初めてのLED ZEPPELIN
イギリスの人気バンド「ヤードバーズ」のギタリストだったジミー・ペイジはヤードバーズを捨て新バンド結成しようと思っていた。
その構想をセッションで知りあったジョン・ポール・ジョーンズに話し、ベース加入。その後、まだ無名だったロバート・プラント(ボーカル)を紹介されたペイジはその場で勧誘した。
ドラムは、ロバートの強い希望により、昔のバンド仲間だったジョン・ボーナムに決定し、68年、レッド・ツェッペリンが誕生した。(なお、この名は、ペイジ、キース・ムーン(ds)、ジェフ・ベック(g) ジョン・ポール・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンス(p)が「ベックス・ボレロ」の曲で集まったとき、このメンバーでツアーをしようとした。結局は、マネージメントに断れてしまったが、このときのバンド名をキース・ムーンが提案したのが定説である。)
最初、事務所の契約上の関係から、ニューヤードバーズとしてライブをしていた。
彼らは先入観のないアメリカでライブをおこないながらファーストアルバム「LED ZEPPELIN」をリリース。
アメリカで売れてからイギリスにリリースするという特殊な方法をとった。
ファーストアルバムはアメリカで爆発的な売れ行きをしめした。
連日のコンサートツアーの合間でつくられたセカンドアルバム「LED ZEPPELINU」も大ブレイクしたがここで1年間の活動を停止した。
70年になって、アメリカのトップクラスの音楽雑誌「メロディー・メイカー」の人気投票で何年もの間一位をとっていたビートルズを抜いた快挙を記録した。
サードアルバムはいままでハードロックの王者というイメージを一転したアルバムになった。このアルバムはいままでになかった新しい音楽であった。
しかし、ハードロックを期待していたファンは失望した声もあがったが、ここからツェッペリンの音楽は大きく世界を広げる。
71年発売された4枚目のアルバム(名前はなく、フォースシンボルズなどと呼ばれている)はアメリカを始め世界中に衝撃をあたえるものとなった。
ツェッペリンは、ほとんどシングルを出さなかった。そのため、このアルバムはシングルのように売れ最終的に約5年間100位以内にチャートインし続けた。
そしてこのあとのアルバムはこの曲のメッセージを突き進むものとなった。これからツェッペリンは「聖なる館」「フィジカルグラフィティ」と続き成熟期へ向かう。
76年8枚目のアルバム「プレゼンス」が出た後、ロバート・プラントは息子を失い、そのショックで音楽活動から遠ざかった。
他のメンバーはプラントのショックがなおりまた歌えるようになるまで待つことにした。
それから、3年半の歳月を経てツェッペリンは9枚目のアルバムになる「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」を発表した。
80年このアルバムに対するワールドコンサートツアーを行うことにした。しかしジョン・ボーナムがアルコールが原因でこの世を去ってしまう。
そして、未発表曲を集めたラストアルバム「コーダ」を発売とともにツェッペリンは解散してしまう。
解散後も人気はおとろえていない。
ペイジの言葉「あのころは、自分でもわからない力が働いて活動していた。
だから、今ではあの頃の曲を作ることなどできない。」また「そしてなにより、あのメンバー以外ではやりたくない。」