ZEP時代のサブカルチャー Yさん作成

ウッドストック

ベトナム戦争
アメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与し1,500億ドルの巨費とピーク時には年間54万人の軍人を派遣し、国の威信をかけて挑んだ戦争でした。結果はといえば、北ベトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はベトナムの地から撤退を余儀なくさせられたのです。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに各国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込まれました。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれています。そして、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、四半世紀近くたった今でも残っています。

べ平連
(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃開始を受け、4月に始まったベトナム反戦の市民運動である。

声なき声の会の高畠通敏が鶴見俊輔に声をかけ、さらに小田実に話を持ちかけ、小田を代表として運動は始まる。実際のスタートとなる4月24日のデモの際のビラの文面は、しばしば引用されています。
 「私たちは、ふつうの市民です。ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことはただ一つ、「ベトナムに平和を!」

風月堂のヒッピー
1960年代に世界中のバックパッカーやフリークたちに知られた「新宿風月堂」に集った無名のヒップスター
(ビートニク以降)やフーテンや彼らがもたらしたカウンター・カルチャー(対抗文化)を讃え、記念するサイト

フラワームーブメント Make love, not war
もしサンフランシスコに行くのなら、髪に花をさして行こう〜♪ ラヴ・ジェネレーション

サイケデリックロックを介して広がったフラワームーブメント。LOVE & PEACE「愛と平和」を訴えるメッセージは、インディアンのマザーネイチャーから学んだものでした。そんなサイケデリックロックとアメリカンネイティブをモチーフにしたのがRock&Native。アメリカンロックを象徴するレザーをアクセントにしたデザイン。バンドには、インディアンの平和のシンボルである羽をあしらいました。

 60年代中期から後半にかけて(西海岸)にわき上がってきた「フラワー・ムーブメント」と呼んだ。この時代のアメリカはベトナム戦争が泥沼化への道を進みつつあった。そしてこの戦争に対する考え方、さらには社会全体への考え方も変化しつつあった。つまり、当初は「アメリカの正義〜自由主義社会を社会主義・共産主義の侵略から守るための戦い」というスローガンの元に結束して政府を支持していた民衆が、ベトナム戦争のあまりの長期化。それによる軍事費の増大。傷病兵の肉体的・精神的損害の無惨さなどから、わざわざアジアの片隅にまで出兵する意味合いに疑問を持つ人がかなり多くなりつつあった。ベトナム帰りの兵士で精神に異常をきたしてしまう者や、麻薬におぼれてしまう者も多く、ヒッピーと呼ばれる者が出現してきたのもこの時期であった。
 「ヒッピー」とは社会通念や既存の体制に疑問を持ち、自分たちなりに納得出来るような新しい価値観を見いだそうとしていた若者を指す表現であった。「HIP」という言葉は通常「お尻」を指すが、スラングで「最新流行、情報」を表す使い方もされている。その名詞が「ヒッピー」という事になる。
 ヒッピーと呼ばれた若者には、考え方の一致する仲間だけの小さな集団を作り行動していたグループや、職業を持たずに、自然の流れの中で生活するというポリシーで貫いているグループ等があった。しかし日本では思想性が見られずに、スタイルだけを真似て長髪であったり、フラフラしているだけの姿を、「ヒッピー=フーテン」といった捉え方をされてしまっていた。
 ヒッピーはウエストコースト、主にサンフランシスコにになぜ集中的に発生したのか? この地域は学園紛争や反体制運動が全米の中でも最も盛んな一帯であり、また50年代あたりから詩人や学生・芸術家が多く住み着いていた地域であった。こうした人々のかもしだす雰囲気がヒッピーあるいはフラワー・チルドレンと呼ばれる若者達を生み出す土壌となっていった。
勿論、ロバート・プラントもヒッピーでした。

ヒッピー 警官の銃口に花を
今では忘れ去れているが、ヒッピーとは忌み嫌われる人々であった。

今では美化されているが、ヒッピーとは忌み嫌われる人々だった。一般市民からもそうだったし、聖霊(アフリカ)との精神世界を追求するヒップスターに比べ理想が低いとみなされていた。ヒッピーは、ピップスターの物真似ないしは、なりそこないという意味だった。ヒップスターは、学問や文化に置いて無償でしかも高度なものを追求実現していた。しかし、ピッピーにはその多くが、裕福な白人中産階級の出で、インデアン文化とインド文化を安易に結びつけドラッグとロックとをことさら愛した。コミューンを最高の社会と位置付けた生活にはマリファナが平和の象徴とされた。彼らは多くの派閥を作り、宗教団体「愛の家」などになって行くものやマンソンのような犯罪者も登場した。当時を知る人は、ヒップスターを尊敬するもの、ヒッピーは楽しむものと考えていた。

