ラトレッジ精神病院 病例記録
患者:アリス
入院日:1864年 11月 4日
医師:MANGEKYO-@790( ̄ー ̄)ニヤリ

1864年11月4日
非常に厄介で、難しい病例の患者の治療にあたらせてくれると理事長が確約してくれた
不安もあるが、名誉なことだ。患者の名はアリス。
彼女の病状が今後どのように進むかは予断を許さない。
それにしても、カルテに目を通して私は驚かされた。彼女が生き長らえてるのは奇跡だ。
なにしろ彼女は一年近くも昏睡状態にあったのだから。

*当時「すべて」を知っていたら、私は彼女を引き受けただろうか?73/10/8

1864年11月11日
担架に乗せられたまま身動き一つしない。頭に巻かれた包帯が目を引く。
アリスはかろうじで生の縁にしがみついてるといった状態のようだ。
火事から一年たって、彼女の火傷はめざましく治癒している。しかし、彼女の心はここにない。
その様子は重度の痴呆病患者を思わせる。炎が彼女の感覚を焼き尽くしてしまったかのようだ。
アリスはどんな刺激にも声を出さない。見えても、聞こえてもいないようだ。
今の彼女は、この病院の暗がりのように陰鬱そのものだ。

アリスを病院の中に運び込もうとしたときのことだ。私達の一瞬の隙をついて、
興奮した猫がアリスの上に飛び乗った。猫は高い声でミャァ〜っと悲しげに鳴いた。
あろうことか担架を運んでいた者達は、鳴き声にびっくりして、
少女ののせた担架を地面におとしてしまった。
すると猫は、まるで領土を主するかのように、アリスの上に乗った。
その様子は、ようやく捕まえたネズミを横取りされないようにしているようにも見えた。
病院の雑役夫が某で脅すと、ようやく猫はアリスの上から離れ、近くの生垣に入り込んだ。
しかし、今度は生垣から動こうとしなくなり、かっと見開いた目でアリスを見つめ続けた。
それはまるで、私達がアリスをどうするつもりか、興味があるような仕草だった。

*猫には注意したほうが良い。それが長い年月の末に私が学んだ教訓だ。73/10/21

1864年11月13日
大火事から十二ヶ月が経過したが、アリスは静かで陰気な闇の中にますます埋没して
いっている。理事長が彼女を病院の地下墓地に埋めてしまわなかったのが、むしろ
不思議なほどだ。皮膚は外科医たちの治療で治っている。だが、燃え尽きてしまった
精神を治すのは、彼らの手にあまる仕事だった。理事長が私に何を期待しているのか、
私にはよくわからない。おそらく、オックスフォードの教室では教えられなかったことを、
この混沌に満ちた壁の中ですごした二十三年の間に、私が学んだと思っているのだろうか。

1864年11月14日
アリスの唯一の持ち物はおもちゃだ。煤で汚れたそのウサギのぬいぐるみは、
ボタン製の目を留めている糸がほつれているせいで、過多目がたらりとぶら下がって
いる。物心つく前からのお気に入りなのだろう。火事の前の正確と彼女を
つなぐ唯一の絆だ。今はウサギだけが、哀れなアリスを見守り続けている。

*ショック療法の道具としてウサギは効果的かもしれない。もっと早く気づくべきだった。。。73/10/21

1864年12月8日
アリスの瞳に炎がゆいらめいた。だが、それはほんの一瞬で、中空を擬視する彼女の目は、
すぐにいつもの虚無的な色を取り戻してしまった。私は彼女の耳元で、二つの木片を
カチカチと叩いてみた。反応はなかった。聴覚にも視覚にも障害は認められないにも
関らず、彼女はどんな反応も示さない。アリスは何も感じないのだと噂している者
たちもいる(出処はレヴェレンド・モットルだ)。肉体的なものであれ、精神的なものであれ、
どんな苦痛もアリスは感じないというのだ。信じるに値しない、思いやりのかけらもない
噂だ。とはいえ、今のアリスが噂以上にひどい状態に陥っているのもまた事実だ。

