「俺がここにいるということには、何か理由があるに違いない。
俺が出会った奴等は、誰だって何かを教えてくれたし、単に会っただけなんてことはなかったんだ。
だから、俺の才能の99.5%は、神からの授かり物だが、残りは俺自身が観て、見て、学び取ったものなのさ」
−Buddy Guy−
Otis RushやMagic SamBuddyと同様、Guyもポスト・モダンの時代におけるブルース・ギターへの注目に貢献した。
B.B.Kingと似たスタイルのGuyは、有名なセッション・プレイヤーとして、成功したソロ・アーティストとしても知られている。
Jimi Hendrixは、Guyから多大な影響を受けたことを認めているし、Eric Claptonは、Guyを最も偉大なブルース・ギタリストと評した。
事実、今日、Guyの究極のブルース・ギター・ソロの才能に並ぶミュージシャンは、殆どいない。
Guyは、Louisianaで生まれ育ち、1950年代初期に、Baton Rouge周辺で、プロ活動を開始した。
彼のキャリアが形作られていったのは、1957年、彼がChicagoに移住した後のことだ。
Guyは、都会のブルース・シーンでキャリアを積んだ。
1958年、彼は、クラブがスポンサーの"ブルース対決"コンテストでMagic SamとOtis Rushに勝った。
この勝利により、Guyは、Samに、ArtisticとCobraレーベルのオーナー、Eli Toscanoを紹介してもらった。
Guyは、Artisticで(倒産する前に)2枚のシングル "Sit And Cry"と"This Is the End,"をリリースした。
1960年、Guyは、Chess Recordsと契約し、そこで必要に応じてセッション・ギタリストとなり、Muddy WatersやWillie
Dixon、Little Walter、Sonny Boy Williamson(Rice Miller)、Koko Taylorといった著名ミュージシャンのバックを務めた。
1962年、彼自身のレコード "Stone Crazy,"がR&Bチャートの12位になった。
Guyは、1967年にChessを離れ、Vanguard labelと契約した。
ここで彼は、アルバム"A Man and the Blues"、"This Is Buddy Guy"、"Hold
That Plane!"を発表した。
彼はハープ奏者のJunior Wellsともプロとしての親交を結んだ。
このデュオは、1960年代後半から70年代初期にかけて、とりわけ白人ブルース・ファンから高い人気を誇った。
Buddyは、セット毎に、Howlin' WolfやGuitar Slimの真似をすることが出来たし、そうすることによって、ソウル−ブルースの研究に慣れていった。
それは、ステージ上で熱狂的なプレイで知られている彼とは全く違うものだった。
Guyは、アメリカのクラブやヨーロッパのブルース・フェスティバルでブルースを演奏し続けたが60年代後半に彼を支持したロック・ファンからは大した注目をされなかった。
しかし、1989年、Guyが、今でも有名なブルース・クラブ"Legends"をChicagoに作ったことにより事態は急変する。
そのクラブは、Chicagoを訪れるブルースマンやブルースに影響を受けたロック・ミュージシャンが必ず途中下車する場所となった。
1991年、Eric Claptonは、LondonのRoyal Albert Hallでの彼の演奏にGuyを招待した。
GuyとClaptonとの素晴らしい演奏が、the Silvertone labelとのレコーディング契約につながり、"Damn
Right"や"I've Got the Blues"のリリース、Clapton、Jeff Beck、Mark
Knopfler等も参加し、高い評価を受けた、カム・バック・アルバムのリリースとなった。
続くアルバム"Feels Like Rain"は、1993年に発売された。
Guyは、公演とレコーディングを続けている。
尚、彼の兄弟は、ブルース・ギタリストのPhil Guyである。
|