永遠のフィルモア・ウエスト

〜K.Y.さんの親戚のお兄さんが語る〜

(解説)

Fillmore Westはもともとは1921年にオープンしたダンスホールでした。50年代からブラック・ミュージックのスターがライヴをするようになりました。
50年代から60年代にかけてのサンフランシスコはビート運動からヒッピー文化が派生し、またカリフォルニア大学バークレイ校を中心に若者文化が花咲く時代でした。
プロモーターのBill Graham(1931年〜1991年)は芸術的なコミュニティに理解があり、同時に商才を持ちイベントを組織化する能力に秀でていました。
そして彼が1965年12月にライヴ会場としてオープンしたのがFillmore Auditoriumです。以来多くの優れたミュージシャンがこの会場でライヴをしました。
1968年7月に、移転と同時にFillmore Westと改称しました。
しかし1971年7月に閉鎖します。閉鎖のライブは「フィルモア・ラストコンサート」という映画になりました。
その後1989年に3月にBill Grahamは再オープンさせますが、10月のロマプリータ地震で建物が破壊され再び閉鎖。
Bill Grahamは91年に亡くなりますが、彼の意思を継ぐ人たちにより共同で1994年4月27日に再々オープンしました。
彼はいつも"Enjoy!"と言ってたということです。それが彼のショーに対するコンセプトだと思います。
LED ZEPPLINは1969年1月9日10日11日12日、4月24日25日26日27日、11月5日6日7日でライヴをしました。


 
*フィルモア.ウエスト内部写真アレサ.フランクリン「LIVE AT FILLMORE WEST」より

私事で非常に恐縮ですが親戚の兄が68年から70年までサンフランシスコに遊学?(笑) しておりました。

週末はよくフィルモア.オ−ディトリアムに行ってたそうです。以前彼の自宅で話を聞いてますと「定期的に金曜日と土曜日は夜8時から翌日午前2時まで営業していた」ようで入場料も出演者によって異なりますが「当時は3ドル〜5ドルだった」そうです。

サスガに凄いバンドを目撃していたようで第一期ジェフ.ベック.グル−プ,ブル−.チア−,エルビン.ビショップ,マイク.ブル−ムフィ−ルド,グレイトフル.デッド,ジャニス.ジョプリン,それに当時日本ではまったく無名のサンズ.オブ.チャプリン等挙げ出したらキリないですがとにかく凄い。またそれが証拠にフィルモアでカセットテ−プに取った彼等の演奏も聞かせていただきました。

当時は彼等の演奏をテ−プに納めていた人は結構いたらしく,「カメラも許可されていたので演奏中はカメラのフラッシュの嵐だった」と熱っぽく語っていただきました。(まあ〜しかしお酒が入っていたせいか,熱っぽく語る彼のすがた彼の奥さんは呆れてましたが)

兄が話していたフィルモア.オ−ディトリアム(フィルモア.ウエスト) の話ですが,
「68年頃はライトショ−もピ−クでバンドが演奏している後ろのスクリ−ンにサイケな映像や女性のヌ−ド等も頻繁に映り,視覚的要素が強い演出にまず驚いた」ようです。「いろんなバンドがライトを効果的に使用して演奏していた」ようですが,「特にジェファ−ソン.エアプレインはライト効果も別格だったらしく,決まってエアプレイン出演時には男女問わず,何故かトリップした連中が多かった」ようです。(笑)

さて当時は演奏を堂々とテ−プに納めた人も結構いたと書きましたが,兄の記憶によると「地元の人気バンドだったグレ−トフル.デッドのリ−ダ−で今は亡きジェリ−.ガルシアはフィルモアを埋め尽くした満員のお客に対して『いつも来てくれて有難う。オイ,そこの君! いくらでも録ってくれていいよ。オレたちの演奏が記録され,ずっと君たちの心に残ってくれたらオレたちは十分幸せさ』ということを常に語っていた」ようです。
凄いですよね。セコイことは一切言わない大陸的な考え方。

2年間現地に滞在,有名無名問わず無数のバンドを見た兄でしたが,この時期のZEPは見たことなかったようです。
でもさすがに第一期ジェフ.ベック.グル−プを初めて見た時は驚いたらしく,当時はアルバム「TRUTH」がようやく発売されようと
していた頃。「とにかくステ−ジではメチャ音がデカく攻撃的な演奏で凄かった」ようです。当然「お客も大ノリ大会でドンチャン騒ぎ。アンコ−ルに継ぐアンコ−ルでステ−ジに何度も呼び戻された」とのこと。

コレが有名なフィルモアウエストで録音されたマイク.ブル−ムフィ−ルドの名作ライブアルバム「永遠のフィルモアウエスト」のレコ−ドジャケットです。
録音は1969年1月から2月にかけて。

