Bessie Smithと共に、Gertrude "Ma" Raineyは、1920年代の最高の古典的ブルースシンガーとみなされている。
彼女は、ブルースを旅周りや寄席演芸のステージ・ショーに取り入れた最初の女性と言われている。(恐らく、それは、早くて1902年くらいだと言われている)
Raineyは、しばしば"ブルースの母"とも形容される。というのも、彼女の影響を受けた女性ブルース・シンガーは数知れず、多くのフォロワーを生んだからだ。
彼女がレコーディング・デビューするまで、南部以外の場所で演奏することは稀だったという事実にも関わらず、彼女の影響力は非常に大きい。
Raineyのヴォーカルは、生々しく、都会風というよりは、南部のカントリー・ブルースの素朴な味わいがあり、20年代初頭にレコーディングを始めた女性ブルース・シンガーが、あたかもキャバレーで歌っているといった風情であった。
Raineyは、彼女の優れたレコードの中で、根源的な素朴で説得力のある歌い方をした。
このように、Raineyは、1920年代における男性中心のカントリー・ブルースと女性中心の都会的なブルースの間で、非常に重要な存在であった。
Gertrude Pridgettは、南部のエンターテイメント一家に生まれた。
彼女の両親は、一時期、旅芸人をしていた。
Gertrudeは、1900年に初ステージを踏む。
彼女は、1904年に、旅芸人のソング&ダンスマン、William "Pa" Raineyと結婚した後は、"Ma" Rainey という名前になった。
Rainey夫妻は、"Rainey and Rainey (大抵の場合は、'Ma' and 'Pa' Raineyと呼ばれた)、あるいは、ブルースの暗殺者といった異名を取った。
彼等は、南部を旅した。最初は、Rabbit Foot Minstrelsと共に旅し、Raineyは、若き日のBessie Smithを教えたらしい。
その後は、Tolliver's CircusやMusical Extravaganza、その他のいくつかのテント・ショーの一座と共に旅したようだ。
1920年代のRaineyは、TOBA (Theater Owners' Booking Association=劇場オーナーのブッキング協会)の看板歌手であった。
1923年にParamountレコードと歌手契約を結ぶ前に、Raineyには、すでに25年間近くにわたる、ステージでの実績と名声があった。
そのため、 Paramountレコードは、彼女にステージと同じように歌ってくれるように頼んだ。
"最後のブルースの母の発見"という売り文句も、あながち外れていないのだ。
Raineyは、レコードを作った時、38歳であった。
Raineyのレコーディング・キャリアは、1928年に終わった。
6年間のスタジオ・ワークで、彼女は、100数曲を録音した。
その中には、古典的名作である"C.C. Rider" (別名:"See See Rider")や"Jelly Bean Blues,"ユーモラスな"Ma
Rainey's Black Bottom"、ディ−プなブルースの"Bo Weavil Blues."等がある。
彼女は、そのキャリアの中で、彼女自身のGeorgia Bandのような無名のメンバーのバックで歌ったのと同様に、コルネット奏者のLouis
ArmstrongやTommy Ladnier、ピアニストのFletcher HendersonやLovie Austin、サキソフォン・プレイヤーのColeman
Hawkins、クラリネットのBuster Baileyといった有名なジャズ・ミュージシャンのバックで歌った。
彼女は、伝統的な美しいルックスには恵まれなかったにも関わらず−彼女は、ぽっちゃりとした顔とがっちりとした体格であった−ブルースの女王らしく着飾った。
そのステージ衣装は、ふんだんにスパンコールを飾ったガウンであった。
ステージの外では、Raineyは性的な乱交で知られていた。
Raineyの人気は、とりわけ南部のオーディエンスにとっては、カントリー文化に根付いた彼女の作曲と歌う才能による部分が大きい。
彼女の歌は、貧困にあえぐ分益小作人や、性的な虐待や不貞に悩ませられる貧しい南部の黒人について歌っている。
Raineyのキャリアは、20年代に活躍した他の古典的女性ブルース・シンガー達と同様に1930年代には、枯渇していた。
しかし、十分に稼いでいたため、1933年には、公演活動から引退することが出来た。
Raineyは、故郷のGeorgia州Columbusに戻り、そこで1939年に心臓麻痺のため亡くなった。
Raineyは、1983年にブルースの殿堂入りし、1990年にはロックの殿堂入りした。
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