W. C. Handy
(本名:William Christopher Handy)

1873年11月16日 - 1958年3月28日
故郷: Florence, Alabama

W.C. Handyは、彼自身を"ブルースの父"と呼ぶ。
Handyがブルースの形式を発明したわけではないが、彼は、曲のタイトルに"Blues"という言葉を使った最初の人の1人だ。(例えば、1912年の"Memphis Blues")
そして、"blue notes"(メジャー・スケールの3番目と7番目の音を半音下げたもの・・・(注)ただし、基本的に、これがブルース・スケールだ!と定義出来るようなものは存在しません)を作品に使用している。
Handyは、ブルースという音楽形式を広め、1900年代のアメリカ特有の表現とした点で初期のブルースの開拓者達と同じ位の功績をしたと言える。
ソングライターとして、バンド・リーダーとして、出版者として、Handyは、彼自身のある程度出来上がっていた音楽的な基盤のために、ブルースと一定の距離を置いていたものの、ブルースと同義の存在になった。
彼はブルースを"原始的な音楽"と呼んだ。
その発言は、="騒々しい退屈"というブルースの持つ従来の意味を暗にほのめかしていた。
しかし、Handyは、後年までには、ブルースの王者に返り咲いていた。
Handyのブルースへの貢献の栄誉を称え、Memphisの有力者達は、公園に彼の名をつけた、そして毎年、ブルースの殿堂が選ばれ、W.C. Handy賞は、ブルースにおいてグラミー賞にも匹敵する価値がある。

Handyは、Alabamaに生まれ、若い頃から音楽を学んだ。
彼は、南部を旅芸人やテント・ショーと共にまわるバンドでコルネットを演奏した。
Handyによると、それは、1892年のことだが、彼は、旅の途中で、デルタ・ブルースを初めて聴いたようだ。
Maharaの旅芸人と演奏した後、彼は、1896年に一座の音楽の総合責任者を継ぎ、1800年代後半〜1900年代初期にかけて、Mississippi Deltaで手軽なクラシック音楽や当時のポピュラーなダンス・ナンバー、流行歌を演奏した。

1908年には、彼は、Memphis市長選挙でE. H. "Boss" Crumpのためのキャンペーン・ソングを書くように要請された。
Handyはやむなく書き、彼が書いた曲のオリジナル・タイトルは、"Mr. Crump."だ。
Handyは、後にそれを"Memphis Blues"に変えて1912年に出版した。
その曲はビッグ・ヒットになった。
細かい研究家は、"Memphis Blues"が本当にブルースかどうかを議論しているが、その是否に関わらず、"Crazy Blues"を書いたPerry Bradford(この曲は、Mamie Smithのために書かれ、彼女は、1920年に録音し、最初期のブルースの曲となった)のような、ブルース作曲家にインスパイアされた曲だという事実に間違いない。
この曲は、今でも、1920年代の古典的ブルースとして知られている

Handyは、1914年に"St. Louis Blues"と"Yellow Dog Blues"を、1916年に"Beale Street Blues"を出版した。
そんな中で、1917年にNew York Cityに移動した彼は、1923年まで彼自身のバンドと共に録音し、1922年には、Handy Record Companyを設立するが、そのレーベルは、ろくにレコーディングを発表出来ないまま、失敗に終わった。
1920年代、30年代と、Handyは多くのオーケストラと共演した。
1938年には、彼は、自伝"Father of the Blues"を書いた。
1940年代、視力の低下のため、Handyは、表舞台からは姿を消し、その後、1958年に亡くなった。