1864年12月9日
様々な意味において、彼女はすでに死んでいるも同然だ。ぴくりとも動かないその
表情は、まるで鬼籍に入る練習をしているかのようだ。正直なところ、彼女が今日、
この古ぼけた病院でしんだとしても、それを気にする者はほとんど居ないだろう。
例え、偶然に誰かが彼女のカルテを見る事があったとしても「気の毒に。かわい
そうな子だ」と呟いた後は、さっさとページをめくってしまうものだ。

*一見する限りは、とても落ち着いていた。心の中ではすでに狂気が渦巻いていたの
だろうか?73/10/23

1864年12月10日
弱弱しく見えるが、今日まで生きてきたのだから、それなりの体力はあるはずだ。
しかし、熱が下がらない。呼吸もときどき荒くなる。一年以上も治療を受けてはいるのだが、
あれほどの大火傷を負ったのだから、具合が悪くても当たり前だ。だが、今まで
大英博物館のようにじっと横渡っているだけだったアリスが、荒い
呼吸をし、苦しみながらだが、微妙に体を動かしている。大きな進歩と考えられなくも
ない。私はあえてこの機会に、彼女の精神を揺り起こしてみるつもりだ。彼女の反応は
無意識のものかもしれないが、それでも構わない。明日から、湿布と湾血による治療を
徐徐に始める。湾血によって悪い血を流せば、彼女の痴呆状態もいくらか回復するか
もしれない。試してみたい新種のショック療法もある。この治療に彼女はどのような
反応を見せるだろうか?

1864年12月14日
アリスの火傷を手当てした医師によれば、処置してる間、彼女はほとんど反応を
示さなかったそうだ。それどころか、そのあと数ヶ月にわたって、予後を見守っている間
も。彼女は滅多に感情の揺れを表にださなかったという。だが、夜になると絶叫する
事が何度かあったらしい。叫び声を聞いて看護婦がかけつけると、アリスはまるで
魔法によって悪夢から開放されたかのように、すぐに静かになったということだ。
そのうち看護婦たちは、いちいちアリスの叫び声に反応するのをやめてしまった。
そして、しばらくすると、アリスは全く声を発しなくなってしまったというわけだ。

1865年1月6日
ある女性患者が、夜のうちに亡くなった。アリスに使うつもりだったものと同じ薬を
投与していた患者だ。この薬を飲むたびに女性患者は確実に快方に向かっている
と、私は確信していた。それだけに、これは極めて頭の痛い結果だ。おそらくは、長
患いで弱っていた彼女の胸にとって、あの調合量では強力すぎたのだろう。これ
をアリスに投与するには、もうすこし臨床実験を重ねる必要がありそうだ。

*「アヘン剤」を少し減らし「(読めん)」を少し増やせば彼女を救えたかもしれない 73/12/13

1865年1月22日
湾血してみたが、これといった変化はなかった。アリスの顔色がいっそう悪くなっ
ただけだ。見にまとっている淡褐色のぼろ着とあいまって、彼女はまるで象牙色
の亡霊のようだ。とはいえ、湾血は強壮薬の投与に備えて彼女の体を慣らす下準
備にはなるだろう。

1865年2月18日

今週は三回も切開手術があった。どんな病院でも、これはかなりの数だ。
ぴくぴく動く切開面や砕けた関節が夢にでてくるほどだ。ナポレオンの外科医に
感謝の祈りを捧げずにいられない。苦痛を感じさせることなく手足を切断する
技術が確立されるまでは、患者の悲鳴はさぞかし凄まじかったに違いない。
クロロホルムの匂いにはうんざりだが、逃れることはできそうもない。

1865年2月23日
私の研究室の窓からは病院の中庭が見える。今ちょうど、看護婦が子供達を暖房の
きいた部屋に連れて行こうとしている。石畳の道を、大勢の歩く足音が聞こえてくる。
はたして、アリスは他の子供たちと散歩する日は来るのだろうか?いつの日か、
彼女も正常な意識を取り戻すのだろうか?それとも、残りの人生をこの灰色の厚い壁に
閉じ込められたまま暮らすことになるのだろうか?これまでの状況から判断する限り、
回復に大きな期待を寄せるのは、残念ながら徒労に終わりそうだ。