このアルバム,特に裏ジャケの写真は当時のフィルモアウエストの外観を初めて捕らえたアルバムでもあります。
とにかくアルバム内容は最高。マイクのブル−スギタ−は素晴らしい出来栄えです。しかし現在でも未だCD化されておらず残念ではありますが。

(お正月にお兄さんの家に行って詳しい話を聞きました)

家に入るなり「ホラ,用意しといたからな。好きなだけ持って行け。聞きたいんだろ? オイ,こんなものもあるぞ,オマエにやるよ」と言って渡されたのが時は1968年10月,フィルモア出演予定のジェファ−ソン.エアプレインの超レア物というか,ビンテ−ジ.ポスタ−でした。ネットオ−クションで売ろうかな? (笑) 正に兄貴はアノ時代に於けるロックの生き証人,自宅はお宝の山。コレにはさすがにビビリました。

彼曰く「フィルモアに行くだろ? そしたら帰りに次回出演予定バンドのポスタ−を無料でもらえたんだよ。とにかくハコのオ−ナ−であるビル.グラハムはお客を大事にしてるよな。何回も会ったことあるけど彼はユダヤ系の人間。さすがに商売うまいねぇ〜」の一言。

現在彼は輸入関係会社オ−ナ−でありますが,大学4年生だった1967年,モンタレ−.ポップ.フェスティバルがサンフランシスコで開催,その頃西海岸で起こっていた新しいム−ブメントに彼自身触発されたのかどうか大学卒業後,すでに決定していた就職を辞退,単身船でアメリカに渡ったまでは良いものの,食っていかなきゃならない。その為には仕事を探さなきゃならないのは当然ですよね。

でも現実的に当時の状況は私が考える以上に相当厳しかったようで,まず肌の色が違う,いわいる人種差別を受けたのです。
単に黄色人種,東洋人というだけでバイトするにも残念だが君は雇えないと言われることは日常茶飯事。仕方なく昼間は工事現場で黒人の人達と共に汗まみれで働き,時にはビルや映画館での清掃や中華レストラン厨房での皿洗い等,親の援助は一切受けず,自力で2年間生活したことは本当にエライ。

とにかく彼は1968年から約2年間サンフランシスコに滞在,その頃現地ミュ−ジシャンのリ−ダ−的存在の人はと聞くと,「グレイトフルデッドのリ−ダ−で今は亡きジェリ−.ガルシアだった」と即答。お客が自分達の演奏をテ−プに録っていても,まったく気にしないどころか,ドンドン録ってくれてかまわないよということをステ−ジ上で言うものですから,やはり人間大らかというか器が違うというか,良き時代だったのですね。

そんなことで彼はデッドが相当気に入っていたらしく,常に彼等のステ−ジを見に行っていたそうです。
何とガルシアとのツ−ショット写真までありました。新年ということもあり久しぶりに一緒に飲み酔いも程よく回り始めた頃,突然彼は

「当時フィルモアで演奏していたプレイヤ−達は大体オレと似たような年齢の人間なんだな。このことがまず何よりも親近感を感じたし,肌の色がどうであろうと音楽には関係ないさ。プレイヤ−達はそんな次元の低いことは言わないからね。よってオレと同世代の人間が時代を創ってることに凄く刺激を感じたな。オマエにこのことが解るかい? 一方現地ミュ−ジシャンの誰もがアノ頃は非常に連帯意識を強く持っていたな。今はそうでもないだろ? オレ達だけが良かったらいいみたいに。アノ頃とはすっかり変わってしまったな」とポツリ

何せ彼はアル.ク−パ−とマイク.ブル−ムフィ−ルドの共演アルバム「フィルモアの奇跡」それにフィルモアと場所は異なれどジミ.ヘンドリクスのステ−ジを目撃した数少ない日本人。当時のことを聞くと「フィルモアの奇跡かい? あのアルバムではスティ−ブ.ミラ−の演奏はカットしてあるだろう? 良い演奏だったのにもったいないことするよな。多分レコ−ド会社の契約上問題でカットされたんだろう。惜しいな。でも数日間に及ぶライブテ−プは今でも米コロンビアレコ−ドが所有しているはずさ。出せばいいのにな」また同会場では「オレが行ってた頃は日本人と思える人には会ったことないな。らしき人は見たことあるがホラ,シスコには東洋系の人も結構多からね,パッと見で日本人かどうかは解る訳ないよ」とのこと。

