綱領なき革命・経典なき密教-現在進行形としての寺山修司-2
塚原 勝美
寺山修司を読む-2
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泥の中から出て来ながら、蓮は美しい花を咲かせる。
だが、その蓮の花の鮮やかな赤色を、反逆者の血のしぶきと見るか、
生身の喩えと見るか、エロチシズムの煩悩と見るかは、私たちの自由と
いうものでなければならない。
私が、死という言葉を口にしなくなったのは、ある夜、祖母と近くの蹄鉄
屋の源二郎という毛深い男が、寝ているのを見たときからである。
赤い蹴出しからころがりでた祖母の下半身は、私の思っていたよりもは
るかになめらかで色白く、しかも祖母の鳩のなくような喜びのしのび声は
雨戸のすきまから覗いていた少年の私をふるえあがらせた。
死ななければ見られないと思っていた地獄が、こんな間近で見られるの
とは、何という素晴らしさだろう。
私は、そのとき何の宗派にも属さぬ、自分のためのたった一人の密教
の徒になっていたのかも知れない。
寺山修司 - 空海
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綱領なき革命・経典なき密教という寺山修司の原光景なるテ−ゼは山岳仏教をきりひらいた空海を論じた
この文章に発見される。寺山修司哲学とはゆえに個人こそが根拠地であるとするのである。
綱領なき革命とはひとりの革命の徒であり、経典なき密教とはひとりの密教の徒である、そのような現在を生
きている人間こそに現実原則とさまざまな真理は内在し物語が発生する。それゆえにダイアロ−グとしてアク
セスする接続回路を赤い情熱が疾走する。
思想の望郷・文学編を読んで私はやはり近代を思った。同じ東北の文学者である石川啄木と太宰治への批
判はかつて吉本隆明が日本共産党員詩人であった壷井繁治の戦争協力詩の存在その転向を鋭く追及したよ
うな厳しさがある。詩人の批評とは革命綱領をめぐる党派闘争の兄弟殺しにも似ている。
鶴見俊輔たち思想の科学研究会が編集した『共同研究・転向』は、1962年に初版が発行されて以来、60年
代・70年代・80年代の革命家たちに読まれてきた。それは論理的に社会科学から展開されている。
それよりもすざましい兄弟殺しとしての階級が登場するのが文芸批評である。かつての70年代までの文芸批評
は階級闘争が必ず生み出す兄弟殺しとしての党派闘争ががあらわれていた。
しかし寺山修司の文芸批評はおのれの個人的な独自的な思想の根拠地を生み出すためにあった。
寺山さんは近代陣形の内面である壁に囲まれたとげとげしい四角の精神の呪縛から自由の基地を作った人
であると思う。その言葉には綱領なき革命・経典なき密教が呪術のように内在化されている。ゆえになかなか概
念化できないのである。自分を物語らねば寺山さんの言葉にアクセスできない。ハルキ文庫『石川啄木を読む-
思想の望郷・文学編』は十三(とさ)の砂山の台本にある言葉の原光景が説明されている。鏡花を読む、そのフ
ァイルは土俗と密教が混在し、誘発された。寺山さんの台本の言葉はある土俗伝説ある文学ある消された住民
の歴史が圧縮されている。そして批評の動物的眼光は詩人特有の鋭さがある。
これまで私がまともに読んだのは83年国文社発行の寺山修司演劇論である。その本は共同研究・転向ととも
に朽ち果ててしまった。2年前、いつか美術展へオブジュ作品として出そうと、アパ−トの外へ野ざらしに置いて
おいたから。1971年私は栃木県矢板市という場所で革命の活動家をやっていた。19歳になろうとしていた。
自主上映会のマドンナ室井とも子さんが、アジトにしていたわたしの4畳半のアパ−トに来て、宇都宮県立文化
会館で『書を捨て街に出よ』が上映されるから見に行かない、とさそわれたが、私はいかなかった。後で室井さ
んから感想を聞いたら、とてもおもしろかった、そう言っていた。
私は今年の3月で49歳になる。92年から演劇をやりはじめ、これまで白石征さんやシ−ザ−さんの演出によ
る寺山修司演劇に出演してきた。やはり元天井桟敷の三上宥紀夫さんの演出による舞踏にも出演してきた。
その舞台実践を通過しながら、いよいよ個人的に寺山修司と対話する30年遅れのあほだらこそ私である。
しかしこの長い迂回をえた出会いこそ重要である。自分なりに寺山修司哲学とアクセスできるほのかな確かさに
感謝している。
2002.1.1