*彼女の精神がやがて想像もつかない世界をさ迷いはじめるなどと、
どうして私に想像できただろう?74/1/23

1865年2月24日
アリスが治療を受け始めた初めの月、グランサムという名の医師が、彼女の病例に
強い関心を抱いた。最初、彼はアリス本人が社会復帰を拒んでいると考えていた。
彼女が経験したことを考えれば、それはしごく当然のことに思えた。なにしろ炎に
すべてを焼かれ、家族全員を失い、体をボロボロにされたのだ。子供でなくても
その衝撃に心が耐えられなくても不思議はない。

だが、数ヶ月が経過し、アリスのことがわかってきたグランサムは、アリスの病状を
もっと深いトラウマ、つまり心理的外傷のあらわれだと分析した。そのうおち、骨折が治り、
火傷を負った皮膚も回復してきた。だが、アリスは殻に閉じこもり、外に出ようとしなかった。

このグランサムというのも不運な男だ。彼は彼なりの重荷を抱え込んでいたらしい。
ある日、彼はいつものように巡回に出かけ、心を病んだ人々を診療した。
ところがその翌日(理由はだれにもわからなかったのだが)、彼自身が患者達の仲間
入りをして、ぶつぶつと訳のわからないこといったり、薬壺を殴りつけたりするように
なってしまった。この病院でも、一線を越えてしまった医師は他にも存在する。
正直に言えば、そうなる医師がいない方がむしろ驚きだ。それはそうとしてグランサム
の話しの結末だが、彼は外科処置を誤り、ある恐ろしい事故事故をおこしてしまうのだ。

1865年3月23日
例の少女の容態は小康状態を保っている。私は、手錠、足枷、拘束服など、拘束具を
試してみた。軟禁することも試してみた。その一方で、自由を感じさせるため、
庭に連れ出し、何時間も一人きりにしてみたりもした。だが、そのいずれもが、彼女の
心には触れられなかった。方法はまだ他にもいくつかある。そのうちのいくつかは、
ここ最近まったく使っていなかった方法だ。しかし、そのいずれを用いても、この患者に
変化をもたらすことはできないのではないだろうか?私はそんな気がし始めている。

1865年4月1日
毎年この日になると、私は仕事の手を休め、この4月1日という日の馬鹿らしさについて
考えてしまう。愚か者をたたえる祝日を、ここで働く私達が祝うのは、皮肉なことでは
ないだろうか?

少女は未だにピクリとも動かない。ヨーロッパの精神科医たちがいうように「プシケ+」が
本当にあるのなら、どうやらアリスはその「プシケ」にいっそう引きこもってしまったようだ。
今後も違う方法を試してみるつもりだが、何か大きな前進が無い限り、希望をもてる
めどは立ちそうもない。進展状況は文書の形で残すつもりだ・・・・・・もっとも「進展」が
あればの話しだが
(+個人を動かす原動力としての精神的または心理的な構造)

1873年9月7日
何年にも渡る沈黙をへて、彼女はようやく口を開き、猫のような動物を描いて見せた。
「猫のような」というのは、それが今まで私が見たことのあるいかなる猫にも似ていな
かったからだ。

*奇妙な絵だったが、さらに奇妙な空想がその後に続くとは思いもしなかった。74/3/29

1873年9月9日
正直に言って、私はアリスが多少なりとも正気を取り戻したことに興奮している。
だが、慎重に事にあたらねば。この進展(あえて「進展」といいたい)が意味すると
ことを述べるのは、今の段階ではまだ困難だ。

1873年9月10日

午後の鎮静剤投与を受けてアリスが眠っている間に、看護婦がとれてしまって
いたウサギのぬいぐるみの目を付け直した。私は心を病んだ人々何年も一緒に
暮らしているからか、たいていのことでは驚きはしないが、この些細な出来事が
引き起こした激烈な反応は、そんな私をも驚かせるにたるものだった。
まどろみまら目覚めたアリスは、ヒステリックに泣き出した。

「どうしたの、アリス?何が気に入らないの?」看護婦はアリスをなだめながら言った。
「ねぇ、どうしてしまったの?」
するとアリスは、ほとんど無意識のうちに、詩のようなものを口ずさんだ。

