結婚











婚姻
こんいん marriage




婚姻とは,社会的に承認された夫と妻の結合であり,この〈夫〉と〈妻〉の資格,役割については,それぞれの社会において独自の意味づけがなされている。この意味づけはときとしてひじょうにかけ離れているので,上記の広い定義にもう少し具体性をもたせようとすると,その定義からはずれてしまう事例が出てくる。たとえば,〈一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で,その間に生まれた子どもが嫡出子として認められる関係〉と定義すると,日本をはじめ多くの社会に通用する普遍性をもつように見えるが,人類社会全体を通して見ると,この定義に当てはまらない例がいろいろと出てくる。たとえば南インドのナヤール・カーストの妻訪形式をとる男・女の関係は,夜をともにする性的関係にとどまり,居住,生産,消費や子どもの養育,しつけなどは兄弟姉妹が一生を過ごす居住単位で行われていた。つまり,子どもたちはその〈生みの父〉を識別し,正当なカーストの身分を得ても,その葬儀にも参加せず,それ以上の社会的経済的なつながりはもっていなかった。ナヤールでは通ってくる男は1人とは限らなかったので,いわゆる一妻多夫婚であった。さらに〈夫〉は男とは限らず,アフリカでは女どうしの結婚の慣習をも認めている部族がある。たとえばナンディ族(ケニア)で,息子をもたない未亡人は,嗣子を得るため,普通の結婚と同じ形式にしたがって〈妻〉を迎える。父系制をとるナンディ族では,家畜や土地などの財産を父から息子へ均分相続で伝えるが,息子をもたず死亡した男の財産はいったん妻が保有する。この財産を亡夫の弟など傍系の父系親族に渡さず,みずから亡夫の身代りとなって〈妻〉をめとり,後継者を確保するのである。実際にはこの新妻のもとには,愛人が通ってきて子を生ませるのであるが,性以外の日常生活では,同棲している〈夫〉が男主人として客を接待し,力仕事は別に男を雇って自分の代りにやらせるなど男性の役割を果たす。こうして,女どうしの〈夫婦〉間には通常の夫婦間におけると同様の協力関係と感情が見られるという。いっそう極端な例として,同じナンディ族において〈家との結婚〉も行われる。これは未亡人が亡夫との間にもうけた娘に,家または中央の柱を〈夫〉に見たて,それと結婚させる。実際には娘が自分で選んだ愛人との間に生まれる息子が亡父の財産を相続する。
 一方,〈妻〉が男であることもある。北アメリカ北西海岸のクワキウトル族では,首長の特権の多くが息子ではなく義理の息子,つまり娘の夫を通じて孫に伝えられる。娘がないときは,息子がやむをえず娘の代りになって,他の男子を婿として迎える。この結婚式は普通の結婚式とまったく同じ方式で行われ,この後はじめて〈娘〉婿は首長の特権を受けつぐことができる。つまり,これらの同性者間の結婚においては,性的要素はまったく含まれておらず,財産ないし地位の相続,継承の道筋をつけるために行われている。さらに,〈夫〉や〈妻〉が子どもの場合の幼児婚や,生者でなく死者の場合,つまり亡霊婚がアフリカや東アジアで報告されている。これらも,相続・継承者を得たり,あるいは死後の祭祀を確実にし,死者の霊を満足させるために行われる。以上,われわれの通念と著しくかけ離れた事例をあげたが,これは単に珍奇な習俗が世界に存在していることを示すものではなく,ふだん何げなく使っている〈婚姻〉という語が,社会によってまったく異なった意味をもちうることを強調するためである。
[文化的制度としての婚姻]  このような多様性をもちながらも,〈夫〉と〈妻〉に相当する概念が通文化的に存在しているのは,人類社会が現在までのところ,生物学的存在としての人間によって構成され,異性間の持続的な性的結合によって子孫の再生産をはかってきたという事実に根ざすものである。では,生物学的な性的結合がどのようにして婚姻という文化的制度として成立するに至ったのであろうか。
 19世紀の人類学者たちは,人類進化史の初期には,親子間やキョウダイ間においても性交の許される乱婚や,1群の兄弟と1群の姉妹が交合しあう集団婚が存在したと考えた。しかし,現存の未開社会でこれらが制度として行われている例は見いだされず,とくに技術的に原始的とされる採集狩猟民の間ではむしろ一夫一婦制をとるものが多く,婚姻外の性的関係への規制が強く見られる。したがってこれらの概念は,当時の西欧における一夫一婦制を,人類がたどりついた理想的な婚姻形態とし,その対極形態が野蛮・未開時代に存在したという前提に立って,不十分な当時の民族誌的資料をもとにつくり出された想像上の産物であったと考えられる。
 人類史初期における婚姻がどのようなものであったかについての直接的資料は,現在でも欠けているが,人類発生前の段階を推測する手がかりとして,霊長類の生態観察にもとづく実証的研究が最近急速に発展している。これによると,それぞれの種ごとに特徴のある集団構成がみられ,配偶者選択やその関係のあり方にも一定の秩序が存在している。たとえばテナガザルは単雄単雌のペアで子を育て,ゲラダヒヒやマントヒヒは1匹の雄と数匹の雌が,ゴリラは少数の雄が多数の雌と生活集団を,発情期以外においてもつくっている。こうした集団の構成自体によっても近親交配はある程度避けられるが,さらに種によっては,同じ集団内の近親個体どうしの交尾回数は,そうでない個体間に比べ著しく少ないという報告もある。またニホンザルでは,母のランキングが子のランキングを左右する,つまり女系的紐帯といったものが継続的に介在していることを示す事例もある。これらの事実から,言語によるシンボル化はされていないにせよ,ヒト以外の高等霊長類の一部に〈配偶関係〉〈近親交配の回避〉〈血縁〉的紐帯が不完全な形で存在していることは否定しえないであろう。もちろん,人類は現存のサルから直接進化をとげたわけではないから,これらを直ちに人類の婚姻,近親相姦禁忌(インセスト・タブー),親族などと結びつけて考えるのは危険であろう。しかしこれらの事実は,少なくともこれまで人類が文化をもつに至って初めて成立したと考えられていた上記の諸制度の少なくとも一部が人類文化発生前の段階において,生物的次元で存在していた可能性を示唆するものである。人類が言語を獲得し,これら生物的基盤に存在していたものを文化的制度として組み直すと,これらの制度は環境への適応,諸制度間の相互関連,他文化からの影響などさまざまな条件のもとで,同じ種でありながらそれ以前の霊長類の段階では種の差に匹敵するような多様化の道をたどり始めたものと考えられる。こうして婚姻は,生殖という生物学的機能と直接かかわりのない,夫婦という社会的地位の認定,性の適法性,社会的父親の創出,財産に関する権利の移動,さらには姻縁関係や居住生活単位としての家族の形成などの諸機能の一部またはすべてにかかわってくるのである。なお,動物の婚姻形態については〈配偶型〉の項を参照されたい。
[婚姻の機能]  婚姻は,第1に当事者に対する〈夫〉〈妻〉という地位の社会的承認を伴う。これらの地位は多くの場合,完全なおとなとしての資格と結びつき,また相互に対して習慣で定まった権利義務をもつ。未開社会をはじめ多くの前産業社会では,労働や家事における男女の分業が明確に定まっているので,独身のまま社会生活を送ることは難しく,社会的に一人前とみなされない。この面からも婚姻は,社会的に個人に強制されるといえる。
 第2に婚姻は,当事者の性関係に特別な地位を与え,婚外の性交渉と区別する。これは次の嫡出子の承認と関連しているが,婚外の性関係の取扱いについては,社会によって千差万別である。未婚者に性的放縦を認めている社会でも,未婚者の出産は非難され,妊娠により当事者どうしを結婚させることが多い。また初夜権,妻貸しなど婚外の性的関係が半ば制度化しているような場合でも,〈社会的父親〉となる権利は通常夫に与えられる。
 第3に婚姻は,夫婦の間に生まれた子の法的地位を確保する。婚外関係により生まれた私生児は正式の市民権をもたず,さまざまな権利義務において差別をつけられる。この子に対する社会的承認は,多くの社会で婚姻に付与されている最も重要な機能であるが,なかにはギルバート諸島オノトアのように,未婚の母から生まれた子が社会的差別を受けても,父の認知により,正式の子として相続などすべての権利が与えられる場合もある。
 第4に婚姻は,財産に関する権利移転のチャンネルの一つとして利用されることがある。花嫁代償や持参財などの贈与,夫婦共同財産の創設や運営,ある種の財産相続などは,婚姻を媒介にして行われる。前述の,女どうしの結婚や男どうしの結婚の主要な目的は,この機能に関するものであった。またインドのセマ・ナガ族では,父親が死ぬと息子は生母を除く父の妻と結婚する。これは性関係を目的とするのではなく,未亡人にいったん相続される財産を受け継ぐためである。夫婦共同財産の創設の例は,台湾パイワン族において初生子出生と同時に夫婦それぞれの財産が融合され,あたかも初生子が相続したかの観を呈する慣習に顕著に見られる。
 第5に婚姻は,当事者だけでなく,その家族や親族の間に姻縁関係を生じさせる。政略結婚や閨閥などは近代社会においても重要であるが,人類学では一定のいとこ婚をくりかえすことによって成立する連帯関係が有名である。
[婚姻に関する諸規制]  このように人類が,すでに存在していた社会関係を文化的次元におきかえ,いっそう高次の複雑なものへと発展させてゆく過程で,婚姻は上記のような諸機能の少なくとも一部とかかわりながら,通時的次元あるいは共時的次元で社会関係の結節点となったのである。こうした役割を果たしている婚姻は,血縁関係と比べても選択的要素を多く含むだけに,取りうる形態の幅が大きく,それに付随するさまざまな規制がかかわっている。
