2002・年頭文

綱領なき革命・経典なき密教―現在進行形としての寺山修司

                                          塚原 勝美

はじめに

 この史的前夜とは中央アジアを発火点とする第三次世界大戦を前にしての夜と夜の夜。

花嫁衣裳は火事の色。90年代の世界基調色はこげ茶色であった。いまや火事の色。

そして第2次世界大戦敗戦国としての日本の戦後価値観は大経済主義であったが、いま音を立てて瓦解。

価値と人生そのものが地滑り的に移行。演劇思想としての寺山修司から文学思想としての寺山修司総体が

現出してきた。日本で文学思想とは哲学のことである。

31日、藤沢駅で十三(とさ)の砂山のチラシをまいた。近くには前日に続いて革命的共産主義者同盟の中核派

の情宣隊が反戦闘争の呼びかけと署名活動を展開している。自分はひとり。情宣隊の隊長は私と同年輩。

いま全学連には学生が続々と集まっています。佐世保闘争では機動隊とぶつかりました。そう笑みを浮かべな

がら話す。私は29日にシアタ−Xに劇場下見に行ったついでに新宿の模索舎によって前進新年号を買って年

頭論文を読んだと話すと、隊長のヒュ−マニズムに満ちた笑顔はさらに深まる。

その笑顔の底には長年の過酷な革命運動で慟哭の悲しみと非情なニヒルを経験してきたはずだ。

私に万有引力の根本さんの顔がよぎる。

 

 いま自分たちの芝居では学生は終え高校生が参加してきています。そう話すと隊長はどうしてですか? 

と質問する。私は、さあ自分を表現したいという情熱が湧き上がっているのではないでしょうか、そう答える。

隊長は昨日も朝10時から夕方5時まで駅頭で立って署名活動しているので、今日は疲れているようだった。

明日は正月1日である。明日もやるんですか?そう質問すると隊長は明日は仕事ですと答えた。

なら明日は私がこの場所でひとりでやろう。川原乞食の芝居屋が革命党のプロレタリア戦士に負けるわけに

はいかない。

 チラシを受け取ってくれた年配の上品な白髪の女性が話しかけてきた。寺山修司さんですか、わたし短歌をや

っているんですが、先生が寺山さんの歌が好きなんですよ。私は質問する。そうなんですか、寺山さんは人気あ

るんですか? 婦人が答える。ええ好きな人が多いですね。私は営業する。ぜひ、東京の両国で遠いですがみ

にきてください。婦人が答える。東京は遠いですね。私はチラシを見せながら説明する。28日は昼間やりますの

で、是非。婦人が答える。昼間だったらいけるかもしれません、友達の分ともう1枚ください。婦人は去っていった。

隊長の方を見ると署名しようと若い人が集まっている。若い情宣隊員には人が集まっていない。人を寄せ付けな

いインテリ特有の匂いがあるからである。あの隊長は大船駅でも数年前から情宣をふたりでやっていた。昨日は

3人だった。今日は4人。それだけ組織が盛り返していることがわかる。遊行舎に組織はできるのだろうか? 

ふと私は思う。いまはひとりで決起しなくてはならない。芝居が終わると劇場費・スタッフ支払いが待っている。

支払いを成功させるためには観客を動員するしかない。そのためには宣伝である。

 さて中核派情宣隊は4時半頃引き上げた。本当はいろんな団体と競合して宣伝するほうがお祭り的になって

チラシのはけもいいのだが、しかたがない。隊長があいさつにきた。来年もよろしく。握手をした。いよいよ

革共同の情勢到来ですね、わたしはおせじを言った。革共同とは革命的共産主義者同盟中核派の略語。

 

 ひとりでチラシをまくがやはり受け取りが悪くなる。気合を入れなおした。若いカップルが話しかけてくる。

あの、へんなことを聞くんですけど、この近くにホテルはないでしょうか? みると女の子が照れ笑いに崩れて

いる。私はいつもチラシを置いてもらうホテルを教える。チラシまきとは私の俳優修行でもある。そこで現在の

人々の姿態を学習するのだ。あなたが好きなんです、そう心で念じてチラシを差し出すと若い女性が受け取る

のである。テレパシ−ではないがこれは発見だった。女とは心の感受能力を持った動物なのだろうか?

いままで私は女とはどうしてもセックスをやりたい肉体編の対象にしかみてこれなかった。それが自分の限界

だった。ふとシ−ザ−さんの言葉を思い出した。心のセックスもあるんですよ。それは心と心の会話という意味

なのだろうが、昨年の私にはまだ理解できなかった。宣伝しながら考える。確かに自分は考えそして感じる心を

持っている。ならば女性ももっていることは確かだ。なぜその心をめがけてアプロ−チしなかったのだろう?

女性の心とは何か? それを今まで考えたことはなかった。あまりにも幼い無知な男であったことに気づく。

 

1) 寺山修司を読む

 私は新聞をとっていない貧乏人。だからたまに新聞を読むと入力装置が生きいきと起動する。しかし本も最近

読んでいないから、たまに本を読んでも入力装置が起動しない。読書とは関連における想像力にある。

つまり一冊の書物を読む読書人はさまざまな書物を読んでいるから、その文章を読んでいるとき、同時的にさま

ざまな読書による入力装置が起動して関連付けとしての連関メモリ−が起動している。それが思考である。

つまり読書とは思考世界なのである。ゆえに読書をしていない人間は思考起動としての文章を書くことが困難に

なる。書物は編集された世界である。編集とは裏方の側面であるが、読書人の無意識にその裏方の側面が入力

されていく。活字は舞台であり俳優であろう。

 私は馬鹿だから寺山さんの書物の批評などはできない。寺山さんの本を読むとは自分を語ることになってしまう。

それがモノロ−グではないダイアロ−グへの方向感覚であれば、寺山さんから少しでも学んだことになるだろう。

 

2001.12.31