またまた穴の中へ、私たちは先を急ぐ
かつての栄光の園、今は暗く腐ってる

アリスは泣き続けた。縫い付けたばかりの目を、看護婦がウサギからむしりとると、
ようやくアリスはいつもの様子に戻った。

アリスの反応(そして私の反応)は、静かな池に石を投げ込み続ける行動に例え
られるだろう。来る日も来る日も石は暗い水底に沈むばかりで、水面に現れる
変化といえば、小さなさざ波ぐらいだ。ところがある日、万に一つの偶然から、
石が魚に当たる。そんな事が起きる可能性はいったいどれくらいだろう?
そして、さざ波と比較した場合のその影響は?この例になぞらえて言えば、
看護婦は今日、池の魚に石を当ててしまったのだ。
これが(これ以外もそうだが)喜ぶべき反応なのかはわからないし、アリスが
癇癪を起こしたときの激しさについては注意しなければと思う、だが、少なくとも
一つ発見があった。彼女は話せるのだ
*こんな行為に及んだのだから水をかき乱して彼女を起こそうとしたのは失敗だったのだろう。74/3/29

1873年9月11日
気がむくと、アリスは絵を描くことがある。今朝もアリスの奔放な想像力の成果を見た。
それにしても、あれは何を書いたのだろう?彼女の悪夢に出てくる地獄を描いたもの
としか思えないのだが。

1873年9月12日
昨夜、二人の若い精神病患者が、病院の中庭で手に手を取り合って首吊り自殺した。
そのおかげで私は、アリスや他の患者に時間を割くことがまったくできなかった。
自殺者を町の墓地に埋めてほしくないという人々と、ちょっとした問答になったためだ。
この件は、いろいろと話し合った結果、結局は町の人々の方が折れ、こっそりと別々に
埋葬するということで納得してくれた。
一人はタムズボトム教会に、もう一人はリブチェスターに埋められる予定だ。

1873年9月15日
アリスの食事を摂らせるのは二人がかりの仕事だ。一人が口を開けさせ、その間にもう
一人が食べ物と薬を押し込むのだ。そうでもしないと彼女は貝のように口と閉ざし、
絶対に開こうとしないからだ。

1873年10月日
この二週間、私は明け方まで研究室にこもって、新薬の準備を進めていた。
アリスの最近の様子は、私の研究に張り合いをもたらしてくれている。昨晩、まったくの
偶然から、青酸とストリキニーネを混ぜると、興味深い反応を得られることを発見した。
少なくとも、ラットによる実験はうまくいった。

もちろん、青酸とストリキニーネのどちらか一方でも多すぎれば、とんでもない結果を
引き起こすことになる。

1873年10月15日
アリスの部屋に近づくと、押し殺した笑い声が聞こえてきた。
二人の雑役夫が彼女をののしり、皮紐を使って脅していた。
二人が双子の兄弟であることは、見るとすぐにわかった。

アリスは二人の馬鹿げた脅しを無視した。私は二人を叱ったが、反省する気はあまり
なさそうだった。役に立つ手伝いというのは、なかなかいないものだ。

1873年10月18日
理事長がいらっしゃった。握手したときに漂ってきた香水の匂いが、まだ鼻に
残っている。理事長がお見えになることは滅多にないが、来るときはいつも突然
で、なかなかお帰りにならない。あれやこれやに興味を抱いているフリをしながら、
病院の中を歩き回るのが常だ。今回はアリスや医師たちとの面会をご希望になられ
た。もっとも、アリスとの面会の方は、彼女が無関心だったため、おしまいには理事長
も退屈して、大きなあくびをしていた。
だが、最近アリスが描いた絵を見せると、理事長は関心を取り戻した。
その様子ときたら、まるで熱い火かき棒をその太った手ににぎらされたかのようだった。
*別れ際の理事長はとても「そわそわ」していた。74/7/4

1873年10月24日
看護婦がドア越しに聞きつけたのだが、アリスが何事か喋っていた。
正確に聞き取ることは誰にもできなかったが、一つ目のウサギがどうのと言っていたようだ。

1873年10月26日
アリスの病例は、取り立てて騒ぐほどのものではない・・・・・少なくともこの壁の中では、
彼女よりも病例の重い患者が何人も暮らしている。彼女が経験した悲劇には心から
同情する。心をい歪めるのに十分な衝撃だったことだろう。寝室に閉じ込められた家族が
生きたまま焼かれる悲鳴を、何もできずにただ聞いているのがどれほど恐ろしいことか、
想像してみてほしい。アリスはそんな悲鳴を聞いたに違いないのだ。
いや、おそらく彼女は、この十年間その悲鳴を聞き続けているに違いない。
*この発言は撤回する。アリスの病例は取り立てて騒ぐべきものだ。74/7/14