 この規制には,近親相姦禁忌,外婚制や内婚制などのように,社会の人々が一定の範囲における婚姻または性的関係を禁止するという強制規定がある。これに対しいとこ婚や婚姻の居住規定の場合には,強制規定の場合もあるが,ある方式が望ましいという優先規定ないし,そういう規範もないが結果的に統計的頻度が高いという場合もある。(婚後)居住規定とは,結婚した夫婦が新居をどこに構えるかに関し,(1)夫の両親の家族または,その付近で生活する夫方居住 virilocal,(2)妻方で生活する妻方居住 uxorilocal,(3)夫方,妻方いずれか都合のよいほうを選ぶ選択居住ambilocal,(4)それぞれの生家から離れて居を構える新居住 neolocal,(5)夫の母方のオジのもとに居住するオジ方居住 avunculocal,(6)夫と妻が同居しない別居住 duolocal などがある。なお,古くは(1)を父方居住 patrilocal,(2)を母方居住matrilocal,(3)を両居住 bilocal とも称していた。居住様式と出自の関係は深いが,父系出自でも夫方居住のほか新居住もあり,母系出自ではこれらすべてのタイプの様式をとる社会がある。⇒姻族‖近親相姦‖婚礼           
塢諸民族の婚姻形態とその歴史塋
【日本】
[古代]  日本古代の婚姻形態については,正倉院に現存する8世紀の戸籍・計帳では妻の夫籍への付貫が原則であり,《万葉集》に見られるような妻問(つまどい)を婚姻開始時にもつとしても,結局は後世の婚制と同様な嫁聚婚(嫁入婚)に帰着したとするのが主流的説であった。しかしかかる通説を全面否定したのが高群逸枝(たかむれいつえ)《招婿婚の研究》(1953)である。この説は,籍帳には独身の成年男女例,1・2歳の乳児がいながら妻を付籍しない例,生家に子とともに付籍されている娘の例など通説では説明できない事象が広く存在し,しかもかかる例が律令国家の規制の弱まる後代の籍帳ほど多くみられる点をもう一つの根拠にしているが,その最大の論拠は10世紀以降の貴族の日記から復元される婚制が婿取婚(婿入婚)である事実であった。高群はこの婿取婚を I 前婿取婚(飛鳥奈良平安初),II 純婿取婚(平安中),III 経営所婿取婚(平安末),IV 擬制婿取婚(鎌倉南北朝)の4段階に分けている。古代の婚制を問題にする際検討対象となるのは I と II であろう。まず I はそれ以前の妻問婚(生涯的通い婚)から婿取りによる妻方居住婚(以下高群の I・II 期の婿取婚をこう呼ぶ)への移行期で,生涯的別居と通いを経た妻方居住婚の併存期であり,II は通いが基本的に消滅し,婚姻開始直後からの婿取婚=妻方居住婚が行われる時期である。しかも II の妻方居住婚は遺制としては複数の姉妹により,一般的形態としては1女により行われるのだが,後者の妻方居住婚は妻の両親との生涯的な同居を意味せず,何年か後には(1)親夫婦が娘夫婦に生家を譲り他に移る,(2)娘夫婦が娘の親の用意した新居に移る,(3)娘夫婦が夫の用意した新居に移るのいずれかの方法で究極的には2組の夫婦は分離するのであり,かつ1女を除く他の姉妹は最初から新居へ移る(独立居住婚)のである。したがって II の一般的婚姻形態は,妻方居住婚を経た独立居住婚(親夫婦が生家を去る場合は妻方居住婚が続くが,妻の両親との生涯的同居と区別するためあえてこう呼ぶ)と初発からの独立居住婚の併存だが,高群の言及していない複数の姉妹による妻方居住婚も最終的には独立居住婚に分裂する点はマッカラ W. H. McCullough により実証されている(〈平安時代の婚姻制度〉1967)。ところで婚制史料を集中的に記載する《日本霊異記》により当時の全階層についての婚制を検討すると,I に高群がごく例外的にのみ存在するとした夫方居住婚(ただし夫の父母とは絶対同居しない)がすでに特定条件下(女の身分が低いか遠隔婚の場合)で存在し,また高群が II の婚制としたものがすでに I の時期から存在した可能性が強く,8〜11世紀に至る婚制は結局夫の身分の高い豪貴族層で夫方居住婚が現出する場合があるから,全階層を通じた一般的形態としては通い→妻方居住→独立居住ないし通い→独立居住で,時代が下るにつれ通いが消滅すると考えられる。この事実は高群の I が,妻問婚と II の間に論理的に設定された可能性の強いこと(高群の I の史料の多くが実は II 期のものである点に注意されたい)を示唆するであろう。           
[中世]  高群逸枝の段階区分は,その後の研究の進歩によって大幅な修正をうけ,13世紀の中ごろ(鎌倉時代中期)を境として,それ以前を,おもに妻方一族の主導によって婚姻が営まれた婿取婚時代,それ以後を,なお前代の余風を残しながらも,後の嫁取婚の風習がしだいに台頭した時代とみる考え方にかわってきている。
 ところでこうした問題を,京都朝廷に生活基盤をおいた中央貴族層の世界と,農村社会に基盤をもつ武士領主の世界に分けて比較してみると,中央貴族層の世界にあっては,古い婿取婚の風習がかなり後まで残存したといえるのに対して,武士領主層の世界にあっては,新しい嫁取婚への移行が比較的速やかに進行したとみてよいようである。こうしたことは,中央貴族九条兼実の嗣子良経と,源頼朝の義弟にあたる一条能保の娘との結婚に際して,兼実方が昔ながらの婿取婚を行うようつよく要求し,他方,頼朝方が嫁取婚の採用を主張したという《玉葉》(建久2年6月2日条)の記事などに明らかである。
 こうした中で,在地で生産労働に携わっている庶民の場合がどうであるかが次の問題となるが,参考史料が少ないこともあって,必ずしも十分明らかでない。ただ一般の庶民層では,一族の娘たちをも農業経営上の重要な労働力として観念する風が強かったので,娘を手放す嫁取婚を嫌う風習が強かったこと,また在地にあっては古代以来の自由恋愛の風習が支配的であったことなどが関連しあい,婿取慣行が意外につよく生き続けていたとみてよいようである。また武士領主層の場合でも,在地の生産労働からそれほど遊離しえていない下級領主,土豪層の場合などでは,ほぼ同様にいえることであった。したがって嫁取婚は,とくに上級武士層の世界において早く一般化したといえるわけだが,これは,この世界においては,封建道徳である主従制の理念がいち早く発達したこと,それにともない男尊女卑の傾向をもつ儒教思想が一般化する機会に恵まれたことなどに起因するものと考えられる。
 中央貴族関係の史料で知られる婿取婚のあり方を見ると,それは,求婚,文使,婿行列,火合,沓取,衾覆(ふすまおおい),後朝使(きぬぎぬのつかい)という手順をふんだ〈新枕の式〉と,その3日後に,三日蛭,親族対面,供人痢禄,政所始,婿の行始という手続によって行われる〈露顕(ところあらわし)の式〉という2大行事によって営まれていた。そしてこの風習は時代とともに,武士庶民の世界にも伝わったらしいが,その生活様式が決定的に異なるからには,それがどこまで現実に実行されたかは,疑問である。
 では,この時代の人々の通婚圏はどれほどであっただろうか。まず武士庶民層についてみると,それは社会階層の違いによって,はっきりとした違いをみせていた。一国単位で所領をもった豪族的領主層の場合には,まさに郡域を越えた一国規模でその通婚の行われているのが普通であった。これら上級領主が上述のような嫁取婚にいち早く転化したのは,そうした通婚圏の広さのために,婿の妻方への往来がなかなか困難であったことと関係している。これに対して荘園の下司や,郷の郷司の職掌をもつ地頭級領主層の場合などには,郡の範囲で荘郷級領主間の婚姻の行われるのが一般であり,百姓名主クラスの庶民の場合には,荘郷こそがその通婚圏であったと考えられる。郡や荘郷の範囲であれば,それはなお日常的往来が可能であって,そこに古い婿取婚が生き残りうるおもな条件があったのである。とすれば,中央貴族層の世界にあって既述のように,婿取婚の風習が強かったのも,やはりその通婚の範囲が日常的往来のさして困難でない都(みやこ)という狭い世界であったことと関係している。
 だが,室町時代以降に入ると,少なくとも貴族・武士層の世界にあっては,全般的に嫁取婚に移行することになった。もちろんこれは,そのころの一般社会が封建的主従制の影響をうけ,妻の夫家への隷属を容認し始めたことに基づく。それはまた,日本における〈家〉の完成の時期でもあった。この時代,婚姻作法に関する《嫁入の記》など数々の書物が現れるのも,そのころまさしく婚姻自体が〈家〉の秩序を維持するための重要儀礼と一般に,観念されてきたためにほかならなかった。                     
[近世武士]  近世武士の婚姻は,上級武士と下級武士では形態が異なり階層差がある。上級武士である大名や中以上の旗本では,婚姻は幕府の統制下に置かれた。1615年(元和1)の武家諸法度では,私に婚姻を結ぶことを禁じ,17年の武家諸法度になると,1万石以上の大名や,旗本のうち近習の物頭は自由に結婚することを禁じて,より範囲を明確にした。これは徒党を結んで幕府に敵対することを防ぐためであった。また中以上の藩士もその婚姻は藩主の許可によっていることが多い。上級武士はお互いの格式を重んじたので,ことに大名では同じ家同士で江戸時代を通じて何回も縁組している例が見られるとともに,多分に政略的な結婚も数多くある。大名の縁談の進め方は,幕府の旗本である先手頭(さきてがしら)を仲介にしている例が多く,さらに実際的な交渉は御用商人が進めていることもある。結婚費用は,江戸時代初期から華美で多大の出費となったので幕府も規制したが,家綱将軍の命で加賀藩主前田綱紀と会津藩主保科正之の娘が婚約したとき,結婚費用として1658年(万治1)将軍より1万両が正之に与えられた例からも出費がうかがえよう。一方下級武士は,幕府や藩の統制を受けることなく,武士同士の婚姻は比較的自由であったとみられる。しかし,町人や農民との通婚は制限されることが多く,もし農工商階級と縁組の場合は,いったん武士の養女にしたうえで結婚するのが一般的である。ただ近世中期以降,下級武士の困窮ははなはだしく,商人や豪農の財力を目当てに結婚したり,持参金の多寡を問題にすることが多くなっていった。最後に妾について触れると,豊臣時代妾を置くことは大名でも1,2名に限るよう命じていたが,江戸時代ではとくに制限はなく,経済力に応じて妾を抱えることが通例となった。しかし妾は子を生んだとしても主人の家族ではなく使用人の身分であったので,妾の地位はきわめて低かった。                     
