的特徴に古態の風を捉えたのかということも具体的に検討する。
   本発表は、黒川能の東京公演の様相と評価、黒川能の役者たちへの影響を明らかにすると同時に、上記のような視線を持つに至った昭和初期の能楽界の様相を明らかにする。

[P-4]篠原盛慶
田中正平の日本製の「純正調オルガン」に適用された音律
── 伊藤完夫の「ヘルムホルツの平均律」とは ──

 物理学者の田中正平 (1862-1945) の偉大な功績の一つに、1932年以降に計6台が作製された、日本製の「純正調オルガン」がある。この楽器は、その呼び名から、純正律に基づいていると広く認識されている。しかし、田中の主著『日本和聲の基礎』(1940) には、同楽器に「ヘルムホルツの平均法」という調律法が用いられたことが記されている。また、田中の弟子でオルガン奏者の伊藤完夫 (1906-2005) は、主著『田中正平と純正調』(1968) のなかで、この調律法から導かれる音律を「ヘルムホルツの平均律」と記している。
 今日の音律研究の分野では、「ヘルムホルツの平均律」に該当する外国語は確認されない。また、もし日本製の「純正調オルガン」に適用された音律が純正律であるならば、その音律が「平均律」と呼ばれるのは不自然である。本研究の目的は、田中が手掛けた日本製の「純正調オルガン」に適用された音律を、今日の音律研究の観点から明らかにすることである。
 本発表の構成は以下の通りである。最初に、田中の言う「ヘルムホルツの平均法」を概説し、伊藤の言う「ヘルムホルツの平均律」が、今日の音律研究において、1/8-スキスマ・テンペラメントと呼ばれる音律であることを示す。また、日本製の「純正調オルガン」の鍵盤から奏出される31音、および、この楽器の最大の独自性である移調装置を考察し、同楽器には純正律が適用されていないことを確認する。さらに、エンハルモニウムの名で知られるドイツ製の「純正調オルガン」に適用された音律を明らかにした研究結果と比較することによって、日本製の小型「純正調オルガン」である「純正オルガネット」には1/8-スキスマ・テンペラメントが適用され、田中がドイツで手掛けた「純正調パイプオルガン」には53平均律が適用されたことを明らかにする。