1873年10月28日
しっかと閉じたアリスの歯の間に私がスプーンをねじ込んで開かせている間に、助手
の看護婦がいやいやながら新薬を彼女の喉に流し込んだ。やがて痙攣が始まった。
私は拘束ベルトを念入りに調べ、それから火を消して部屋を出た。今は待つだけだ。

今晩のアリスはよく眠れないだろう。

1873年11月3日
時計がカチカチ動いている。深夜だ。突然、私は他にも物音がすることに気がついた。
夜のしじまが病院を覆う頃、もっとも病める心の持ち主たちが騒ぎ出すのだ。
アリスはおとなしくしている。私は物音に耳を傾けてみた。血も凍るような金切り声、
足枷や手枷のがしゃがしゃという不気味な音、狂気の色濃いうめき声、癇に障る
ざわめき、狂ったようなつぶやき・・・・・・

・・・・・最初の痙攣がおさまると、アリスの体は再び生気を失ってしまった。
時折、何事かをつぶやかなかったら、私はきっと彼女の生死を確かめていただろう。
アリスが喋っていることを聞き取るのは無理だった。それでも「とても陰気」とか
「あいつを通り抜けて」とか「ブージャム」と言ってるように聞こえた。
ブージャム?なんのことだ?誰かの名前だろうか?それとも場所?あるいは、混濁した
意識が生み出したうわ言にすぎないのだろうか?私は彼女の耳元で大声を出し。
肩を針でつついてみた。彼女はあえいだが、言葉が明瞭になることはなかった。
*「ブージャム!」だが、こんなお話を作り上げるなんて、彼女の頭の中はどうなっているのだろうか?74/4/11

薬が彼女の血管を駈け巡っている。この肌寒い部屋に座っていると、ここで
行った前の患者の治療ことが頭に浮かんでくる。ひきちぎられたクッションは、
ネズミが話しかけてくると思い込んでいたあの患者のことを、私に思い出させる。
彼は、クッションの中にネズミが潜んでいると言っていた。先祖の霊がネズミに乗り
移って語りかけてくるのだとも信じていた。
もっとも、穿孔手術を施すと、そんな妄想を抱くこともなくなり、寄宿舎に移されたが。
「アリスは静かなままだ。」

1873年11月17日
先の治療から二週間、アリスはおとなしいままだ。毎日、薬を混ぜたスープと粥を、
雑役夫が無理やり彼女に飲ませている。どうやら私はまたも過ちをおかしてしまった
ようだ。おそらく、何をしてもあの少女は救えないのだろう。

アリスがまた新しい絵を描いた。しかし、彼女の意識は再び痴呆状態に戻る兆候を
見せている・
*思っていた通りだ。この馬鹿者どもは、理事長の不肖甥っ子たちだった!74/4/13

1873年11月21日
雑役夫がまたいるものイタズラをしようとした。アリスの口を開けさせることに飽き、
「アリスのウサギに餌をやる」と称して、ぬいぐるみに粥を食べさせようとしたのだ。

このイタズラに熱中した彼らは、この病院における大原則を学ぶことになった。
それは「いついかなるときも、患者に背を向けてはならない」だ。
アリスがどれほど従順に見えようと、彼らはこの鉄則を忘れるべきではなかったのだ。

聞き集めた話を総合すると、どうやらアリスが昏睡状態から目覚め、雑役夫を襲ったらしい。
激怒した彼女は非常に危険だ。アリスはスプーンを持って双子の雑役夫の片割れを
追い回した。あのような状態だった彼女だが、相手に大ケガを負わせる力は十分に
あった。彼女はスプーンを肉きり包丁にように握りしめ。雑役夫の頬の肉をえぐろうとした。
だが、彼女は途中で雑役夫を襲うのを止め、あろうことか自分の手首の静脈をスプーンで
切り開こうとした!私は彼女の傷を縫い合わせ、雑役夫の手当てもしてやった。
アリスに関して言えば、傷跡はいつか消えるだろう。雑役夫の方がどうなるかは、
もうしばらくしないと何も言えない。
*この程度の癇癪に驚くべきではなかった。74/4/13