[近世百姓・町人]  近世に入ると,士・農・工・商の身分制度が国家的な制度として確立された。この身分制度は,家を単位として身分,職業,居所を一体化し,上下の序列に強権的に編成したものである。さらに同一身分内部でも家の由緒や政治的・社会的地位等によって家格が定まっていた。こうした社会のしくみは,庶民の間にも〈家〉制度を浸透させることになり,〈家〉の重視によって家長の権威・権限が強まった。したがって,この時代の婚姻のあり方も身分制度・〈家〉制度に強く規制されることになった。身分制度を維持するために,婚姻は同一身分・格式の家の間で取り結ぶのが原則とされ,また〈家〉の重視は夫方中心の婚姻形態である嫁入婚を社会的に定着させ,女性の社会および家庭における地位を低下させることになった。ただ,同じ百姓・町人の間でも,婚姻の成立に至る経緯については,上層と中・下層とでは差異があった。上層の百姓・町人にあっては,武家と同じく家格が重視され,婚姻は家と家の結びつきという観念が強く支配し,当事者の意志よりも家長の意向が優先した。家格を重視したため,同じ村・町内だけでは適当な相手が見つからず,かなり遠方の有力百姓・町人の家との間で婚姻を行っている。また,有力者と姻戚関係を結ぶことは,豪農・豪商としての経済活動を有利にするための手段でもあった。婚姻形態は実質的には嫁入婚であっても,礼式の上では初婿入りの式を嫁入りよりも前にすませる形式が中期ごろまではとられており,古来の婿入婚の習俗のなごりがみられる。だが中期以降になると,嫁入りの当日の朝に婿入りの式を行うアサムコイリとなり,さらに嫁入り後の婿入り式へと変化していっている。つまり,礼式の上でも嫁入り婚の確立をみたのである。一般の百姓・町人にあっては,当事者間の同意が婚姻成立の要件となっていた。中・下層の家の子女は若者組(仲間)に入って比較的自由な男女交際をしており,気の合った相手が見つかると,男性が娘の家あるいは娘宿にツマドイ(ヨバイ)をした。親の意志よりも当事者の意志が尊重されたのである。後期になると,中・下層民の間の婚姻においても家長の意向が強く働くようになり,婚姻が法的に認められたものとなるためには,村・町役人に届け,宗門人別帳(今日の戸籍に相当)の除・入籍を完了せねばならなかった。村・町外へ婚出する場合は,村・町役人が人別送り状を,檀那寺が宗門送り状を転出先の役人あてに発行した。                       
[民俗]  日本の一般庶民の間では,各時代にわたり一夫一婦婚が一般的であったと考えられている。配偶者の選択にあたって近親婚をさけるのが普通であったが,地方によってはいとこ婚を歓迎するところもあった。また身分階層的内婚の限定があり,婚姻にあたり対等の家柄をえらぶ。これは家制度の下では,婚姻は個人間の問題である前に家と家との問題であったからである。そのため村内婚を普通とする村であっても,有力な家柄のイエでは村内に配偶者を求めることができず,しばしば村外に対等な家を求めて村外婚を行った。この場合,配偶者の選択は家長によって決められることが多く,仲人の役割が重大となる。しかし概して地域的内婚(部落内婚,村内婚)が卓越しており,配偶者の選択を当事者の自主性にまかせた地域も多い。ことに寝宿のある村においては,成年に達した若者が若者宿,娘宿で寝とまりする生活を通して自主的に配偶者をえらぶのである。この間に行われるヨバイも元来は猥雑な行為ではなく,婚姻の開始を意味する妻訪いにつながるものと考えられている。寝宿生活から生ずる婚姻をとくに寝宿婚とよぶこともある。寝宿の有無にかかわらず若者は村内の婚姻を統制し,婚姻の経過にさまざまに関与することが多く,嫁盗み,駆落(かけおち)をたすける場合もあった。配偶者の個人的資質として求められたのは,男女ともによく働く者ということであった。地域によっては年長の妻(姉女房)を好むことがあり,〈姉女房,福の神〉といった類のことわざは各地にある。姉女房の存在は,その社会における女性の労働価値や,男女の相対的地位の問題と関係する。
 婚舎の問題は婚姻研究の重要な指標であり,従来婚姻形態の分類もこれを中心に行われてきた。今日,婿入婚,嫁入婚の形態を中心に種々分類論議されているが,その意味するところは必ずしも同じでない。狭義の婿入婚は,夫が妻方に一時的訪婚をすることを前提とする妻方・夫方居住婚を意味し,妻方における妻の親と夫との対面を基調とする儀礼によって婚姻が開始されるのに対し,嫁入婚は夫方居住方式であり,夫方における儀礼をもって婚姻が開始される。婿入婚については,さらに住込み式,通い式で区別したり,婚舎を妻方でなく寝宿におく寝宿婚や,夫方外に婚舎をおきながら婚姻開始儀礼を夫方で行うという儀礼上の差から足入れ婚を分類したりする。現行民俗にみられる婿入婚のほとんどは,この一時的訪婚を前提とする妻方・夫方居住方式で,近年まで伊豆諸島,志摩,瀬戸内海沿岸一帯,九州西方離島,奄美,沖縄の諸地域に濃密な分布を示していた。これらの地域は,地域的内婚規制があり,女性の労働力が重要視されていることが多い。夫方への引移り時期が,夫方の世帯譲渡と関係する地域では,隠居制などの慣行と結びついている。嫁入婚は一時的訪婚を伴わず,妻はただちに夫方に引き移るので,地域的内婚に限定されず,遠方婚も可能であるため仲人の役割が重要となる。嫁入婚は現在もっとも標準的な婚姻形態である。
 婚約の確定にあたっては結納をとりかわすが,古くは夫方,妻方双方が新たな姻戚関係をむすぶため共同飲食する酒肴のとりかわしだったと考えられるが,現在は金銭が主である。嫁入道具は嫁入婚にともなって重視されるようになったが,婿入婚ではきわめて少なく婚姻締結の要件ではない。婚約締結に際し,東北地方の年期婿のように,金銭の授受ではなく,一定期間妻方に対する夫の労役奉仕という形態もある。
 一般に日本の婚姻形態は,婿入婚から嫁入婚に移行したと考えられており,各地にみられる婚姻形態の種々相は,この変遷過程のどこかに位置づけられるものといわれている。武家社会に発達したと考えられる嫁入婚は,概して家長の統制下におかれ,家父長的な家制度と対応しやすい形態であり,近世以降の支配的な婚姻形態とされるが,婿入婚も現行民俗に広く見いだされる形態であると考えられる。現在,社会生活の変化にともない通婚圏が拡大し,遠方婚も普通のことと考えられ,また婚舎を夫方および妻方の双方から離れてもうける新居住の形態も広く行われている。⇒婚礼                   
【ヨーロッパ】
[古代西欧社会]  ゲルマン民族やアングロ・サクソン民族の古代西欧社会では,強固な血縁社会を構成していたから,婚姻は原則として国法の規制の対象となる事柄というよりも,血縁の再生産の契機と考えられていた。そのために,婚姻はそれぞれの血縁集団の約束,すなわち婚姻することに合意する女子の血縁集団の花嫁代その他の諸事項の履行を保障する男子の血縁集団間の約束とされ,婚姻する当の本人の意思は重視されなかった。
 花嫁代は,アングロ・サクソン社会の後期では,娘を養育してきたことに対する報酬と解されるようになっていたが,前期では,娘の父親または保護者から夫に娘に対する権限 mundium,munt を移転することに対する代償とみられていた。とにかく,これらの古代の婚姻においては,婚姻を適法化するためには,父親が娘に対する法的な権限を夫に譲渡し,夫によって取得されなければならなかった。
 古代西欧社会にも,キリスト教の支配が少しずつ民衆の社会生活に浸透するに応じ,婚姻にもその規制が及んだが,キリスト教は夫婦を中心とする個別的な婚姻観に立っているため,古代西欧社会の団体的な婚姻観とはあい入れず,キリスト教が民衆の婚姻を全面的に支配するのは容易ではなかった。
 教会が婚姻に対する支配を確立するには,種々の部族の婚姻慣行や形成されつつあった封建法をも同時に取り入れた幅広い基準を設定する必要があった。そこで,教会は婚姻をもって秘跡(サクラメント sacrament)とし,婚姻において男女は神(または神の教会)と契約を結び,彼らは死によって別離するにいたるまで終世結合されるという,新しい観念を作り上げた。このようにして,婚姻は教会の支配下に入り,たとえば,イギリスでは,ウィリアム1世の時代(1066‐87)に教会裁判所が設置され,婚姻事件は教会裁判所で取り扱われることになった。もちろん,世俗裁判所も独自に婚姻について一定の法的効果を与える要件を定めていたので,教会法上有効な婚姻と世俗法上適法な婚姻とが一致しないという事態が生じた。
[中世以後]  西欧の中世の婚姻は騎士の宮廷での恋愛をもって語られることが多い。たしかに,騎士道は南フランスで発展し,ヨーロッパ各地に拡大し,11世紀にはイギリスに及んだ。この騎士道は封建制度を支える一要素ではあるが,彼らの恋愛は騎士と貴婦人で構成される上流階層の婚姻外の習俗やロマンスを詩や歌謡で文学的に誇張されて歌い上げられたものである。しかも,その背後には,夫に対する妻の,男子に対する女子の隷属という社会関係が隠されていた。
 中世でも,婚姻に際しての関心は寡婦分douaire,dower または婚資などの財産,財産の所有権,債務の弁済におかれ,とくに,婚姻で新たに形成される家族の経済的保障に留意される。家族の中では,財産の大部分は男子家長の掌中に置かれる。妻が不動産を婚姻前から持っていたり,または婚姻中に取得したとしても,それらの不動産は夫の管理下に入った。妻が夫の死後も生存した場合に,妻には寡婦分が与えられるが,それも夫の生存中は完全に夫の権限下におかれた。妻が婚姻に際して持参する嫁資や他の身の回りの品も夫の支配下に入った。
 中世の婚姻を全面的に支配する統一的な機関はなく,婚姻の精神的側面は教会法により,また,物質的側面は世俗法によって規制されたといってよい。イギリスの中世の農村社会では,教会上の婚姻と世俗慣行上の婚姻とは一致しなかった。〈土地がなければ婚姻なし〉といわれるほど,土地保有と婚姻は密接な関係があったから,婚姻の取決めが土地を保有する当事者双方の父親の間で結ばれ,それと同時に,婚姻する当事者間で世俗上の儀式をともなう夫婦の結束がなされ,これだけで夫婦生活が開始し,かなりの期間たって教会の儀式が行われる。
 婚姻も今日のような厳格な意味をもたない。婚約と婚姻の区別も明瞭ではなく,婚約に対して婚姻とほぼ等しい効果が認められた。夫婦の約束がなされたときが婚姻の開始の時期とされ,非嫡子の準正ということを認めないコモン・ローの原則があったけれども,荘園慣行では,子の嫡出性は夫婦の約束がなされたときを基準として決定され,教会の儀式が法的意味をもったのは,双方が寡婦分の合意をし,教会の戸口で夫が自分の不動産の上に妻への寡婦分を設定したことを宣言する儀式であって,教会内のミサではなかったといわれる。
