Sleepy John Estesは、Tennesseeを基盤にむせび泣くヴォーカルとカントリー・ブルースの伝統に根付いた作曲で知られるシンガーでありギタリストだ。
Estesは、明らかに彼自身の経験や1930年代の社会状況に言及した南部のブルースを書いた。
彼のヴォーカル・スタイルは伝統的な要素を思い起こさせ、そのギター・ワークもまた、ある程度の制約はあるものの、純粋なものだった。
そして、1960年代のフォーク・ブルースのファン達は、彼を支持したのだ。
Estesは、Tennessee州Ripley郊外の分益小作農の家に生まれたが、Brownsvilleで育った。
彼は、右目の視力を若い頃の事故で失った。
Estesは、ギターの弾き方を学び、パーティーや行楽で演奏した。そういった演奏は、しばしば、マンドリン奏者のYank Rachellと共に行なわれた。
1920年代、Estes、Rachell、それに、ハーモニカとジャグ・プレイヤーのHammie Nixonは、Memphisに移動し、道角や公園のジャグ・バンドとして演奏をした。
Estesは、1929年、Victorと契約し、レコーディング・キャリアを開始した。
2年後、彼とNixonは、Chicagoに移住し、そこで、1930年代の間、Estesは、Deccaと契約してレコーディングを行なった。
Estesは、1940年から41年の間、Bluebirdでもレコーディングをした。
"Someday, Baby" ("Worried Life Blues"の名でも知られる)は、Bluebirdからリリースされた彼の最も有名な曲であり、最終的にEstesのトレードマークとも言えるナンバー、そしてブルースのスタンダード・ナンバーになった。
Estesのあだ名は、彼の居眠りをする癖から来ている。
彼は、Tennesseeに戻り、レコーディング・キャリアの第一期を終えた。
彼は、Brownsville郊外に住み、働き、たまに、演奏するためにMemphisに旅した。
1950年代初頭、EstesとNixonは、MemphisのSun StudioでSam Phillipsと共にレコーディングをした。
しかし、この時点で、彼はすでに左眼の視力も失っており、完全に盲目になってしまっていた。
Estesは、1950年代には、ブルース・シーンから消え、多くのブルース・ファンは、彼が人知れず亡くなっているものとばかり思っていた。
ところがどっこい、1962年にEstesは、Brownsvilleで貧乏暮らしをしているのを再発見された。
フォーク・ブルースのファン達による彼のキャリアの再評価が高まったため、Estesは、2本のドキュメンタリーに出演した。
1962年の"Citizen South, Citizen North"と1963年の"The Blues"が、それだ。
彼は、Delmark Recordsともレコーディング契約を結び、1960年代にアルバム"The Legend of Sleepy
John Estes"他を録音した。
彼は定期的にツアーと演奏を行い、コンサートやクラブ、フォークやブルースのフェスティバルに出演した。
1964年、彼は、Newport Folk Festivalに出演し、その後、American Folk Blues Festivalと同じ顔ぶれでEuropeに行った。
彼は、1969年のNewport Folk Festivalにも出演し、同年、Ann Arbor Blues Festivalでも演奏した。
Estesは、1970年と73年のSmithsonianのFestival of American Folklifeにも呼ばれ、その後、ヨーロッパと日本にもツアーをした。
彼は、レコーディング作品をどんどん出し、Delmarkや他にもFontanaのような小さなレーベルからも、リリースした。
Estesは、1977年に亡くなった。
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