 

ティモシー・リアリー「ドラッグ文化の高僧」
リアリーは、58年当時ハーバード大学の心理学講師だった。

メキシコのクエルナバカでインディアンと体験したマジックマッシュルームからシロシビン(LSD)の研究に取り組む。マサチューセッツ州の犯罪者に使用し再犯率を抑えることに成功した。しかし、そのTurn on, tune in, drop outの言葉や行動が問題になり学内から追放される。

メリー・プランクターズ

マンソンファミリー
1969シャロンテート惨殺事件。ヘリコプターで空撮されたニュース映像には惨事の後がそのまま流されて驚いたことを覚えています。19698月9日、チャールズ・マンソンがカルトを率いて、ロマン・ポランスキー監督の妻でもあるセクシー女優シャロン・テートら5人を殺害した。彼らは7月27日から8月26日の間、合計9人を虐殺している。

 

ルシファー・ライジング

これはケネス・アンガーという映画監督により、おおよそ1970年から80年にかけて作られた映画でジミーペイジも深く関わっています。ただし、喧嘩別れしてクレジットなどはされていません。


愛と性のフーガ キャンディ

二十歳の原点 高野悦子

三島事件
1970年11月25日午前11時ころ、作家の三島由紀夫と「楯の会」会員4人が東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を監禁し、バルコニーで自衛隊員にクーデターを呼びかけた。賛同者がいないことを知ると、三島は総監室で割腹自殺した。世界的にも有名な作家の起こした事件で、内外に反響を巻き起こした。

沖縄全軍労
沖縄の本土復帰を前に、アメリカは基地労働者の日本人の大量解雇を求めてきた。戦後沖縄の労働運動で先頭に立ってきた全軍労は、基地の縮小か、それとも雇用の確保か、ジレンマに立たされる。当時の全軍労の上原委員長を主人公に、米軍基地が最大の雇用の場だった沖縄の苦悩。

天井桟敷 書を捨てよ町へ出よう  

黒テント 既成の上演組織や観客組織に頼らず、全国各地に協力者を発掘

1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足。70年には大型の移動式テント劇場を創設し、全国移動公演の旅を開始。71年に組織を一つにして名称を「黒色テント68/71」と改める。

ウォーターゲート事件1972年6月17日、アメリカのワシントンDCのウォーターゲートビルにある民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした5人組が逮捕されました。

一条さゆり
艶のある脱ぎっぷりやロウソクショーで人気を博し、70年代の学園紛争当時、新左翼から「反権力の象徴」とまでまつりあげられた元ストリッパーの初代一条さゆり(いちじょう・さゆり、本名池田和子=いけだ・かずこ)さんが肝硬変のため、大阪市西成区の杏林記念病院で死去した。60歳だった。(1997)一条さんは、昭和47年、大阪のストリップ劇場で行われた引退興行で、警察の警告を無視して、最後の“特出し”を披露。公然わいせつで、49年に懲役6カ月の刑が確定した。51年には、交通事故で大けがを負うなどトラブル続きで酒におぼれていたが、60年ごろには、いったん酒をやめ、西成で居酒屋を開き、“優しいママ”として人気者に。ところが、63年にこの居酒屋を、「恋人」と名乗る男性に放火され、顔がパンパンにふくらむほどの、大やけどを負った。いらい、再び酒びたりの生活に逆もどり。そんな中、最近では、弟子がいないのに、「弟子を『一条さゆり一座』として売り出したい」と劇場にかけあいに行くなど、“奇行”も見られた。しかし、昨年は、大阪の劇場に出ていたベテランストリッパーの舞台を、突然見学に訪れ、演技のアドバイスをはじめるなど、最後まで“踊り子”にこだわっていたという。

あしたのジョー(フジテレビ、4月1日〜71年9月29日)

いちご白書 The Strawberry Statement (米)
ノンポリの学生が、学生運動に熱心な女子大生に一目惚れしてから、次第に学園紛争に巻き込まれ、自己の精神改革を余儀なくされる。タイトル曲は "The Circle Game" (パフィ・セントメリー) 1970年に公開されたブルース・デービソン/キム・ダービー主演の青春映画