1873年12月7日
わずかな変化があった。彼女が口をあけるようになり、無理やり食事を摂らせなくても
済むようになったのだ。今や彼女は、食事の時間になると、早く薬をちょうだいと言わん
ばかりに、少しだけ口を開くようなそぶりを見せるようになっている。
治癒にはほど遠いが、いかなる変化であれ、進展の兆候には違いない。

1873年12月8日
みすぼらしい猫がアリスの頬を舐めていた。その猫は、私が部屋に入ると威嚇するように
鳴き、窓枠に飛び乗った。骨と皮ばかりにやせ細っていたから、窓の格子の間から入り
込めたのだろう。私は疥癬にかかった猫の顔に、ニヤニヤした笑いが浮かんだような
気がした。猫の表情が人間臭く見えるなんて奇妙なことだ。

この病院の敷地の中には野良猫がたくさんいる。患者の数より多いと言われても、
私は驚かないだろう。
*アリスがこの病院にやって来たとき、彼女の上に飛び乗った猫に
似ていた気がする。もっとも、さらに痩せていたが。74/4/26

1873年12月11日
今日、狂気におかされた子供が六人、病院から脱走した。今のところ、彼らを保護
したという連絡は、まだ入っていない。彼らが待ちの人に怪我をさせたりしないと
良いのだが。

1873年12月12日
看護婦が片目のウサギを抱きかかえたアリスを車椅子に乗せ、散歩のために中庭に
連れ出した。景色が変われば、彼女も多少は心を開いてくれるかもしれない。アリスを
連れ出した看護婦は、最近の理事会の方針を歓迎していた。今の時代に大切
なのは同情の心なのだ

私は二人の様子を書斎に窓から眺めていた。アリスは身動きひとつしなかった。

1873年12月13日
外の空気がアリスの想像力をかき立てたらしい。散歩から戻ってくると、アリスは
興味深い絵を描いた。黄ばんだ天井を見上げる以外のこともできることを、彼女は
再び証明してみせたのだ。
*狂気の中にある、ある種の才能が見られるときがある。74/4/26

1873年12月15日
アリスの部屋からウサギを持ち出して三日目になる。どざされた扉の向こうから
聞こえてくる彼女の絶叫が、日増しに大きくなっている。

1873年12月16日
ミルトンクロスにほど近い廃校で、行方不明になっていた子供たちが発見された。
五人は、外の世界に遠足に出かけた代償として、あちこちを怪我して血を流しながら
病院に帰ってきた。だが、もう一人は深い井戸の底から発見されることなってしまった。

1873年12月18日
アリスが荒れ狂っている。今日は今までになくひどい。彼女が描いた最新作を
見れば、その怒りの激しさがよくわかる。

1873年12月21日
今日、アリスの部屋に入ると、大声で「出ていけ」と言われてしまった。しかたなく
私は看護婦を呼び、二人がかりで彼女を縛りつけ、朝の投薬量を増やした。
*「私を食べて」とか「私を飲んで」と繰り返し呟いているが、どういう意味なのだろうか?
いまだにわからないでいる。74/7/23

1873年12月25日
またもアリスは心ここにあらずという状態に戻ってしまった。だが、今までと一つだけ
大きく違う点がある。誰かが部屋に入ると、口を大きく開けるのだ。薬が欲しいのか、
それとも食事が欲しいのかはわからないが、もっと何かを欲しがっているのは確かだ。

1874年4月4日
月日は移り変わったが、事態は今も変わらない。

青酸の量を、一日あたり二滴ほど増やした。もしかして、私は無駄な努力をして
いるのではないだろうか?この処置は、他の患者にこそふさわしいのかもしれない。

1874年4月17日
私の処置に我慢できなくなった看護婦が、アリス自身の「回復力」に任せるべきだと
主張している。彼女はウサギを縫い合わせ、アリスのベッドに戻してしまった。

1874年4月18日
興味深い展開があった!
アリスが好意への礼として、看護婦にウサギの絵を贈ったのだ。
ただ、描かれているウサギは、彼女のぬいぐるみとは随分違っていた。

