Jimmy Yancey
(本名:Papa Jimmy Yancey)


1898年2月20日 - 1951年9月17日
故郷: Chicago, Illinois

Jimmy Yanceyは、Chicagoのブギウギ−ピアニストのパイオニア的存在で、彼の独特のキーボード・スタイルは、主なブギウギ・ピアノ・パターンのベースの繰り返しと時折、断続的な演奏も混ぜたものだ。
ラテンにインスパイアされたベースのリフ、それに、1930年代後半のMeade "Lux" Lewis、Albert Ammons、Pete Johnsonといった奏者で有名な速いペースながら、抑えの効いたテンポが、彼の持ち味だ。
活動がクラブに限定され、1920年代までレコーディングを行なわず、1930年代にも殆どレコーディングしなかったにも関わらず、Yanceyは、都市のクラブ・ハウスや家庭パーティーでの定期的な演奏によって、シカゴ・ブルースやジャズ界に大きな影響を与えたことで知られている。
彼は、1951年に亡くなるまで、こういった人が集まるパーティーで演奏し続けた。

Yanceyは、1898年に音楽一家に生まれた。
彼の父は、寄席演芸の芸人で、兄弟のAlonzoは、流行のピアニストであった。
Yanceyは、エンターテイメント界での活動を、幼い時期、父親のツアーに付いて行くことで開始した(この時は、タップ・ダンサーやシンガーといった役であった)
16歳になるのを待たずして、Yanceyは、すでに、アメリカやヨーロッパを横断し、Buckingham宮殿では、イギリス王室の前で演奏していたのである。
第一次世界大戦と、それにともなう寄席演芸界の不振下における1915年、Yanceyは、Chicagoに戻り、兄弟からピアノの基礎を学んだ。
そして、パーティーや臨時のクラブで演奏するようになった。
ハウス・パーティーのピアニストとして成功したにも関わらず、Yanceyは、音楽を本業にはしなかった。
彼はまた、Chicago White Soxのホーム・グラウンド、Comisky Parkの運動場管理人でもあったのだ(彼はこの仕事を25年間続けた)
Yanceyは、セミプロとして、Chicago All- Americansで野球をしていたとも言われている。

Yanceyは、(それまでに20年間演奏してきてはいたが)ブギウギ・ブームの最高潮の中、1939年にレコーディング・キャリアを開始した。
彼の最初のレコーディングは、Solo Artレーベルで行なわれた。
彼は、1940年代や1950初期に、Victor、Vocalion、Session、Paramount、Atlanticといった他レーベルでのセッションにも参加した。
"Yancey Stomp,"、"State Street Special,"、"35th and Dearborn"といったピアノ作品は、Yanceyの代表的な曲だ。
ソロ・レコーディングに加え、彼は、妻、Estelle "Mama" Yanceyや仲間のブギウギ・ピアニスト、Cripple Clarence Loftonのレコーディングにも参加した。
1948年、彼と妻は、New YorkのCarnegie Hallで演奏した。
3年後、Yanceyは、Chicagoの自宅で、糖尿病と脳梗塞を併発し、亡くなった。

Yanceyは、1986年に、ロックの殿堂入りを果たした。
彼のシンボル、ブギウギ・プレイは、1950年代初頭の音楽を誕生させたことで知られている。