魚介汚染
1973年6月4日、水産庁は、全国八水域の魚介類が国の暫定許容基準を超えるPCBで汚染されていることを明らかにした。続いて厚生省も、「危険な魚」が全国の主要魚市場に出回っていると発表した。魚市場では汚染水域から出荷された魚の取引きが全面禁止となり、寿司屋や魚屋は客足が遠のいた。

 

ガロ
青林堂発行の漫画雑誌。つげ義春の「ねじ式」は衝撃的な漫画だった。反日共系学生の愛読書の一つ。

 

テルアビブ空港で自動小銃乱射
1972年5月30日、テルアビブのロッド空港で、日本赤軍の3人が、税関カクンター前で突然自動小銃を乱射、26人が死亡、73人が重軽症を負った。

重信房子 我が愛我が革命

日本赤軍のリーダー。政治委員。1945年9月28日生まれ。東京都出身。都立第一商業高校を卒業し、一時就職したが、65年明大文学部(夜間)に入学。学生運動に入り、共産同メンバーとして活動。69年9月、共産同から赤軍派が分離独立した際、同派に参加。71年2月、同派の国際根拠地建設のため、奥平剛士容疑者(テルアビブ空港乱射事件で死亡)と偽装結婚した上、出国した。 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)メンバーとの間に子供をもうけたといわれており、日本赤軍とPFLPとの信頼関係をつくり上げた。88年4月のイタリア・ナポリの米軍クラブ爆破事件に奥平純三容疑者とともに関与したとして、イタリア当局から国際手配された。アラブ名サミーラ。

 

ラッパズボンと厚底サンダル
70年代初期にはコギャルではなく男の若者が愛用してました。俺たちの旅などの青春ドラマでも出てきます。

Modsファッション
R&B色強い彼らのファッションは今も新しい。

Kinks/キンクス
Manfred Mann/マンフレッド・マン
Small Faces/スモール・フェイセズ
Who/フー
Yard Birds/ヤードバーズ
などが代表的

 

ハラハラ時計
木村哲人『テロ爆弾の系譜―バクダン製造者の告白』(三一書房)

わが巨人軍は永久に不滅です(長島茂雄、引退試合後のあいさつ)

日本列島改造論「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露される。国会で問題化し政局混迷

FUKUSHI's Web PageWeb ザ・20世紀 1996を知るおすすめ年表

全共闘,東大安田講堂で攻防戦を展開.
ベトナム和平のためのパリ会談実質審議に入る.
社共両党・総評など86万人が統一講堂、反共産党系学生のゲリラ活動で1,505人逮捕。
アメリカ大統領ニクソンと南ベトナム大統領グエン・バン・チューが会談.米軍の一部撤退を発表.
日本初の原子力船「むつ」進水.
アポロ11号月面に着陸.アームストロング船長,オルドリン飛行士,“静かな海”に立つ.
ウッドストック・コンサート開催.当初5万人程度と考えられていた観客がなんと40万人に!!(〜18日)
ホーおじさんこと,北ベトナム大統領ホー・チ・ミン氏,心臓発作で死去
「男はつらいよ」封切り
<いいじゃないの幸せならば>
<港町ブルース>
<ドリフのズンドコ節>
6.29 新宿駅西口地下広場での反戦フォークソング集会 (7000人参集。機動隊ガス弾64人逮捕)
フォークゲリラ
6月 コンドームの自動販売機設置
パルコ池袋店開店
10.15全米にベトナム戦争反戦デモ
新宿西口地下広場反戦フォーク集会始まる
経済企画庁、1966年度GNP世界第二位と発表
ウッドストック野外コンサート(米)
家庭用ビデオテープレコーダー発表
美術家共闘会議(美共闘)結成(彦坂尚嘉ら)
コンセプチャル・アートはやる
UCC缶コーヒー[UCC上島珈琲、100円] テスト販売として登場した世界初の缶コーヒー
ホンダドリームCB750 FOUR[本田技研工業、385,000円] ナナハンの登場

菊屋橋101号
どの闘争か、まだ定かではないが、本富士署に逮捕された全共闘の女性闘士が、氏名や住所なども一切告げず、完全に黙秘したため、当局はしかたなく、この女性を留置先でつけられた留置番号である「菊屋橋101号」と名づけて、起訴した。菊屋橋とは、警視庁菊屋橋署をさす。女性の容疑者を留置する警察施設は、都内には数ヵ所しかなく、菊屋橋署はそのひとつである。
また、このとき、マスコミでは、この女性闘士は誰かというスクープ合戦が展開され、当時、創刊間もなかった夕刊フジが、逮捕時に警察で撮影された写真を手に入れ、それをデモ風景の写真と合成し、あたかも新聞社がデモの現場で彼女を撮影したかのように装って報道し、通報者を募るという人権侵害事件が起き、問題となった。