 フランスにおいてもほぼ同様で,17世紀ころのフランス農村社会の婚姻について,1975年,フランドラン Jean Louis Flandrin(1931‐ )は,《農民の愛》の中で,婚姻の際に考慮されたのは当事者の嫁資の多寡などの身分の同一性,愛情以外の他の要素であった,と次のように描写している。嫁資をもたない娘はいかに美人であっても婚姻することができず,他家に奉公に出るか,修道院に入るかしかなかった。そのうえ,配偶者の選択を困難にしたのは,親の全遺産を一括承継した長子相続の慣行である。父親は家産が目減りしないように,長男子には多額の嫁資を持参する娘との婚姻を願い,家産とは無縁の次・三男は土地をもつ娘と結婚するほかはなかった。よい結婚をするためには,男子は年齢も身分も自分とつりあった嫁資をもつ花嫁を選ぶ必要がある。身分が低い場合には,花嫁が働き手であることが重要であった。花嫁が決定すると,ただちに結婚合意書に署名され,婚約期間などはいっさい必要としなかった。数時間前までは,ひと言も口をきいたこともなかった男女が婚姻することもまれではなかった。
[婚姻規制に関する教会と国王の争い]  1563年のトリエント公会議によって,教会は婚姻方式を確立し,婚姻を諾成行為から要式行為に変えた。婚姻が有効に成立するには,双方の合意だけではたらず,司祭と2人または3人の証人の立会いの下に教会で結婚式を挙げなければならなくなった。また,婚姻締結の証拠として司祭は,夫婦および証人の氏名,婚姻締結の日時,場所を登録簿に記入し,保管すべきものとされた。
 中世末期,教会と国王との間で婚姻の管轄に関して争いが生じた。それによってプロテスタントの諸国では,国王の側が勝利を収め,婚姻は国王の管轄下に入っていった。男女の結合関係が適法化されるには,教会の儀式が挙げられると否とにかかわらず,婚姻は国王によって権限が与えられた者によって登録されなければならないし,また,登録料の納入も必要となった。
 西欧の大陸諸国,とくにフランスでは,トリエント公会議の決議は批准されなかった。しかし,国王の王令によってトリエント公会議の議決は受け継がれ,1579年のブロアの王令 Ordonnance deBlois(1579,40条)は秘密婚や父母の同意のない子の婚姻を禁止するとともに,実質的に公会議の決議を採用している。婚姻と認められる方式を証明するためには,少なくとも4人の証人の立会いを要し,それを登録簿に登録しなければならないし,それに違反した場合には,公会議により定められた制裁が科せられる。
 絶対主義体制が整備され,国王の権力が伸張するに応じ,しだいに教会の勢力は鰻落し,国王は婚姻に関する多くの王令を公布し,しだいに教会法上による婚姻の管轄事項の一部が世俗法に移り,婚姻事件の裁判権も再び世俗権力の手に戻っていった。
[民事婚の確立]  17世紀ないし18世紀に,西欧社会の婚姻の性質が秘跡(サクラメント)から契約へと変化していった。それは,フランス革命によって婚姻の秘跡性が拒否され,民事的契約と宣告されたことのほか,18世紀における自然法思想の発展の影響に基づくものである。自然法思想では,婚姻におけるキリスト教により付与された秘跡などのいっさいの制度の基礎に自然法が存在するとみる。すなわち婚姻は自然法上の契約であるとともに民事上の契約であり,秘跡はそれらの先在する契約を再現する形式にすぎないとみる。このようにして,婚姻における秘跡と契約とが分離され,別個のものと観念され,男女は一方では民事上の効力により,他方は教会の恩寵によって結ばれるということになった。
 婚姻の中で観念的に区別されたこれら二つの要素はフランス革命の時代に分離される。1791年9月3日の革命憲法第7条によって,〈法律は婚姻を民事契約とのみ認める〉と宣言され,宗教婚主義を排斥し,これに代わって民事婚主義が確定された。これ以後,西欧社会においては,婚姻は純枠に民事的行為になり,19世紀になってフランスをはじめとして近代民法典の中で,つぎつぎと法律上の婚姻の成立要件が規定され,当事者が身分管掌者の面前で宣誓し,登録簿に記載するという方式が採用され,すべての国民に対して民事婚を課した。                    
[キリスト教と婚姻]  キリスト教にとって結婚は,神が人間を創造したときに定めた秩序であり,相互の出会いを神の合わせるもので人がこれを分けてはならないと考える(《マタイによる福音書》19:4〜6)。ここにキリスト教における結婚の一夫一婦性と不解消性の基礎がある。また,夫婦の関係をキリストと教会の関係にたとえ(《エペソ人への手紙》5:24〜32),キリスト者同士の婚姻による結婚生活をキリストと教会の関係を表す秘跡(サクラメント)と見ている。〈婚姻の秘跡〉は,キリスト者間の婚姻契約によって相互に授けられる。司式者は,教会共同体を代表してキリスト者の婚姻契約に立会い,これを公に認証して祝福する。キリスト教の結婚式は,この婚姻契約を儀礼として豊かに表現したもので,その中心にキリストと教会が記念されるのであるから,教会の結婚式は元来キリスト者のためのものであるが,人間性に深く根ざすものとして近年一般にも歓迎され,教会もその準備講座などを設けて伝道の機会としている。                    
【イスラム社会】
 婚姻を中心とする家族法は,イスラム法の中核をなし,イスラム社会の底に深く浸透しているものである。西欧の東洋学者やイスラムを護教する法学者たちの中には,ジャーヒリーヤ時代,すなわちイスラム以前の時代は,無知蒙昧の野蛮な時代であり,そこでは女性の地位がきわめて低く,男性は無制限な数の女性との結婚が許され,群婚,略奪結婚,売買婚などが行われ,それを〈四人妻〉にするなど,制限を加えたり禁止したりしたのがイスラムであったとする。しかし,四人妻については,イスラム以前の無制限な多妻を4人までにした制限的規定だとする多数の護教論的学説と,イスラム成立当時の社会経済状況からむしろ多妻をすすめた奨励的規定だとする少数の学説に分かれる。
 四人妻に関する規定は,コーラン4章3節の〈もしおまえたちが孤児を公正に扱いかねることを心配するなら,気に入った女を2人なり3人なり,あるいは4人なりめとれ。もし妻を公平に扱いかねることを心配するなら,1人だけを……〉に基づく。前者であるとする者は,ムハンマドが,ユダヤ教,キリスト教に影響されて妻の数を制限する必要を感じたのであると主張する。
 制限的規定であるとするためには,ジャーヒリーヤ時代においては,4人以上の妻をもっていたという証拠がなくてはならない。シーラ(ムハンマドの伝説)には,1人の男が何人もの妻と結婚する例も出てくるが,それ以上に女のほうにも何人もの夫が存在した例が多い。それらが同時なのか交互なのか判然とする史料はない。離婚の記述が非常に多い点から後者の可能性は強い。
 コーランの四人妻についての啓示は,625年のウフドの戦の直後に下されている。ウフドの戦は,イスラム側の負け戦で,大量の未亡人と孤児が生まれた。多妻がすでに当時の慣習であったとすれば,未亡人と孤児救済対策に迫られたムハンマドが,戦争後の非常時にわざわざそれを制限するような規則をつくることはありえない。また,コーランで述べられている〈孤児〉とは,父なし児yat´ma のことであり,母なし児‘aj ̄ や両親のない児 Iap ̄m ではない。ウフドの戦で父を失った子どもが,当時の経済的混乱期にあって強者の犠牲になってしまうことを阻止するため,孤児には正しい扱いをしてやるべきだが,もしできなければその孤児の母親のうち気に入ったものと結婚するがよいと述べたと考えられる。
 4人以上の妻をもった場合の制裁規定もない。また,〈公平に女を扱えないのなら,1人だけで,あるいは奴隷女で我慢しておけ〉ということは,公平に扱いうるなら5人でも6人でも容認されえたのではないか。ムハンマド自身は少なくとも14人の正妻に加え,多数の妻をもっていた。
 以上のような点から,イスラムにおける多妻については,敗戦後の女性人口過剰の解決,武力に訴えた初期の布教政策と関連しての人口増加策の一環として規定されたと考えられる。後の時代になっても,実際に複数の妻をもった例は限られており,その場合でも,一部の例外を除いてはほとんどが2人までであった。また,病身の妻をもった夫が,新しい花嫁をめとっても,妻の地位は旧来どおり保たれる場合のように,中には女性にとって有利に働いている例もみられる。
 イスラムでは,婚姻は神の命であるとされ,〈結婚しない者は仲間ではない〉といわれる。ムスリム同士の結婚はいうまでもないが,女は非イスラム教徒との結婚は禁止され,男は啓典の民であるユダヤ教徒,キリスト教徒とならば通婚を許されている。直系尊族と卑族,直系尊族の子どもたち,父母のあらゆる直系卑族との婚姻は禁じられているが,いとこ同士の結婚は奨励されており,現在においても,いとこ婚の占めている割合は大きい。
 結婚は,フトゥーバ khup仝ba またはアクド・アルキターブ‘aqd al‐kit´b と呼ばれる結婚契約により法的拘束力をもつ。契約に先立ち,まず,花嫁,花嫁の母親たちの間で諸条件についての取決めがなされ,花嫁の父,花婿,両者の証人(シャーヒド)など,男たちの立会いのもとで契約文書がつくられ,これに,花嫁,花婿,証人,そして,結婚登録人(マーズーン ma’dh仝n),ときには裁判官(カーディー)が署名する。小さな村では,結婚登録人の代りに婚姻の手続に通じた長老 kub´r が署名する場合もある。契約のうち最も重要な項は,男から女へ支払われる結納金マフル mahr の額と,その支払方法である。マフルの額は,花婿と花嫁の血縁関係が遠くなればなるほど一般に高くなる。マフルには,一族の結婚保障金と離婚保険金といった意味あいがあるからである。支払方法は,通常,結婚時と離婚時に分けられ,後者の額のほうが多く設定されている。
 スンナ派もシーア派も,結婚が一つの契約であるという考え方は同じであるし,四人妻その他の点に関しても差異はない。しかし,シーア派では認められている一定の婚姻期間を限って契約する一時婚(ムトア mut‘a,シーゲ)については,スンナ派は禁じている。マフルについても契約するのは,普通の婚姻と同じである。旅商人などに許されたのが始まりであるといわれるが,現今のイランなどでは,未亡人救済といった名目でこの婚姻がなされていることが多い。      
【中国】
