Skip Jamesは、いわゆるミシシッピ・ブルースのBentoniaスクールの最も重要な練習生の1人だ。
彼のヴォーカル・スタイルは、高音で耳から離れないファルセットの調べを持っている。
一方、彼のギターは、複雑なピッキングのテクニックと、大体においてマイナー・コードとマイナー・チューニングを用いた不気味なサウンドを軸として構成されている。
彼のレコーディング・キャリアは、1931年に、Paramount Recordsで録音したものの寄せ集めと、1960年代のいくつかのアルバムだけだが、Jamesは、Robert
Johnsonを含め、多くのMississippiのブルース・マンに影響を与えた。
そして、ブルース研究家やコレクター達からは、ブルースの歴史上、非常に魅力的なスタイルを持ったブルース・マンとして高い評価を受けている。
Jamesは、信仰心強い家庭に生まれた(彼の父親は牧師だった)
彼は、高校でいくつかの音楽のレッスンを受けることで、ピアノの弾き方を学び、友人のHenry Stuckeyからギターの弾き方を教わった。
JamesとStuckeyは、l920年代から1930年代初頭にかけて、行楽やダンス会で、しばしば一緒に演奏した。
1930年、Jamesは、Mississippi州Jacksonのあるレコード店オーナー、H.P. Speirに見出された。
Speirは、JamesをWisconsin州のGraftonに送り、そこで、彼は、Paramount Recordsで26曲を2日で、レコーディングした。
1930年代当時、レコード業界を襲っていた不況のため、Jamesのレコードは、セールス的には低迷した。
このことに失望したJamesは、ブルースを演奏するのを止めて、Dallasに移動、Dallas Texas Jubilee Singersというゴスペル・グループを結成し、父の教えを受けるために戻った。
Jamesは、自身も牧師となり、1932年には、バプテスト派・牧師として、聖職に任命された。
その後、40年代半ばには、Mississippiに戻った。
Jamesは、1940年代、1950年代を音楽以外の仕事をしていたが、1964年、フォーク・ギタリストのJohn Faheyとその友人、Bill
BarthとHenry Vestine (彼は後にブルース・ロック・グループのCanned Heatでプレイする)に見出され、1964年にRhode
Islandで行なわれるNewport Folk Festivalで演奏するように説得される。
そこでのJamesの会心の演奏は、彼がフォークやブルースのクラブをツアーし、他のフェスティバルに出演することを可能にした。
そして、そういった活動は、しばしば、Mississippi John Hurtと共になされた。
Jamesは、60年代にVanguard labelでレコーディングもした。
彼の2枚のアルバム"Skip James Today!"と"Devil Got My Woman"には、Jamesの単独のファルセットとメランコリーなギター・スタイルが詰まっている。
60年代半ばに、Jamesは、Philadelphiaに移り、1969年、癌のために死去した。
1992年、彼はブルースの殿堂入りした。
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