Willie Dixon
(本名:Irene Gibbons)


1915年7月1日 - 1992年1月29日
故郷: Vicksburg, Mississippi

Willie DixonとMuddy Watersは戦後のシカゴ・ブルースを形成した最重要人物2人と言えるだろう。
Watersの"Hoochie Coochie Man"や"I Just Want to Make Love to You"といった古典的名作は、Dixonが書いたものだ。
彼は、Little Walterの名曲 "My Babe"やSonny Boy Williamson (Rice Miller) のヒット曲"Bring It on Home."から"Weak Brain, Narrow Mind"、Howlin' Wolfの名曲"Evil," "Spoonful,"、"I Ain't Superstitious,"、"Little Red Rooster,"、"Back Door Man,"といった古典的名曲まで多くの曲を書いた。

Willieは、ブルースとロック&ロールを結びつける役割も果たした。
彼は、1950年代にChuck Berryの多くの曲でプレイし、l960年代には、彼の作った多くの名曲が、イギリスやアメリカのブルース・ロック・バンドによってカヴァーされた。
Creamの"Spoonful", Led Zeppelinの"I Can't Quit You Baby"や"You Shook Me"、Doorsの"Back Door Man"等がそうだ。

Dixonは、ブルース・アーティストの中でも最も影響力があり、尊敬される存在となっていたのである。
1982年には、ブルースへの恩返しの意味を込めて、彼は、自らの印税を元に、Blues Heaven Foundationを設立する。
現在でも活動している、この非営利組織の目的は、ブルース学校や奨学金提供制度といったプログラムによって、ブルースを守ろうというものだ。

Dixonは、Mississippi州のVicksburgで生まれた。
彼の母親は、宗教的な詩を書いて、暗唱していた。
このような環境にいたため、Dixonは、若い頃にリズムの仕組みや拍子を身につけた。
彼が最初に受けた音楽的影響もまた、宗教的なものだ。
若い頃、彼が一緒に歌っていたUnion Jubilee Singersは、Vicksburg station WQBCに自身のラジオ番組を持つ、ゴスペル・カルテットだったのだから。
Dixonは、音楽をやる前は、プロ・ボクサーになる夢を持っていた。
Dixonは、1936年にMississippiを離れ、Chicagoに移る。
1年後、彼は、新人ボクサーとして、Illinois州のゴールデン・グローヴス・へヴィー級チャンピオンになっていた。
彼は、1度は、あのJoe Louisとスパーリングをする程であったのだ。
こうした最初の成功にも関わらず、プロ・ボクサーとしてのキャリアは4戦しか続かなかった。
ボクシング委員会での金銭面での、マネージャーとの口論によって、Dixonが描いていたボクシング・ドリームは終わりを告げた。

その後すぐに、Dixonはミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。
1939年、彼は、ベースを演奏しだし、ギタリストのLeonard "Baby Doo" Castonと共に、Five Breezesを結成した。
彼等は、Chicagoのクラブでの演奏や2〜3のレコーディングを1941年までやっていた。
自らを、良心的徴兵忌避者と言っていたDixonは、1941年にアメリカの軍隊に従事することを拒否したかどで逮捕された。
Dixonが獄中にいる間、Castonは、Rhythm Rascalsというトリオを結成し、太平洋や北アフリカ、ヨーロッパの無名のクラブで演奏した。

出獄後、Dixonは、新しいグループ"the Four Jumps of Jive"を結成し、Chicagoのクラブで定期的に演奏し、1945年には、Mercuryレコードでレコーディングした。
同年、CastonがChicagoに戻り、再びDixonのパートナーとなった。
彼等は、ギタリストのBernardo Dennis(彼は後にOllie Crawfordに変えられた)を加えてBig Three Trioとして活動するようになる。
ソフト・ブルースやブギウギ、ポップ、流行歌といったレパートリーで、Big Threeは、まずBulletレコードと、そして、後1947年にはColumbiaレコードと契約を結ぶんだ。
The Big Threeは、 1952年まで活動していた。

Big Three Trioとして活動している間、Dixonは、シカゴ南部のクラブで、Muddy Watersを始めとするブルース・マン達とジャム・セッションも行なった。
そんなジャムの1つ、Macomba Loungeで行なわれた、ある晩遅くのことであった。
Dixonは、クラブのオーナーであるPhilとLeonard Chessに出会った。
Chess兄弟は1948年当時、Chess Recordsを始めていて、Dixonにレーベルでのパート・タイムの仕事を依頼した。
彼は、この申し出を受け入れ、Big Three Trioの解散後は、フルタイムでChessで働くことになった。

Dixonは、Eddie Boydのためにいくつか曲を書き、1953年には彼自身の名義でChessから数曲リリースした。
1954年までの間に、WatersはDixonの"Hoochie Coochie Man,"を、Howlin' Wolfは"Evil,"を、そして、Little Walter & His Jukesは"Mellow Down Easy,"を録音し、これにより、Dixonのシカゴ・ブルース界での名声は高まった。
Dixonは、セッション・ミュージシャンとしても活動し始めた。
Chessのハウス・バンドでWaters、Berry、Bo Diddley、Little Walter、Jimmy Witherspoon等のレコーディングでベースを演奏した。
Dixonは、Chessでアレンジやプロデュースも担当するようになったが、これは、彼の人気のある作曲の才能ゆえである。
上述したことに加えて、Dixonは、ブルースのスタンダード・ナンバーとなった "The Seventh Son,"、"Wang Dang Doodle,"、"You Can't Judge a Book by Its Cover,"といった名曲を作曲した。
Dixonは、ソロでのレコーディングも続けたが、ソングライターや一流のセッション・マンとして程の成功は収めなかった。

DixonのChessへの在籍期間は、Cobraレコードで働いた1957年に中断する。
Corbaに在籍した2年間の間に、Dixonは、1950年代〜60年代に西側のシカゴ・ブルースを築き上げたこの3人のギタリスト、Magic Sam、Otis Rush、Buddy Guy達と共に働いた。
Cobraが倒産すると、Dixonは、Chessに戻り、1960年代をそこで過ごした。
その間、彼は、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルのメンバーとヨーロッパで演奏し、シカゴ・ブルース・オールスターズを結成した。
彼のツアーやレコーディングに柔軟に対応出来るバンドだ。

1970年代、Dixonは、Ovation、Columbia、Yamboといったレーベルで、アルバムをリリースし、定期的にツアーをした。
1980年代にも彼はPausaレーベルでアルバムをリリースした。そして、映画のサウンドトラックにも挑戦した。
管弦楽器の音楽を"The Color of Money"のために提供し、La BambaでBo Diddleyのヴァージョンの"Who Do You Love"をプロデュースした。

1980年、Dixonは、ブルースの殿堂入りする。
彼は、その後もアメリカ国内、国外を問わずに、クラブやフェスティバルでの演奏を続けた。
そして、1988年、彼は、Bug/Capitolとレコーディング契約を結び、非常に高い評価を得たアルバム"Hidden Charms"を発表する。
1年後、彼は自伝"I Am the Blues (Don Snowdenと共に書かれた)を出版した。
1990年までに、Dixonの病気は進行し、彼自身が作ったBlues Heaven Foundationでの活動は続けていたものの、Chicago Blues All-Starsとのパートでの演奏しか出来なくなっていた。
1992年、彼は心臓病のため、亡くなった。