 近代化以前の中国において,婚姻は一夫一妻多妾制であったということができる。妻とは,夫と同格の地位をもつ配偶者であり,夫と一体として夫の祖先を祭り夫の子孫によって祭られる。家産に対しても,夫の死亡後,夫の人格を代表して亡夫に属していたものをすべてそのままに保有し続ける。妾とは,夫と同格の地位をもたないがしかしそれなりに制度的に認められた閨房の伴侶であり,祭り祭られる関係のなかには位置づけられることなく,しかも日常生活においては家族の一員として認められる存在である。何びとも同時に2人以上の妻をもつことは許されず,他面,妾をもつことは財力の許すかぎり人数に制限なく認められた。妻の子も妾の子も一律に父の子として扱われ,家産に対する権利等において差別されることがない。このような妻妾のほかに,家の外に女をもって秘密に情交することは,姦黒として指弾された。
 以下,主として妻について述べる。婚姻の成立過程において決定的な重要性をもつのはむしろ婚約であり,これによって婚姻契約(夫婦の縁)はすでに成立したのであり,結婚はそれから当然に帰結する履行行為にほかならない。男女とも婚約は親が決めるものであった。本人同士は結婚まで互に顔を知らないこともまれではなかった。取決めに当たる親または親代りのしかるべき親族を,法律では〈主婚〉と言う。そして必ず〈媒人〉が介在して両家の間を取りもち,婚約成立の証人となった。婚約は,婚書と称する書面の交換,贈物の交換,酒宴などなんらかの形式を踏むことによって成立したが,その成立をいっそう確実なものとするために,男家から女家に聘財(結納金)を送るのが普遍的な慣習であった。
 聘財の授受は婚約成立の確かなしるしであると同時に,男側の支払う対価という意味もあった。とくに比較的下流の階層において,相対的に高額の聘財が勘定高く議定された。このことは一見売買婚を思わせるけれども,多くの場合にそうではない。女家では普通,聘財にさらに自家からの支出を加えて嫁入仕度をととのえ,持参財産として持たせて返す。持参財産は夫婦の特有財産となり,夫の親兄弟を含めた家の家産とは混合しない。つまり夫側の家産からなるべく多くを拠出させてそれを娘夫婦の特有財産として確保しようとする親心が,聘財の額に強い関心をもたせるのである。
 婚約が幼少のときに結ばれて結婚までに年を経ることもまれではない。婚約はしかるべき時期が至るのを待って結婚の履行を双方に義務づける法的拘束力のあるものと意識されていた。どちらかに変心の兆しが現れると深刻な紛争となり,訴訟になることも少なくなかった。女が約束に背いて他の男に嫁いだ後からでも,法律はさきの婚約者に女の身柄を取り戻して妻とする権利を認めていた。
 結婚は,男家から花轎(玉のこし)を差し向けて女を迎えて来ることによって成立した。付随する儀式と宴会は家の貧富などによってさまざまでありえたが,花轎の行列だけは不可欠であった。これによって,婚姻が成立し女が正妻の地位を取得したことが公示されたのである。婚礼に宗教の聖職者が関与することなく,また国家の戸籍への登録も婚姻の成立自体とは関係のないことであった。
 幼女を婚約してそれと同時に婚家の養女として引き渡すことがあった。この幼女を童養萱(トンヤンシー)と言う。このとき男女が成長して婚姻可能の年齢に達すると,改めて儀式を挙げることもなく,たんに親の指図によってある日から夫婦生活に入るのが普通であった。女家にとっては口減しとなり男家にとっては聘財の節約となる便宜から,中流以下の階層で行われることがあった。地方によって,この方式による結婚の頻度がひじょうに高かったところもある。
 同姓不婚,異姓不養という両面の規範があるために,婿養子は正規の制度となりえなかった。しかし夫が妻の両親と年数を限ってまたは無期限に同居する型の婚姻もときに事実上行われた。そのとき,生まれる子の帰属や財産の分け方などは個別的な取決めによってさまざまになりうるものであり,一律には言いがたい。古来,父子は天合,夫妻は人合と言いならわされ,父子・兄弟の縁は自然によるゆえに人為をもって絶つことができないが,夫婦の縁は人為によるゆえまた人為によって絶つことができるとされてきた。三不去七出(さんふきよしちしゆつ)という常套語もあり,妻におちどがあるとき,夫はこれを離別する権利をもっていた。協議離婚もつねに可能であった。手続としては夫が休書(離縁状)を書き与え,妻が受領することによって離婚が成立した。離婚によって妻は夫族の一員たる地位を去り,夫家の家産に対しても権利を失う。寡婦の再婚もこの点では離婚と共通した効果を生ずる。そして寡婦の再婚は必ず本人の意志によるのでなければならないとするのが固い掟であった。               
[現代の婚姻法]  中国で近代的な婚姻法が初めて成立したのは,1931年,中華民国民法親属篇においてであった。しかし当時の国民党支配の下で,この婚姻法は,法としての実効性をほとんど持たなかった。同じ年,中国共産党の支配した江西省の革命根拠地でも,中華ソビエト共和国婚姻条例が施行せられている。中華人民共和国は,この解放区以来の経験とソビエトなどの婚姻法を参考に,50年中華人民共和国婚姻法を制定し,これを施行した。この婚姻法は全27条からなり,結婚と離婚の自由,一夫一婦制,男女の権利の平等を骨子としている。家父長制下の強制的な結婚,重婚,蓄妾,童養萱,寡婦の再婚の自由への干渉は厳重に禁止された。また結婚登記の制度を導入した点も新しい。この婚姻法の実施は,封建的な婚姻制度を打倒し,封建社会の基礎をなしてきた宗族制度をゆるがす重大な社会変革としての意味をもつものであった。だが,共産党員や幹部さえこの意義を十分に把握していなかったため,この婚姻法を農村に浸透させてゆくのは容易なことではなかった。
 婚姻法施行後,女性の側からする離婚申立てが激増したが,家族や周囲の強い反対のために自殺や他殺に追い込まれた例も少なくない。婚姻法は,婦女法,離婚法とよばれてときに敵視さえされたのである。このため,政府は,〈婚姻法の執行状況の検査に関する指示〉(1951)など相次ぐ一連の指示を出すとともに,1953年には,大々的な婚姻法貫徹運動を全国的に展開した。これらの運動を通じてねばり強い教育・説得が行われた結果,ようやく民衆の婚姻に対する意識が変化しはじめたのである。建国まもない中華人民共和国にとって,婚姻法貫徹は土地改革と並ぶ大きな社会変革の事業であった。1981年,この婚姻法を一部修正した新婚姻法が施行せられた。新婚姻法では,人口抑制策の一環として,結婚年齢を,男20→22歳,女18→20歳に引き上げ,かつ夫婦に計画出産を義務づけている点が特徴的である。
                        
【朝鮮】
 朝鮮では氏族制度の伝統のもとで〈同姓不婚〉の原則が今日に至るまで強い婚姻規制となっている。戸籍の上で姓および本貫を同じくする同姓同本の者は,どんなに遠い血縁関係であっても無条件に婚姻を禁じられてきた。また姻戚関係にある氏族との間でも,十寸(10親等)以内は近親とみなされて通婚を避けることが原則とされている。李朝時代には,両班(ヤンバン),中人,常民,賤民等の身分の異なる者の間の通婚(仰婚,落婚)は一般に避けられ,両班の間でも家間の社会的地位や権勢に応じて配偶者が求められた。さらに政界で対立する党派間でも通婚は避けられた。今日でも両班的な気風の根強い地方では,格式と名望を重視して遠方の名家・名族との通婚関係を求める傾向がある。こうした伝統にあまりとらわれない庶民の間では,村内婚もみられる。姻戚(サドン)関係も両班的な社会生活のもとでは一般に堅苦しい形式的なものになりがちであったが,庶民的な伝統ではもっと現実的である。
 かつて嫁入りによる父処居住婚が一般的な形式であったが,婚姻後の一定期間を妻方の実家ですごす〈婿留婦家〉や男子のない家で婿を迎える〈テリルサウィ〉,幼児を迎えて成長後に子女の配偶者に予定する〈予婦〉〈予婿〉も,労働力を補い結婚の経費を節約する便法としてとられることがあった。今日でも農村部では仲人(仲媒)を介した結婚が圧倒的に多いが,都市部では日本の見合いに似た形式も多くなっている。仲人による場合,両家の親の間で合意ができると新郎側からは請婚書と新郎の生年月日を記した〈四柱〉が,新婦側からは許婚書と日どりを定めた〈択日〉が手渡される。婚礼は新婦の家で行われ,新郎側は〈奠雁〉〈納幣〉(結納)として木像の雁と衣料を納めた箱を送り届け,新郎一行が新婦の家へ向かう(初行)。伝統的な式は大礼床膳の前で主礼の指示によって進められ,正装の新郎に新婦が拝礼を交わし,盃を交換する。新郎は新婦の家に滞在して3日目に新婦を伴って自家に帰る〈新行〉の形式が一般的である。その間新婦の家では,村の若者たちが訪れて来て新郎といっしょに酒を飲みながら,〈東床礼〉と称して難問をつきつけて戯れに新郎をせめたりする婿いじめの習俗があった。新婦は輿に乗って一行とともに婚家に着くと盛大なもてなしを受け,新婦の側でも携行した酒果を献じて婚家の両親,近親者に拝礼の挨拶をする。以前は秋の収穫を終えてから新郎を伴って里帰りしていたが,近年は1週間以内に里帰りすることが多く,盛大なもてなしを受けて新郎は妻の親族と挨拶を交わす。
 韓国でもこうした旧式の婚礼は都市部ではすっかりすたれ,これに代わって礼式場や教会における新式やキリスト教式の婚礼が一般化しており,新婚旅行も徐々に定着しつつある。後継の男子出産を強く期待されるのを嫌って近年では長男との結婚を避ける風潮や,同姓同本の禁婚を規定する民法改正を要求する動きもあり,また派手な婚礼を規制する儀礼簡素化が行政的に進んでいる。                      
【インド】
