RayはGeorgiaで生まれたが、Florida州Greenvilleで育った。
彼は5歳の時に緑内障が治療されなかった為、目が悪くなり、7歳の時には完全に盲目になった。
子供の頃、彼は視聴覚障害者のための学校、St. Augustine School に通い、そこで様々な楽器を学び、最終的にピアノに集中することになった。
15歳の時に母が他界し退学せざるを得なくなった後、Charlesは1948年にSeattleに移動する前、北Floridaのバンドで演奏し、その後、McSon
Trio、(後のthe Maxine Trio)を結成した。
Charlesはブルース、R&B、ソウル、カントリー、ポップといった様々なスタイルで演奏した。
多くの人々が彼を"ソウルの父"とみなす。
すなわち、1950年代中期にブルースやゴスペル、R&Bを混ぜることによって、Charlesは彼の音楽史の第一歩を踏み出すのである。
Rayは1949年、彼と彼のトリオが、Downbeatレーベルで"Confession Blues"を録音したことでレコーディング・キャリアを開始する。
そのレコードはその年のR&Bチャートの第2位になった。
1950年代はじめには短期間ながらSwingtimeレコードと契約し、結果として2枚のヒットシングルを生み出すことになる。
1951年の"Baby Let Me Hold Your Hand"と1952年の"Kiss Me Baby"である。
両方ともR&Bチャートのトップ10にランクインした。
1952年の終わりには、AtlanticレコードがSwingtimeからRayの契約を買い取り、彼自身にとっても記憶に残るR&Bとブルースの期間を迎えることになる。
1954年〜1960年がそれにあたり、Rayは20曲以上ものR&Bチャートにランクインする曲を生み出すことになる。
その中にはNo.1ヒットになった "I've Got a Woman"や"A Fool for You" (1955年)、 "Drown
in My Own Tears" (1956年)、"What'd Say (Part I)" (1959年)といった曲やそれ以外にもヒット曲が含まれている。
Rayのヴァージョンの"Georgia On My Mind"は1960年のBillboardチャートで1位になり、Grammy賞で2冠を取った。
1つは、最優秀男性レコーディング・アーティストで、もう1つは最優秀R&Bレコーディング賞だ。
1950年代初頭にはRayはブルースギタリストのLowell FulsonとGuitar Slimと組んだ。
Slimの代表曲"The Things That I Used to Do."をRayがアレンジし、演奏した。
彼が "What'd I Say,"−その曲はブルースやR&B、ソウル、ロックを結びつけた極めて重要な曲だ−を発表する頃には、Rayは、ミュージック・ビジネスの中で、最も重要な黒人アーティストの1人となっていた。
1960年、RayのAtlanticとの契約は切れ、新たにABC-Paramountと契約することになる。
"Georgia on My Mind"や彼の1961年の3つのNo.1ヒット "One Mint Julep,"、"Hit the Road
Jack" (Percy Mayfield作曲)、"Unchain My Heart' 'はR&B・ブルーススタイルだが、
Rayはカントリーやポップ・ミュージックへの移行をはかり、翌年、No.1ヒットの"I Can't Stop Loving You."を生み出す。
1962年の彼のアルバム"Modern Sounds in Country Music"もアルバム・チャートでトップに輝いた。
Rayは人生の浮き沈みも経験した。
1965年にはヘロインのため、逮捕された。しかし、彼は、尋常でない不屈の精神で60年代、70年代を乗り切った。
1980年には、映画"The Blues Brothers"に出演し、2年後、彼はブルースの殿堂入り、1986年にはロックの殿堂入りした。
1989年には「いとしのエリー」の英語版を日本でヒットさせ、来日公演も頻繁に行っていたが、2003年、腰痛のため、夏の北米ツアーを、自身のキャリアで初めて一部キャンセルするなど体調不良となり、2004年4月30日、ロサンゼルス市内で行われた式典に車いす姿で出席した際には、衰弱が進み、声はほとんど聞き取れない状態だった。
これが公の場に見せた最後の姿だった。
そして、数ヵ月後の6月10日、肝不全のためロサンゼルス・ビバリーヒルズの自宅で死去。享年73歳。世界中に惜しまれつつの死であった。
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