またジミヘンについては「オレは一時期シスコを離れて2週間,自分が住んでたアパ−トの隣人の故郷であるサンジェイゴに遊びに行ったことがあるんだ。その時に見たな。演奏かい? 現在でも誰もアイツを越えられないだろう? アイツの音を真似るヤツも昔は結構いただろ? でも今はほとんどいないよな? アイツの創った音楽は当時としてはジャズのマイルス.デイビスがやっていることよりも先を行ってたんだ。ジミヘンは正にギタ−の変革者だな。あんなヤツはもう出て来ない。突然変異もいいとこだ。オレが見たジミはステ−ジに出てくるなり正常でないことは解ったよ。目が完全に飛んでたな。ステ−ジ上がる前に何か一発キメたんじゃないかな? こんなことやってるから早死するのさ。バカだよ,アイツは」

そんなことでフィルモアウエストで彼の見たバンドは無数にあり,本日彼が演奏を納めたテ−プを20本借りてきました。
一本だけ聞きましたが,テ−プには1968年12月としかクレジットしてありませんが,どう聞いてもコレは第一期ジェフ.ベック.グル−プの演奏。
「この時は良く憶えてるよ。誰が来たのかと思ったな。フィルモアの入口は長蛇の列よ。凄まじかったな。とにもかくにもベックには熱狂的ファンがいたね。まだTRUTHが未発売状態にも関わらずにだよ。信じられないだろ? 調子の良い時のヤツはほぼ神技に近い。こんなヤツ,今でも少ないだろ? それに付け加え,今も尚,進化している。まあ確実に天才ギタリストの一人だな 」と彼は思い出深く語ってました。 

テ−プを良く聞いてると音はそれほど良くはありませんが,非常にエキサイティングでスリリングなプレイ。当時からこんなプレイする人はごく稀でしょう。演奏曲には「YOU SHOOK ME」や「LET ME LOVE YOU」も納められてますが,前者でのロッドとベックの掛け合いは,見事にZEPも拝借していることが解りますね。

ヘンドリクスは別格だった。

兄貴曰く「アメリカで以前は人気のなかったレスポ−ルが69年以降,急に売れ出したのは間違いなくZEPの人気,それもジミ−のおかげだろうな。そういう意味に於いてギブソン社は彼に感謝すべきだ。オマエには信じられんだろうが,どういう訳か彼が使用する以前のアメリカではレスポ−ルはサッパリ売れないギタ−のひとつだったんだからな。元々このギタ−はジャズギタリストであるレスポ−ルが製作に大きく関わってたギタ−。通称,ギブソンレスポ−ルモデル。生産初期はジャズ分野のギタ−だったんだ。でも生産から数年後,売行き不調に陥ったギブソン社は相当困ってたんだ。それがゆえ6年間だったか,数年間生産中止していた時期があっただろう? しかしだ,ジミ−が使用してからは飛ぶように売れ,ギブソン社は笑いが止まらんだろう。
それにグレッチ社のギタ−,カントリ−ジェントルマンを思い出してみろ。チェット.アトキンスで有名なギタ−だったが,これまたサッパリ売行き伸びず関係者の頭を悩ませていた。そんな時にビ−トルズがアメリカデビュ−。メンバ−のジョ−ジ.ハリスンが使用している影響で倒産寸前だったグレッチ社が,ものの見事に立ち直ったじゃないか。ラディク社のドラムもそうだ。リンゴのおかげでドラムと言えばラディクとドラムの代名詞にもなった。そう考えるとプレイヤ−が与える影響力とは大きいものだ。

オレは残念ながらZEPは見たことない。いつ出演したんだ? あれだけ頻繁にフィルモアに通っていたにも関わらずだ。恐らく当時は単に彼等のことを次々とデビュ−してくる新人バンドのひとつぐらいにしか思ってなかっただろうな。でも一回ぐらい見ときゃ良かった。何回か出演してたんだろう? とにかくフィルモアで演奏出来るということはプレイヤ−の誇りでもあり,オ−ナ−だったビル.グラハムはベテランバンドは勿論のこと,自分が有能な新人と睨んだバンドは積極的に出演させていたからね。彼は演奏には一切,口出ししないタイプだったな。常に好きなだけ演奏してよいと言う人だったのでプレイヤ−からの信頼も非常に厚かったね。

さてレスポ−ルが爆発的に売れたのはジミ−の影響ならば一方,ストラトキャスタ−が当時アメリカで飛ぶように売れ出したのは紛れもなくジミヘンの影響絶大だろう。元々ストラトはカントリ−系ミュ−ジシャンや黒人ブル−スマンたちが使用していたギタ−だが人気面ではイマイチだった。でもジミヘンが使用したおかげでフェンダ−社も大儲けしたんだからヤツに感謝しなくちゃな。今思うにオレが渡米以前に日本人プレイヤ−で使用していた人などほとんどいなかったと言ったてもいい。どちらかというと日本に関してはストラトよりも,むしろジャガ−の方が人気はあった。当時はモロ,ベンチャ−ズの影響が大きかったからね。