 インドの大多数の人々はヒンドゥー教徒であり,彼らほどに婚姻が宗教的意味をもつ人々はいないといわれる。婚姻は〈サンスカーラ〉(浄法)の最も重要なものであり,女性とシュードラには唯一の浄法である。浄法は現世における宗教的な罪を減じあるいはそれを取り除く浄化の儀式であり,婚姻によって生まれた息子は先祖の祭祀を継承し,先祖から負っていると考えられている〈負い目〉を果たす者である。婚姻の儀式はサプタパディー saptapad ̄ とよばれ,聖火がともされ〈マントラ(真言)〉が誦されるなかで,花嫁と花婿がいっしょに7歩を歩むことで,7歩を歩んだときに婚姻が成立する。成立後には,婚姻は無効とすることも解消することもできない。配偶者の死亡によっても婚姻が終了すると考えられず,寡婦の再婚は許されないが,夫は妻の存命中他の女性とも婚姻できるし,妻の数には制限がない。配偶者の決定にあたっては種々の制限がある。配偶者は(1)同じバルナ(カースト)に属し,(2)異なったゴートラ(氏族)の者でなければならない。(3)サピンダsapilfa 親とよばれる近親者は避けられ,その範囲はふつう自分を含めて数えて父方5代母方3代にさかのぼる者から生まれた子孫である。このほか,南インドとちがって,北インドでは同じ村落の者と婚姻しないといったような,各地方・各カーストの慣習がある。婚姻の形態は古典には8種があげられているが,ブラーフマ婚が一般的である。婚姻時の年齢は低く,幼児婚が広く行われた。女性が結婚しないのは家の恥とされ,初潮のときまでに結婚させるという考えが強かったためである。このように女性の地位が低かったため,〈サティー〉とよばれる夫の遺体といっしょに妻が生きながら火葬される殉死,婚姻にあたって花嫁の家から花婿の家に支払われる多額な持参金(ダウリdowry)や,幼時に夫が死亡して処女のまま寡婦として一生過ごす生活など多くの悲劇を生んだ。19世紀以後,これらの悪弊を改革する運動がおこり,〈サティー〉の禁止(1829),寡婦再婚の認容(1856),幼児婚の禁止(1929)といった法律が制定された。1930年代には女性の法的地位の向上が強く叫ばれて,ヒンドゥー法の改革の論議が始まり,それは独立後の55年のヒンドゥー婚姻法 TheHindu Marriage Act によって達成された。この法律は男女平等の原則に立ち,一夫多婦制を禁止して一夫一婦制を定め,婚姻の実質的要件を示し,カースト(バルナ)の異なった男女間の婚姻の制約を除き,婚姻の無効と離婚を認めた。その後73年には婚姻年齢を男が21歳,女が18歳に引き上げ,76年には離婚の要件を緩和して協議離婚をも認めた。                
【東南アジア】
 東南アジアにおける婚姻制度は,以下のような四つの要素が地域的変異,文化的重層化現象を伴って複雑に入りまじっている。四つの要素とは,(1)さまざまな種族,コミュニティに固有な伝統的婚姻習俗,(2)インド,中国,イスラムなどの大文明の影響下に受容された婚姻慣習ないしは宗教法,(3)主として植民地下を通じて施行された西欧的婚姻法,(4)近代的な独立国家として,上記の要素を勘案しながら形成しつつある国民的な婚姻観に基づく近代的婚姻体系である。(1)から(4)は通時的なプロセスとして把握できると同時に,現時点での地域的分布を示す指標としても見られる。伝統的婚姻習俗は,いわゆる〈少数種族〉と称される山地民ないしは文化的に閉鎖・孤立した種族に見られる。(2)の影響は,伝統的習俗と混交した部分と法典化された部分とに分けられるが,前者は往々にして伝統的習俗との区別をつけるのは難しい。過去に王朝を建設した種族ないしはその周辺の平野居住民の婚姻制度である。(3)(4)は,(1)(2)の伝統に重なって,民法の一環としての婚姻法制度の問題にかかわってくるが,概して新しいエリート層ないしは都市住民に見られる。
 伝統的婚姻習俗は基本的にはコミュニティないし親族集団による規制であり,婚姻は社会的・世俗的性格を持つ。しかし,たとえば近親相姦を犯すことは宇宙の秩序を乱すものとして制裁を受けるというような,超自然的な世界観と密接に結びつく場合もある。種々の習俗が各地に独特な形で残っていると同時に,かなり普遍的な要素も指摘しうる。その一つとして配偶者選択規則(婚姻規制)がある。これは親族名称ひいては親族制度全般とかかわり,とくに交差いとこ婚はカチン族をはじめとする大陸部山地,バタク族などのスマトラ,そしてバリ,フロレス,スンバなどの小スンダ列島などに住む種族に見られる。ただし,国家形成の中心をなす種族にはこの婚姻規制はなく,またアンダマン島人やジャクン族などごく孤立した種族の中にも見られないことも事実である。このほかに,婚姻対価が男側から女側へ流れること,婚後の居住がなんらかの形で妻方居住的であること,婚姻後も名前の変化が通常見られないこと,財産,権利・義務に関して男女の隔差が少ないこと,婚姻解消が比較的容易であることなども,固有の伝統と見られるかもしれない。ミナンカバウ族に見られた両処婚のように特定の地域に残存する特殊な形態が,その昔普遍的にあったかどうかという問題は推測の域を出ない。
 比較的早い時期にもたらされたインドの影響は,ベトナム北部,フィリピンの一部を除いて,地域的にも広く,生活の中にも深く根づいて見られる。聖水,結び糸,檳古子(びんろうじ)などが婚姻締結に重要な役割を果たすことや新郎・新婦を王・王妃に擬することなど婚姻儀礼の多くや,身分による婚資金の違い,その決定に至るまでの駆け引きなどは,ヒンドゥー教の影響を受けたものと考えられる。このようなヒンドゥー的要素はとくに宮廷文化の中の婚姻儀礼に残っている。インドネシア,マレーシア,フィリピン南部にインドの影響に重層しながら伝わったイスラムの場合は,婚姻は宗教法シャリーアによって律せられることになる。しかし,その骨子は婚姻が契約であるとの精神にあり,婚姻儀礼の内容にまでは立ち入らない。したがって,伝統的婚姻習俗ないしヒンドゥー的儀礼はほとんどそのまま残しながら,新たにイスラムで要求される立会証人,婚姻登録者のもとでの挙式が加わるという,重層的な形になることが多い。
 西欧文明は概して婚姻習俗に直接の影響を与えなかった。フィリピンでは,単婚で,婚姻の解消を認めないローマ・カトリック教会の教会婚が,慣習法以外の分野で定着しているが,交渉の手続きから始まって婚姻の種々な儀礼は広義のマレー的伝統にのっとって行われる。植民地政府の婚姻に対する政策は,必ずしも自国の民法典を植民地全体に適用するというのではなく,むしろ差別適用することにあった。たとえばオランダは,自国民法典に近い法律をオランダ領東インドに住むヨーロッパ人に適用し,その適用範囲を外国東洋人,キリスト教徒インドネシア人へと徐々に広げていったが,大前提は分割であったから統一的な法律は作らなかった。
 このような複雑な歴史と宗教,種族,言語の違いをかかえて独立または建国した諸国は,複数の婚姻慣習法を国民全体に適用しうる統一的なものにしようとしている。しかし,少数種族の慣習法の取扱い,国家宗教(あるいは実質的にそう認められている宗教)のたてまえとする婚姻法をどこまで法に盛り込むかという問題は,一夫多妻婚の禁止,妻の地位の向上,離婚手続の厳格化などの形をとって日常の問題に直ちに関連することになるので,統一的婚姻法制定は,たとえばインドネシアのように,慣習法,宗教法の担い手からの根強い抵抗を受ける。            
塢法律上の婚姻塋
【婚姻の成立】
 婚姻制度は性秩序の根幹であり,家庭生活の中核をなすものであるから,民法は,婚姻の成立について婚姻障害を排除するための六つの要件(民法31条以下。実質的要件)と,戸籍への届出(739条。形式的要件)を要求している。届出のない場合には,当事者間に夫婦生活があっても,民法は婚姻として扱わないし,実質的要件を欠く届出は不完全な届出として,戸籍管掌者から受理をことわられ,誤って受理された場合には,婚姻の無効・取消という問題が生ずる。婚姻の実質的要件は,(1)婚姻合意,(2)婚姻適齢,(3)重婚の禁止,(4)近親婚の禁止,(5)再婚期限(待婚期間),(6)父母の同意の六つである。
(1)婚姻意思は社会通念にしたがって夫婦生活に入るという意思であるから,肉体関係を絶対に結ばないという意思(約束)でなされた婚姻には婚姻意思があったとはいえないし,2年間だけ夫婦生活をするというように期間を区切って婚姻生活に入ることも許されない。子を生まないという約束をしてもその合意は無効である。また,たとえば密出国とか税について配偶者控除をうけるため,とかといった,単なる方便のためになされた仮装の婚姻(仮装行為)も婚姻とはいえない。(2)婚姻適齢は,男18歳,女16歳であり(731条),この年齢に達しなければ婚姻は認められない。優生学的見地から早婚を避けようとする趣旨である。近年各国の婚姻法は,婚姻適齢を引き上げようとする方向にある(たとえばドイツ,ロシアでは男女とも18歳)。年齢の低い親には子の十分な養育を期待できないからである。(3)重婚とは法律上婚姻が二重に成立することであり(732条),法律上の婚姻と事実上の夫婦関係が重なっても重婚とは言わない(このような場合を,重婚的内縁と呼ぶ)。重婚が成立した場合には,後婚は取り消すことができる(744条2項)。(4)近親結婚を禁止する理由は二つある。一つは優生学上の理由によるもので,直系の自然血族間(親子や祖父母孫間)と3親等内の傍系自然血族間(兄弟姉妹間およびおじ・おばとおい・めい間)の婚姻禁止がそれである(734条本文)。二つは家庭道徳上の理由によるもので,直系姻族間(735条)や養親と養子や養子の配偶者とか養子の直系卑属間等の通婚禁止(736条)がこれに当たる。(5)再婚期限(待婚期間)は,再婚直後の出生子について父性推定が混乱することを避けるためであり,女の再婚は,前婚の解消(夫の死亡または離婚)または取消しの日から6ヵ月を経過しなければならないとされる。ただし,前婚の子を出生した後であれば,6ヵ月以内でも再婚が認められる(733条)。(6)父母の同意は,未成年者の軽率な婚姻を防ぐためである。父母の一方の同意でもよい(737条)。
 日本の民法は,届出婚主義を採って,結婚式を挙げても,〈戸籍法の定めるところにより……届け出〉なければ婚姻は効力を生じないとしている(〈届出なければ婚姻なし〉739条)。婚姻関係を明確にするためである。婚姻の届出は,〈当事者双方及び成年の証人二人以上から,口頭又は署名した書面〉をもってする(739条2項,戸籍法74条)。郵送してもよい(戸籍法47条)。届出は,夫または妻の本籍地の市町村長,または夫または妻の所在地の市町村長にするのが原則であるが(25条),外国で婚姻する場合には,その国に駐在する日本の大使,公使または領事への届出が認められる(民法741条)。婚姻の届出は受理によって完了し,ここに婚姻が成立する。