パリの女学生 フランシーヌ・ルコント
1969.3.30仏]ベトナム戦争やビアフラの飢餓状態に抗議してパリの女学生が焼身自殺。「フランシーヌの場合」のモデルになった。

【シージャック事件】1970年5月12日:窃盗で逃走中に警察官を刺した男が広島港に停泊中に観光船「ぷりんす丸」をライフルで脅して強奪、13日警察隊に狙撃されて死亡。 この時初めて人が撃たれて死ぬところを見ました。

カネミ油症
正式には、カネミライスオイル民事訴訟といい、西日本一帯を中心に、15府県で千余人にのぼる中毒患者を出しました。

 

蜂の巣城

室原 知幸(1899〜1970)

室原知幸。今の下筌ダムサイト右岸、急峻(きゅうしゅん)な山の斜面に構築した「蜂の巣城」を中心に、命尽きるまで十三年間にわたりダム建設に反対し続け、「公権に対する私権の闘い」を繰り広げた。

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ニュー・ロック

京都大学の西部講堂「村八分とPYG」

ジャックス

友川かずきウェブサイト
友川かずきはフォーク音楽の中に留まらず一つの文化を作ったと思う。

駒沢大学で共演したことがきっかけで頭脳警察のメンバーと知り合う。特にパーカッショニストの石塚俊明(トシ)と意気投合し、以後彼は重要な音楽的パートナーとなる。1975年10月1日、頭脳警察のメンバー(石塚俊明、勝呂和夫)がバッキングとアレンジで参加したファースト・アルバム『やっと一枚目』をリリース。徳間音工からはこのほか、1976年に育ての親、故・児玉利道氏(祖父)に捧げたセカンド・アルバム『肉声』、1977年に寺山修司の劇団「天井桟敷」のJ.A.シーザーがアレンジを担当したサード・アルバム『千羽鶴を口に咬えた日々』をリリースした(友川かずきは寺山修司とも知り合っているが、このころのことだと思われる)。後年「日本のオリジナル・パンクス」とも形容されることになる特異なイメージは、この『千羽鶴を口に咬えた日々』の冒頭に収録された「生きてるって言ってみろ」の新バージョンで確定的になったと言われている。歌というよりは絶叫に近い圧倒的な声の存在感、力強く鋭角的なギターのカッティング、文学性の高い歌詞等はだれにも真似のしようがないものだった。>>>いちてっるって言ってみろ!この叫びが今も聞こえます。

ビートルズ
 世界最高のロックミュージシャン達。好きな曲も多数あります。 70年代初期は彼等の音楽を意図的に無視することが命題のような感じでした。そのくらい偉大でした。

メンタイロックと沖縄の紫 
サンハウスと紫は当時のロックをストレートに伝えてくれた。サンハウスには勿論鮎川誠さんとかもいました。福岡の伝説的バンドです。沖縄の紫はリーダーはキーボードのジョ−ジ紫、Vo- 城間正男 Bass-城間俊男 Dr-宮内英一 G-比嘉(ひが)清正 G-下地行男という6人編成。最近(1999年?)ライブを行ないTVでも紹介されてました。当時はパープルより紫でした。

架橋される60年代音楽シーン
いま20代くらいの世代に,音楽に限らず「60年代のことを知りたい」という強い雰囲気があって,60年代に活躍した人を招いたイヴェントが結構うけています。

音楽で言えば明らかですが,70−80年代で細分化,分業化が進み,いい意味でも悪い意味でもプロフェッショナルになってきて,全体性というものが失われてきたわけです.つまりトータルに音楽というものを見る人が誰もいなくなってしまって

In Those Days...Back In '69 And '70s
- ラジオ番組「All Japan Pop 20」で放送された1969〜70年代の洋楽ヒットチャート(ウィークリー)を記録

 

70年代はヒーロー無き時代と呼ばれ続けた。音楽が時代を変えるとも言わなくなった。そのヒーロー無き時代のヒーローがLED ZEPPELINだった。ただただカッコよかった。彼らの乱痴気騒ぎまでもカッコよかった。ビートルズやボブ・ディランの音楽や若者文化は1969で燃え尽きている。70年代は残り火も捜すのが苦労するほどだった。70年代は敗北感の支配した時代。LED ZEPPELINの音楽は1969年以降の癒しの音楽であったのかもしれない。

 

 

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