Trixie Smith


1895
年 - 1943年9月21日
故郷: Atlanta, Georgia


Trixie Smithは、1920年代にレコーディングを行なったSmithの名を持つ4人の有名な女性ブルース・シンガーの中でも最も忘れられている1人だろう。(他の3人は、Mamie Smith、Bessie Smith、Clara Smithだ。ただし、全員、血縁関係も何も無い別人)
強くしなやかな同名の他のSmithと違い、Trixieの声は厚みが無かったが、その声には慈愛の響きがあった。

Atlantaで生まれ育ったTrixie Smithは、歌手になることを決意し、1915年前後にNew Yorkに出てくるまでは、Selma大学で学んでいた。
彼女は、TOBA (劇場オーナーのブッキング連盟
)周辺で働き、おびただしい数のNew Yorkの寄席演芸ショーに出演し、最終的に主演ヴォーカリストになった。
1921年、Smithは、Black Swanレーベルでレコーディングを始めた。
彼女のBlack Swanでの曲の一部のライヴ・パフォーマンスの1つ"Trixie's Blues,"は、1922年のNew Yorkのブルース・コンテストで1位になり、銀杯を獲得した。
彼女は "Railroad Blues,"の歌手としてよく思い出される。この曲のレコードには、彼女の最も刺激的なヴォーカル・パフォーマンスが収められている。
"The World Is Jazz Crazy and So Am I."もそうだ。
上記2曲は、Louis Armstrongのコルネットをフィーチャしている。

彼女は1938年、1939年にDeccaで退屈なレコーディングをしたが、彼女のレコーディング・キャリアは、事実上1926年に終わっていた。
彼女が持ちこたえさせていたのはキャバレーのレビューへの出演と音楽ショーの旅回り、演劇作品へのわずかな出演であった。
1943年、Trixieは亡くなった。