 婚姻の届出に関連して記憶すべき判例が二つある。一つは意識不明中になされた婚姻届は有効かという問題に関する最高裁1969年4月3日の判決であり,他の一つは,当事者の一方(または双方)の知らない間になされた(無効の)婚姻届は追認によって有効になるのかという問題を扱った最高裁1972年7月25日判決である。抽象的に考えると,病気などのため意識不明中になされた婚姻届は,本人が意識のはっきりしていたときに婚姻に合意していたとしても,本人の知らない間の婚姻届であるから無効というほかないけれども,最高裁は,当事者が婚姻合意=届書の作成にいたるまで永年にわたって事実上の夫婦共同生活(内縁)を続けてきていた場合には届書受理時に意識不明の状態にあったとしても,婚姻はそれに影響されずに有効に成立するとしている。婚姻当事者の保護に力点を置いた判断である。また,本人に無断で勝手に婚姻届書を作成して届出たとしても,婚姻は無効であるが,本人が婚姻届が出されていることを知りながら婚姻共同生活を続け,区民税の配偶者控除をうけるため共同生活の相手方を配偶者として申告したり,配偶者として共済保険の医療給付をうけているような場合には(これらの行為は有効な婚姻を前提としてはじめて認められることである),先になされた婚姻届を追認したことになり,婚姻は届出時にさかのぼって有効になるとしている。
 婚姻の成立については,以上のほか,注意すべきことが二つある。一つは婚約であり,他の一つは内縁問題である。婚姻の成立には婚約を必要としないけれども,いったん婚約をし,ついで婚姻生活に入るというのが婚姻の実際の姿であろう。婚姻に入る前に広く行われている結納の授受とか,婚約指輪の交換といった行事は,すべて,婚約に関する慣行である。この婚約については民法に規定がない。しかし,婚約を正当な理由なしに一方的に破棄した場合には(不当破棄),相手方は損害賠償を請求できるというのが判例の態度であり(最高裁判決1963年9月5日),また,婚姻生活に入らなかった場合には(婚姻の不成立),結納の返還を請求できるものとされている(大審院判決1917年2月28日)。
 内縁,つまり習俗にしたがった夫婦共同生活をしているけれども,戸籍への届出をしていない夫婦の出現は,日本の婚姻習俗が届出婚ではなく,儀式婚であったために,人々の関心が儀式婚にかたより,婚姻の届出を軽視ないし怠ることに大きな原因があったといってよい。したがって婚姻の儀式を挙げれば法律上も婚姻が成立しているとすれば,内縁問題は解消されるようにみえるけれども,今度は,どういう儀式を挙げれば婚姻の儀式といえるのかといった別の問題が生じてしまう。やはり,届出婚主義を堅持しながら,可能な範囲で内縁夫婦を保護していくほかないように思われる。
【婚姻の効力】
 夫婦の共同生活は,そのほとんどが婚姻習俗と婚姻道徳によって営まれており,民法は,同居協力扶助の義務,成年擬制,夫婦間の契約取消権,氏の統一(以上を合わせて婚姻の一般的効力といっている)と,夫婦の財産関係を規律する規定をおいているにすぎない。
[婚姻の一般的効力]  (1)氏の統一(夫婦同氏の原則) 夫婦は婚姻のさいに協議によって夫または妻の氏のどちらかを称することに定め,婚姻中その氏を称さなければならない(民法750条,戸籍法74条,14条1項)。ただし,文学活動や芸術活動のために通称や雅号を使用することはさしつかえない。
(2)同居協力扶助の義務 夫婦は〈同居し,互に協力し扶助しなければならない〉(民法752条)。(a)住居(同居の場所)の決定は夫婦の協議によるが,協議で決まらないときは家庭裁判所の審判による(家事審判法9条1項乙類1号)。夫婦の一方が職業上の必要とか,子の教育上の必要とか,病気の治療といったような正当な理由なしに同居を拒絶するときは,他方は同居を請求できるし,不当な(理由のない)同居義務違反は離婚原因となる(民法770条1項2号)。(b)〈協力〉というのは,夫として妻として婚姻共同生活に誠実でなければならないという程度の意味である。共同生活に誠実を欠き,そのため婚姻が破綻するにいたった場合には,離婚原因となる(770条1項5号)。(c)〈扶助〉とは婚姻生活の保持,すなわち,未成熟の子を含めて婚姻生活に必要な衣食住の資を互いに供与し合うことを意味する。夫婦の扶助義務は,同居協力義務と合して婚姻生活の基盤をなすものであり,扶助義務違反は離婚原因となる(770条1項2号)。〈養わない夫婦は夫婦ではない〉という考え方を反映する。
(3)貞操の義務 貞操は婚姻の基調であり,夫婦は互いに貞操を守らなければならない。不貞は離婚原因となる(770条1項1号)。また,不貞行為は不貞をなした配偶者と相手となった第三者の共同不法行為となるから,その第三者に損害賠償を請求できるというのが最高裁の考えである(最高裁判決1979年3月30日)。〈夫婦の一方の配偶者と肉体関係を持った第三者は,故意又は過失がある限り,右配偶者を誘惑するなどして肉体関係を持つに至らせたかどうか,両名の関係が自然の愛情によって生じたかどうかにかかわらず,他方の配偶者の夫又は妻としての権利を侵害し,その行為は違法性を帯び,右他方の配偶者の被った精神上の苦痛を慰謝すべき義務がある〉というのである。
(4)成年擬制 婚姻した未成年者は成年に達したものとみなされ(753条),親権者(や後見人)の同意なしに取引をし,親権を行使することができる。ただしこの成年擬制は公法の領域にはおよばないから,公職選挙法や未成年者喫煙禁止法,労働基準法(59条以下)においては,成年者として扱われることはない。
(5)契約取消権 夫婦間の契約は,婚姻中いつでも,一方から取り消すことができるとされている(754条)。〈法律は家庭に入らず〉という趣旨を明らかにしたものであるが,実際には夫の横暴を助勢する結果になっている。そこで判例は,夫婦仲が悪化して離婚話がもち上がっているような段階にある場合には,取消権の行使を認めないとして,取消権の濫用を防いでいる(最高裁判決1967年2月2日)。
[夫婦の財産関係]  婚姻生活には当然に経済生活がともなう。そのため,婚姻生活に必要な費用はだれがどのように負担するのか,婚姻生活を維持するに必要な物資の購入については夫婦双方が責任を負うのか,さらには,夫の収入(所得)や夫の名義で購入した住宅は夫のみの所有なのか,それとも妻にもなんらかの権利があるのかといった問題が発生する。
(1)民法は別産制を採用 この問題について民法は徹底した別産制を採り,〈夫婦の一方が婚姻前から有する財産及び婚姻中自己の名で得た財産は,その特有財産〉に属し,〈夫婦のいずれに属するか明らかでない財産は,その共有に属するものと推定〉すると規定している(762条)。夫婦各自が婚姻前から所有していた財産(持参財産という),および婚姻中相続したり贈与された財産,それに各自の収入(所得)は夫婦それぞれの特有財産とするというのである。つまり,財産の所有関係は婚姻後も,婚姻前と,基本的には変りがないというわけである。明治民法は家父長的家族制度に支えられた主婦婚を婚姻の理想図として描いていたから,財産は夫婦それぞれに個別的に帰属するとしながら,妻が財産を売却したり,使う(消費したりする)場合には夫の同意を要するという夫管理制を採用していたのであるが,夫婦平等の理念が普及し,かつ,職業をもつ女性が増えている今日では,夫管理制を採ったのでは健全な婚姻生活は望めない。そのため1947年の民法大改正の際に,夫管理制を廃止して別産制を採用したのである。しかし,この別産制にも欠陥がないわけではない。それは,財産の帰属について妻の家事労働を軽視することになるということである。たとえば,婚姻中,経済を切りつめて住宅を購入し,夫名義で登記してあるとすると,妻個人の蓄えの中から住宅購入資金に何百万円とか何千万円とか支出したという明確な証明ができないかぎり,別産制の下では住宅は夫の所有となってしまう。
 そこで別産制のこの不都合を解消して夫婦の平等と妻の地位の安定をはかるため,世界各国ではいろいろな財産制を採り入れている。フランスやアメリカの若干の州(例,カリフォルニア州)の採る所得共通制(所得共有制といってもよい。婚姻中に得た所得=収入財産に限って夫婦の共有とするもの)もそうであるし,スウェーデン,デンマーク,ノルウェーが採用している一般的参与制(婚姻中の財産は夫婦各自に別々に帰属するけれども,婚姻が解消(死亡,離婚)したときには,夫婦の全財産に互いに持分を有するものと考えて清算=分配するもの)もそうである。またドイツの採る剰余共通制(婚姻中に増えた夫婦それぞれの財産を互いに分配するもの)も,基本的には参与制と考えを同じくしている。しかし日本にはこのような慣行がなかったため,1979年に行われた相続法の改正のさいには,夫婦財産制の改正も考えられないではなかったけれども,別産制をそのまま維持することにして,配偶者の相続分を引き上げるという方法によって妻の老後の生活の安定をはかることにし,諸外国の夫婦財産制が企図するところとほぼ同じ結果を目ざすことになった。配偶者の相続分の引上げは,別産制の欠陥を是正するという目的ももっているのである。
 なお,夫婦は契約によって(夫婦財産契約。民法755条以下),別産制と異なった財産制に従うことを自由に決めることができるけれども,この夫婦財産契約は,婚姻届出前に約束して登記する必要があるし(756条),いったん決めた内容は原則として変更できないとされている(758条)。
(2)婚姻費用の分担 婚姻生活に必要ないっさいの費用,すなわち食糧費,衣料費,住宅費,医療費,娯楽費,交際費,子の養育ないし教育費等は臨時の出費を含めて,夫婦の〈資産,収入その他いっさいの事情を考慮して〉互いに分担しなければならない(760条)。なお税金は課税物件の権利者が負担するから,婚姻費用に入らない。今までのところ多くの家庭では,実際には,夫婦の合意によって夫がこれらの費用のほとんどを負担し,妻は家事ないし育児に従事するという形で家政の処理にあたっているのが普通であろう。この場合でも,夫が婚姻費用全部を負担していると考えるのではなく,民法上は,妻も家事労働に従事するという形で婚姻費用を分担していると考えるべきである。
 婚姻費用の分担が実際に問題になるのは,夫婦仲が不和となって別居しているときである。病気や職業上の理由で別居する場合は,正当な別居といってよいから,同居しているときと同じ程度の生活を維持する費用を従前と同様負担し合う。しかしたとえば,妻が身勝手さから夫と子を置いて家を飛び出し,夫に生活費を請求したとしよう。このような場合には,妻は,民法752条にいう同居協力の義務を怠っているのであるから,夫のみが婚姻費用を負担しなければならないとするのは不合理であり,許されるべきでないだろう。しかしこのような場合でも,妻に生命を維持するに足る資力(ないし労力)がないときには,離婚にいたるまでは,夫は妻の最低生活の費用を負担すべきものと解される(札幌高裁判決1975年6月30日)。
