エミリオ・プッチの傘



 「…もうっ…最悪…」

 1週間の仕事のうっぷんを晴らそうと思ってた。山ほどショッピングして、新しい化粧品とか選んで…それから…と思っていたら、こうだ。家を出る時は、本当に雲ひとつない晴れた空だったから、傘は持たなかった。なのに、青山の駅に着いて、さぁこれからって時に、バケツをひっくりかえしたような雨。

 「どうしよう…傘どっかで買わなくちゃ…」

 それでも、家に帰る気はしなくて傘を買うことが私には一番最善策。
 空は淡いグレーの雲に覆われて、雨が止む気配なんて一向になさそうだけど、それでも私は少しでも雨が収まるのを待ってから、傘を買おう、そう決めた。

 (青い傘、黒い傘、黄色い傘、あ…あれ…あの傘……ほしかったんだよなぁ…)

 目の前を行く人々は色んな傘を差している。

 昔にもこんな事があった。大好きな人との久々のオフで、互いに買い物がしたいなんて所まで一致して、じゃぁ青山で待ち合わせようか、そう話して電話を切った。そして、青山の駅に着くと、一瞬にしてドシャ降り。そう今日みたいな雨の日。とにかく彼に連絡をしなくちゃ、そう思って思わず雨宿りしようとしたそのお店の前に、すでに彼が立っていた。それは約束をしたわけでもなく、偶然というかグッドタイミングで。

 (…薫…元気かなぁ……)

 薫とは何となく付き合い始めて、何となく別れて。その繰り返しだった。だいたい出逢いだって曖昧なものだった。確か、あるお店でたまたま私と薫が手に取った商品が一つしかなくて、お互い譲り合ったのが始まりだったはず。

 (あの傘…まだ今も売ってるのかなぁ…)

 











 『あぁー。もう。だから雨はやなんだよなぁ。』

 例の傘が、消えるまで雨宿りしているお店の前から私は見つめていた。そして、聞こえた声に横を向くと、雨をハンカチで拭き取りながら、ブツブツ呟く男性がいた。

 「薫…」

 口に出すつもりなんてなかった。

 それでも、私の視界に入ったその男性は紛れもなく半年前に別れた薫で。

 その横顔に気づいたとき、自然と口から漏れてしまった彼の名前。

 「あっ………」

 私の名前を呟きながら、そこにある表情はあの時と全然変わっていない。

 「…ひさしぶりだね」

 そして、変わらない優しい笑顔で、そう言った。





 まだ、外は雨。


















 少し距離が遠く思えた。そう離れて立ってる訳じゃないのに。別れてから、時々テレビで見かける薫は、私と別れた事なんて、何にも思ってないような微笑みで歌ってた。お互いがお互いの道を行く。そう決めて、穏やかに別れたはずのなのに、その微笑みがとても痛くて。そんな気持ちが、身体は近くても心の距離を遠くさせているのかもしれない。

 「ねぇ…覚えてる?は覚えてないかなぁ。」

 付き合ってた頃の楽しい思い出を思い出そうとしても、思い出せなかった。別れた時の事だけが、頭の中を過る。そんな切ない気持ちになりかけたときの、薫の言葉。

 「…ん?」

 何にも思ってない振りして、薫の横顔を覗く。私が好きだった、綺麗な薫の一面。

  (…何にも変わってないんだなぁ…)

 「あのさぁ、初めてとデートしたときのことっ。覚えてない?」

 忘れるわけがない。さっきも思い出してた。それでも……。

 「んぅ?どんなんだったっけ?」

  (…本当は覚えてるんだよ…)

 強がりなのかわからない。だけど、もう薫との事は過去の事だからと言い聞かせてきた。だからこそ、覚えてるよなんて言えない。

 なかなか去って行かない雲を眺めながら、言葉を何とか振り絞る。
 その言葉を聞いて、薫が小さく溜息をついたのを私は聞き逃さなかった。

 溜息なんてつかないで…

 「そっか。」

 あの日の事を話してくれると思ったけど、薫はそれだけを言って言葉を続けようとはしなかった。





 はやく…雨…やまないかな……
















 「やんだね…」

 聞こえないぐらいの小さな声を聞いて、意識が戻る。

 「ほんとだね。」

 空を覆っていた雲はいつしか消え、雨は止んでいた。









 「じゃ。元気でね。」

 彼が雨粒を拭いていたハンカチをポケットに戻し、足を一歩前に出す。

 「うん…」

 そう答えるのが精一杯で。

 「今度は…二人とも笑って逢いたいね。」

 薫は、私に背中を向けたままそう言って、雨が止んだばかりの東京の街に消えていった。






 雨は止んだはずなのに。

 私は、去っていく薫の後姿さえ見れずに立ち尽くす。

 その姿が見えなくなり、私はようやく足を動かすことが出来た。


















 変わらない横顔に、胸が痛かった。全ては、動いてるのに、私の気持ちはあの時から時間が止まってるのかな、なんて思ったりして。さっき、薫があの時の話をしてくれたら…何か変わっていただろうか。けど、もし変わったとしても何も言っちゃいけなかった。多分。
 彼の、今度逢うときは笑っていたい、その言葉にきっと、薫の中では私との時間はもうすでに過去なんだという意味が含まれてる気がして。だからこそ、何も言っちゃいけないんだ…。

  (あの傘…まだ売ってるのかな…)

 店まではそう遠くはなかった。歩いて10分ほど。同じぐらいの女の子が何人かいて、店内は色様々なカラフル模様。ガラスの扉を開けると、入ってすぐの所に、傘があった。

  (…結局あの時、二人とも買わなかったんだよね…)

 しゃがみこんで、傘を手に取る。その手から、出逢ったときの想い出が伝わってきて、余計胸が苦しくなった。もう過去を悔やんでも戻れない。そんな事はわかってるけど、それでもあの頃大好きだった薫の横顔が、今も胸に残っていて。




 『…なんだ…覚えてんじゃん……』

 背中から声が聞こえた。それは、誰のものでもない。彼の声。

 「薫…どうして…」

 さっきは見ることのできなかった彼の微笑みに、驚きが隠せなくてこぼしかけた涙を拭う。

 「…とさっき逢って…あの時の傘…まだあるかなぁって……」

 困ったような、それでも優しい笑顔に拭ったはずの涙がこぼれた。






 あたし…まだ薫が好きなんだ……






 彼は私の横に同じようにしゃがみこみ、ただ黙って傘を見つめた。






 「薫…私ね…」

 「もう…いいから……」

 「えっ?」

 「俺から…言わせて?」

 「な…何を?」





 薫は私の耳元に届くかわからないような小さな声で…







   〜もう一度…一緒にいたい……と…〜













 雨がまた小さく静かに降り出す。










 青い傘




 赤い傘




 黄色い傘




 色んな傘を持ってる人達の中で



 今度は、絶対に離れないように



 私達はあのときの傘の中で



 誰にも気づかれないように



 小さくキスをした














 二人が大好きな傘の下で。
END

■あとがきと言う名の言い訳
最初は村上で書こうと思ったのですが、キーワードが雨と、ふわっとした柔らかさを出したかったので王子にしてみました。タイトルは、王子のお気に入りブランドの一つ。本当は梅雨の時期になんか書けてたらよかったのかもー。○BGM  北極星、永遠に / The Gospellers