1874年6月1日
これを青天の霹靂と言わずとして何と言おう。突然アリスが、奇妙な笑いを浮かべながら、
この私に挨拶をしてきたのだ。

驚きはそれだけではない。何十年も昔からそうしていたかのように、私と快活に会話を
するようにさえなったのだ。別にのこ場でそれを立証しなくてもいいのだが、いくつか
具体的な事例を挙げておこう。

「スナークは毒の液を吐くから気をつけないと・・・・悪魔のサイコロを振るときは慎重にね。
さもないと、冒険が不利になちゃうから・・・・ムカデはお腹が柔らかいのよ・・・キノコは
おいしいから好き。でも、中には逆に噛みつこうとするキノコもいるから・・・」

症状が良くなっているとは言えない残念だ。

1874年6月2日
混沌とした純然たる恐怖に支配され、流血が満ち溢れる世界。
それが彼女の住んでいる世界だ。なんと救いのない妄想だろう。
あまりに現実離れしている上に不条理なので、ときには聞いているのが難しいほどだ。
アリスが語るのは、誰も彼もが彼女を殺そうとする悪夢の世界だ。
銃剣で武装した巨大なアリや生肉引き裂いて食べる花。肉食魚や炎を吐き出す忌ま
わしい者たち。彼女の世界にひしめく魔物たちの多彩さときたら、めまいがするほどだ。
ボッシュが描く悪魔に比べても、彼女の妄想の魔物たちはさらに狂気の色が濃い。

今までの私は、ポンプの口から水が出るのを待ち続けていたようなものだ。
だが、ひとたび水が出始めてみると、それは毒の水で、止めることもできなければ、
毒の源を見つけることもできないありさまだ。

1874年6月7日
しだいにアリスは私を信用してくれるようになってきている。彼女の物憂げなお喋りも、
とどまることを知らない。薬の投薬量は、今のでちょうど良いようだ。私の存在を恐れ、
嫌がっているように見えることもあるが、まるで自分でも歯止めがきかないかのように、
彼女は喋り続けている。

1874年6月8日
午後、アリスはずっと、人間と同じ大きさのチェスの駒たちで繰り広げられた凄惨な攻城
戦の様子を喋り続けた。サイクロプスのように目が一つしかないポーンにつきまちわれ、
ようやくこの化物が片付いたと思ったら、今度は裏切り者のルークに追いかけられ、
生きているチェス盤の上を逃げ回ったらしい。

いつもそうなのだが、彼女の描写の生生しさには舌を巻く。
フロワサールも顔負けの年代記作家だ。

1874年6月11日
ほんの数分うたた寝してしまった私は目を覚ますと、アリスが自由になった手で
私の懐中時計の鎖を引っ張っていた。次からは手枷が必要かもしれない。少なくとも、
彼女が行儀よくしない限りは。鉛筆も取り上げるつもりだ。
考えてもみてほしい。もし彼女がこの罰への仕返しをしようとしたらどうなるかを。

1874年6月12日
こうなることを予測して然るべきだったのだ。鉛筆を取り上げられたアリスは、一夜にして
詩人になってしまった。

「芯まで疥癬におかされし者、わたしを恐怖へといざなう
爆弾を投げつけて、わたしは悪魔を追い散らす」

私は、爆弾はどこから手に入れたのかと尋ねた。鉛筆を返してくれたら教えるというのが
アリスの返事だった。まったくもって賢くて抜け目のない子だ。

1874年6月15日
アリスの話の随所には、知性のきらめきが見受けられる。だが、ある種の言葉が協力な
力で彼女を妄想の世界に引き戻してしまう。さらに「炎」に代表される言葉は(理由は
言うまでもないだろうが)、彼女を悲しみの淵に投げ込んでしまう。
*会話は明瞭なこともあるが、絵の方はいまだに意味不明だ。74/7/20

1874年6月17日
アリスがティーポットを放り投げて言った。

「何回言ったらわかるの?わたしはお友達としかお茶を飲まないの!」

1874年6月18日
時としてはアリスは実に礼儀正しいが、時として許しがたいほど無礼になることがある。
実験として、私は一切の投薬をしばらくしないでみることにした。アリスがひどく
興奮したときに投与する強力アヘン剤が唯一の例外だ。

1874年6月25日
もう少し海水治療を増やしたら、アリスの心から渾沌とした考えを洗い流せるのでは
なかろうか?またアリスがわめき散らしていた。とりわけ赤の女王とやらのことに
なると、彼女は罵りは熾烈を極めた。