それにしてもジミヘンには恐れ入ったよ。この時初めて見たんだが,こんなにも豪快に演奏するヤツはそれまで見たことなかったし人気も想像以上に凄かった。ステ−ジはカメラのフラッシュの嵐よ。お客は白人がほとんどだが,中には黒人連中もポツポツいたな。何せ歌良し,ギタ−良し,ステ−ジアクション良しの3拍子揃ってるんだから並のプレイヤ−連中はどう転んでも彼に勝てるわけないよ。
オレが見たのはウッドストック出演時期以前のジミだな。残念ながらテ−プに録ってなくてね。この日の演奏は正式に音源として発売されてるのか? だとしたらそれだ。何もかもが別次元の音楽だったな。ロック分野ではオレが見た中でも最高のプレイヤ−の一人。でも相当の麻薬常習者だったようだ。一年後,彼が死んだのは不思議でも何でもないさ。あんなことを常日頃からやってればな。」

とまあ〜このように兄貴も熱く語ってましたが,しかし日本人でここまで見ている人も滅多にいないとは思いますが借りてきたフィルモアテ−プを聞く限りでは,お客の話声や笑い声なども入っており非常にリアルで当時独特の空気が良く解ります。
グレイトフルデッド,スティ−ブ.ミラ−バンド,ジェファ−ソン.エアプレイン,サンタナその他,またジャズではチャ−ルズ.ロイドというサックス奏者の音源もあり,各バンド絶頂期を捉えた素晴らしきレア音源で正に未発表音源の連続です。

 

さてさて一時期は非常に活気に満ち溢れていたフィルモア.オ−ドトリアムでしたが,ハコのオ−ナ−であった故ビル.グラハムは何故に閉鎖してしまったのでしょうか?

兄貴の考えでは
「止めた理由のひとつとしては元々低料金でお客に音楽を提供,また地元の有能な新人プレイヤ−に演奏機会を与える場所としてスタ−トを切ったのだろうけど,でも数年間で余りにもロック産業が巨大化してしまい,地元のバンドは世界的に知られる有名バンドにのし上がり,そうなると低料金で狭いハコで演奏するよりも大会場で演奏するほうが彼等の稼ぎは良いからね。

早い話,プレイヤ−達もビル.グラハムには散々世話になっときながら有名になるとまず第一にお金が優先となり,各バンドで徐々にフィルモア離れが始まったんだろう。恐らくニュ−ヨ−クのフィルモアイ−ストも同じ理由だろう。当初彼が描いていた思惑とロック産業の流れとが違った方向へと進み始めたんだなと思うけど。

でもオレが知る限りのフィルモアウエストは決して財政赤字とは思えなかったな。勿論ビッグな連中が演奏する時や,あらかじめバンドもライブレコ−ディングされる予定になっていた場合に限っては,そりゃ場内は押すな押すなの寿司詰め状態よ。しかしそんな特別な場合を除いても,お客はソコソコ入ってたし,フィルモアに限らずどんなハコでも常に毎日満員御礼とはいかないよ。とにかく閉鎖されたことは時代の流れと言えど非常に残念だね。」

ということで,ココ数日間テ−プを聞いてますが,デッドのようなビッグバンドもあれば,まったく聞いたことがないような無名バンドの演奏も納められており興味をそそります。でも長きに渡る年月の為か,テ−プ速度がおかしいモノもありますが速度調整というか,ピッチを修正すればソコソコ良い感じなんですが肝心の音質は録った位置にもよるでしょうが,こもりがちというか,余り良くありません。それにしても68年〜70年という時代はフィルモアも一時代を築き,同所で録られた各バンドのライブアルバムも優れたものが多いですね。

再び兄貴曰く
「フィルモアに出演していた各バンド連中の中には今も尚,相当数の未発表ライブテ−プが各レコ−ド会社にあるはずだ。それに出演者もロック屋ばかりじゃない。ブル−ス屋もいればジャズ屋も頻繁に出演してた。出せば良いのに。当時はオレも含めて演奏をテ−プに納めてる客は結構いたが,何と中にはマメに8mmで録ってるヤツもいたぞ。

あれから30数年,保存状態にもよるが劣化してなきゃいいがな。ましてやビッグなプレイヤ−の映像ならば場所が場所だけに確実にお宝映像間違いなしだ。よって後年,こんなものに限ってDVDに纏められて発売される可能性が極めて高いのよ」(笑)

彼のアメリカ帰りに後日もらった当時は英国未発売,現在はCDで簡単に誰しもが聞けるようになりました
ジミ−在籍時ザ.ヤ−ドバ−ズのアルバム「LITTLE GAMES」のレアLPレコ−ドの写真
ジミ−在籍時,最後のアメリカツア−を納めたブ−ト3枚組ブ−トアナログ盤です。
 今から26年前,大阪は梅田にあった某輸入盤店で購入。
今ではたいへん貴重なアルバムになってしまいました。

 

 

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