(3)日常家事債務に対する連帯責任 婚姻生活を維持運営していくために必要な通常の取引,すなわち,衣食住に必要な日用品の購入,家賃や地代の支払い,保健,医療,娯楽,子女の教育,およびそれに必要な多額の資金の調達といった〈日常の家事〉に関する取引(債務)については,妻が行ったものであれ,夫が行ったものであれ,双方が連帯してその支払いに応じなければならない(761条)。
 この日常家事の範囲の判断は実際には相当にむずかしい。衣食住一つを取ってみても,当該夫婦の収入や社会的地位に応じて異なるし,地域社会の慣行も異なるからである。結局,その夫婦の身分相応の取引かどうかを標準として判断するほかない。大都市生活者の電子レンジの購入(武蔵野簡裁判決1976年9月17日)や所得税や固定資産税を支払うための夫名義の借金は日常家事とされているが,不動産の処分(最高裁判決1968年7月19日)や手形貸付取引の保証(最高裁判決1970年2月27日)などは日常家事に属さないとされている。自家用車の購入なども,職業上(例,八百屋,米屋等)とか,新車への買替えであれば日常家事と考えてよいけれども,身分不相応に高額な自動車の購入となると直ちに日常家事に属するといってよいかは疑問である。このような場合には,たとえば妻の取引に夫が関与しているなどして(承知しているような言動をしているため)相手方に自家用車の購入がその夫婦の生活にとってあたりまえと思われる場合に限って,民法110条によって夫にも責任を追及できるというのが判例の態度である(最高裁判決1969年12月18日)。
【婚姻の解消】
 有効に成立した婚姻は,当事者の死亡,および離婚のみによって解消する。夫婦の一方が死亡すると,婚姻関係は当然に消滅し,生存配偶者は子に対し単独親権者となるし,死亡配偶者の遺産について相続人となる(890条)。しかし,死亡配偶者の血族との間に生じた姻族関係は当然には消滅しないし,当然に復氏することもない。姻族関係を終了させるには戸籍への届出が必要であるし(理由は問わない。民法728条,戸籍法96条),復氏を欲する場合も戸籍への届出を要する(民法751条,戸籍法95条)。⇒離婚       
【国際的な婚姻】
国籍の違う男女の婚姻(いわゆる国際結婚)や同じ国の国籍をもつ男女の婚姻でもその婚姻の挙行地や婚姻生活の場所が本国以外の国にある婚姻を国際的な婚姻,または,渉外的な婚姻(渉外婚姻)という。このような婚姻については,その成立や効力がどの国の法によって規律されるかという国際私法上の問題が発生する。世界の国々の婚姻法は同じではないからである。国際的な婚姻の成立や効力が日本で問題となるときは,日本の国際私法が指定する法に従って,それぞれの問題が判断されることになる。
[成立]  (1)実質的成立要件 当事者が婚姻年齢に達しているかとか,婚姻が禁止されている近親者の関係にないこと等のような,婚姻の実質的な成立要件に関しては,諸国の国際私法は,大きく分けると,当事者の本国法を指定するもの(オーストリア,ドイツ,フランス,ポーランド,トルコ,イタリア等のヨーロッパ大陸の諸国や日本,台湾,韓国,タイ等のアジア諸国等),当事者の住所地法を指定するもの(イギリス,ペルー等),それに,婚姻挙行地法を指定するもの(アメリカ,アルゼンチンなど)とがある。
 日本の国際私法は,各当事者の本国法を指定する立場を採用している(法例13条1項)。したがって,当事者のそれぞれがその本国法の定める要件を満たしていれば婚姻できることになる。たとえば,双方とも20歳の日本人男性と中国人女性が婚姻しようとするとき,日本人男性は日本法上の,中国人女性は中国法上の婚姻年齢に達していることが必要である。婚姻年齢につき,日本法は,男は18歳,女は16歳と定め(日本民法731条),中国法は,男は22歳,女は20歳と定めているので(中華人民共和国婚姻法5条),この2人は婚姻することができる。この場合,日本人男性が中国法上の婚姻年齢である22歳に達していないことは問題にならない。これに対し,当事者の一方がその本国法上の要件を満たしていず,婚姻が無効または取り消されることのできる婚姻となるときは,たとえ他方の当事者はその本国法上の要件を満たしていても,婚姻は無効または取り消されることのできる婚姻となる。たとえば,日本人が,いとこにあたるフィリピン人と婚姻するとき,日本法では,いとこ同士は婚姻できるから(民法734条1項),日本人の方はその本国法上の要件を満たしているが,フィリピン法では,いとこ同士は婚姻できず,その婚姻は無効となるので(フィリピン家族法38条(1)),フィリピン人の方は,その本国法上の要件を満たすことはできず,結局,この2人の婚姻は無効となるのである。
 なお,当事者の本国法による場合であるので,当事者である外国人の本国の国際私法が婚姻の実質的成立要件の準拠法として,たとえば婚姻挙行地法を指定し,日本が婚姻挙行地であるときは,反致(〈国際私法〉の項目参照)が成立し,日本法によることになる(法例32条)。
 (2)婚姻の方式 諸国の国内法では,有効な婚姻の成立のためには,実質的成立要件とともに,婚姻届を役所に出すとか一定の儀式を行うというような婚姻の方式(婚姻の形式的要件)を満たすことが必要とされている。国際的な婚姻の方式につき,日本の国際私法は,婚姻挙行地法か,当事者のどちらか一方の本国法に従えばよいと定めている(法例13条2項,同3項本文)。けれども,日本人が日本で外国人と結婚するときに限っては,法例13条3項但書(いわゆる日本人条項)によって,必ず婚姻挙行地法である日本法に従わなくてはならない。したがって,たとえば,中華民国(台湾)人が日本で韓国人と,中華民国法上の儀式婚をした場合には,その婚姻は日本で有効な婚姻と認められるのに,同じ中華民国(台湾)人が,同様に中華民国法上の儀式婚を,日本で日本人とした場合には,法律上有効な婚姻とは認められないということになる。こうした例外が設けられたのは,日本人が日本で行った婚姻については,それを戸籍に正確に反映させようという意図に基づいている。しかし,このような日本人条項に対しては,外国人が日本で婚姻するときに,相手が日本人かどうかで外国人間に差を設けることになるし,また,日本人の間にも,外国で婚姻するか日本で婚姻するかにより差を設けることになることから,学説上の批判がある。
 なお,日本人同士が外国で婚姻するときは,その国に駐在する,日本の大使,公使または領事に日本法に従った婚姻届出をすれば,その婚姻は日本で方式上有効な婚姻と認められる(民法741条)。このような婚姻は外交婚または領事婚とよばれている。
[婚姻の効力]  夫婦間の貞操義務や同居義務などのような婚姻の身分的効力に関する諸問題の準拠法は,1989年の改正前の法例14条では,夫の本国法であった。しかし,同年の改正により,段階的連結による準拠法の決定方法が採用された。これは,両性平等の見地から,近時,多くの国(オーストリア,トルコ,ドイツ,スイス,イタリアなど)で採用されている方法である。現在の法例14条の下では,準拠法は次のように決定される。まず,夫婦に同一の本国法があれば,その法律により,それがないときは夫婦の同一の常居所地法により,それもないときは夫婦に最も密接な関係のある地の法律(密接関連法)による。ここで,夫婦の同一本国法がある場合というのは,夫婦のそれぞれにつきその本国法を別々に定め,その結果双方の本国法が一致した場合のことをいう。つまり,当事者が,複数の国籍をもっている場合は法例28条1項により,アメリカのように州により法律が違う国(地方により法律を異にする国)の国籍をもっている場合は同条3項により,さらに,マレーシア等のようにどの宗教の信徒であるか等により適用される法律が違う国(人的に法律を異にする国)の国籍をもつ場合には,同31条によって本国法を決め,こうして決定された本国法が相手の本国法と一致することが必要なのである。なお,法例14条(15条1項および16条で準用する場合を含む)により同一の本国法が適用される場合には,本国法による場合であっても,反致は認められない(法例32条但書)。
 婚姻の効力のうち,その財産的効力である夫婦財産制に関する諸問題には,法例14条が準用されるほか当事者による準拠法の選択が認められている(法例15条)。(〈夫婦財産制〉の項参照)。
                        
[国籍問題など]  第1次大戦までの国籍法の国際的な動向では,国際的な婚姻によって妻は夫の国籍を自動的に取得し,原国籍を喪失した。しかし,今日の国際社会のすう勢は,国籍の異なる男女がそれぞれの国籍を変更せずに結婚することを可能にしている。また,日本では国際結婚から生まれた子の国籍は,従来,日本の国籍法が父系優先血統主義をとってきたため,父が日本人なら日本国籍を取得するが,母が日本人のときには外国籍または無国籍となる方式であった。その不合理性が指摘され,国籍法は男女平等に反するとして国籍法違憲訴訟も提起されたが,1984年の国籍法改正により父系優先主義は修正された(国籍)。これに伴い,子が父または母の外国姓,かたかな姓を称したいときは,家庭裁判所の〈氏の変更〉審判の許可を得て,親の外国姓で子の単独戸籍がつくれる道が開かれた(氏名)。
 外国との交流の歴史が浅く,これまで外国人との結婚がまれだった日本では,〈国際結婚〉ということばは独特のニュアンスをもって使われてきた。日本での国際結婚の大部分は相手方が韓国・朝鮮人だが,この場合はそれほど特別視されることはなく,肌や目の色が異なる欧米人との結婚が国際結婚と意識されてきた。欧米人への異端視と明治以来の欧米への憧憬とが混在したためであろうが,このような国際結婚による混血児たちは差別などにとりまかれがちであった(混血)。とりわけ,米軍基地の多い沖縄では現在でも年間400組と推定される国際結婚があり,沖縄での勤務を終えた米軍人が妻子を置き去りにして帰国するケースも多く,遺棄された妻の離婚問題や子どもの国籍問題などが大きな社会問題となっている。