この上なく沈痛で気落ちした様子だったかと思うと、烈火のごとく怒り狂うといった
調子で、彼女の気分はその日その日で大きく違っている。気分がいつも不安定な
人間の心の中では、強い風が吹いているのだと古人は信じていた。ピポクラテスの
弟子がアリスを診たら、彼女の頭の中では風速1000ヤードの北風が吹き荒れて
いると診断するだろう。
*ほとんどの会話に「女王」が登場するが、この人物を
説明することや絵やに描くことをアリスは拒んだ。
だが、女王をどうしてやりたいかを語るときの彼女の
怒りは、際限というものを知らない。74/7/20

1874年7月19日
アリスの機嫌がことさらに悪かった。彼女を入浴させていた看護婦の一人を
「公爵夫人」と呼び、襲いかかったのだ。

1874年7月22日
最近のアリスの会話から:

「何をしていたんだい、アリス?」
「お茶会に出席していたに決まってるじゃない」
「盛大なお茶会かい?」
「もちろんよ、先生。わたしは怖いものなしで、砦まであと少しなの」

1874年7月25日
うなされてよく眠れない夜もあれば、赤ん坊のようにぐっすりと眠っている
夜もある。
今のアリスはまったく予想がつかない。

1874年7月27日
アリスがまた意味不明の詩を作った。

「燃えていると言ってみんなが罵る、まるで私が悪者であるかのように
わたしはみんなを心の中からきれさっぱり片付ける、剣にものを言わせて」

1874年7月28日
キノコの森なる場所について、アリスが長々と喋った。その森は、大木ほどの大きさが
あるキノコに覆われているらしい。そこには他にも、自分の上に乗った者を捕らえて
話さないキノコや葉っぱ、聞いたこともないほど奇怪な怪物がひしめく洞窟などが
あるのだそうだ。
*以前に彼女がこの森らしき場所の絵を描いたことがあるような気がする。74/8/2

1874年8月10日
目の前にいるアリスは受身そのものだ。対して、彼女が語る夢の中に登場するアリスは、
断固とした行動力を備えた力強い人物だ。私にとってこの二人のアリスを結びつけて
考えるのは困難だ。ナイフを持って冒険しているアリスの姿を想像しようとすると、
堂々たる銃剣の騎士の姿をどうしても思い浮かべてしまう。お話の中の彼女の勇気ある行動は、
無私無欲の勇者の行動だ。これは「英雄願望」とは違う。だが、それではいったい
何なのだろう?

1874年
「その娘の首をはねておしまい!」
今日アリスが喋ったのはこの一言だけだ。何の事なのか説明しようとしなかったが、
彼女の表情を見るとおおよその見当はついた。ハートの女王について語るとき、
いつも彼女は激しい怒りの表情を浮かべるのだ。
*これは私はこういった癇癬に慣れて
しまったということなのだろうか?74/9/11

1874年8月13日
考えられる限りのことをした。あらゆる治療法と薬を試し、罰を与えたり、
言うがままになったりもしてみた。だが、何をしても変化は現れなかった。
アリスは好きなときに好きなことしか言わない。詩もきまぐれにしか作らない。
絵を描くのも自分がそうしたいからだ。私が命じたり頼んでみたりしても、彼女は何もしない。
自分の意思をはっきり示すようにはなったが、私の言葉や行動は、彼女に何の影響も
与えないのだ。

だが私自身は、彼女が語る不思議の国の話にすっかり引き込まれてしまっている。
今では、アリスが赤の女王とその下僕たちに勝利し、不思議の国が復興するのを
楽しみにしている有様だ。おそらく、不思議の国の話を語ることでアリスは自らを癒し、
心の均衡を取り戻して、晴れてこの病院を出ていけるようになるのではないだろうか?

それが実現するのは遠くなさそうに思えるときもあるが、ラトレッジの陰気な茶色い壁に
囲まれて残りの一生を過ごすのだろうと思えるときもある。彼女だけではない、私もだ
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1874年8月24日
わたしの素敵なお話を壊そうというのなら
わたしはどんな仕打ちにも耐えましょう
わたしは最高のおもちゃを手に入れたのだから