モーツァルト/名交響曲集(全14曲 ライブ版)
(CD1)交響曲第25,29,31番,ディヴェルティメントK.136
(CD2)交響曲第33,35,36番,ディヴェルティメントK.137
(CD3)交響曲第38,39番,ディヴェルティメントK.138
(CD4)交響曲 第40,41番,セレナードK.525
指揮/岩城宏之
●発売/コジマ録音(2001.2.28) \5,000(税込み)
●録音/浜離宮朝日ホール
●ALM Records ALCD-8007〜8010

1995年5月から6年間に渡って東京と名古屋で連続して演奏されてきた「モーツァルト全集」の完結を記念して録音されたCD。すべて東京の浜離宮朝日ホールでの演奏会のライブ録音である。このシリーズは石川県では北陸朝日放送で時々放送していたので,朝日新聞関係がバックアップしていた企画のようである。

「モーツァルト全集」とはいえ,もちろんモーツァルトの全作品を演奏しているわけではなく,モーツァルトの番号付きの交響曲を全部演奏し,それに協奏曲などを適宜組み合わせて25回に渡って演奏会を行うというものだった。この番号自体,旧全集版によるもので,アカデミックな観点からすると時代遅れの発想ということになる。しかも,モーツァルトの演奏については(特にCDの世界では),オリジナル楽器を使った演奏が主流になりつつある。岩城の意図は,あまりにアカデミックに音楽を捉えようとする流れに対して反発し,ブルーノ・ワルター,カール・ベームと続く,「正統的」な演奏に対して敬意を払う,という辺りにあるような気がする。「オリジナル楽器がはやってきたからといって,急に今までやってきたことを変えるものか」という頑固な考えに基づいて演奏された演奏といる。

「現代楽器からオリジナル楽器への変化」というのはパラダイムの変化といえるほど大きなものだが,その一方,ワルターやベームの演奏を「永遠に最高のモーツァルト」と捉える人もいまだに多い。演奏家としてそういう立場を貫くことも納得できる。アカデミックに捉えると,このシリーズは「価値がない」と全く評価されないことになるが,そのことを承知の上で「岩城のモーツァルトはこれしかないんだ」という立場で演奏されている。私は,時流に流されず,自分のスタイルを貫く,岩城のやり方にベテラン指揮者としての頑固さとプライドを感じた。

演奏の方も奇をてらわず,しっかりとオーケストラを鳴らした立派な演奏になっている。オリジナル楽器による演奏には,すっきりとした透明感を際立たせた軽い演奏が多いが,OEKはベートーヴェンの交響曲につながるがっちりとした重みのある交響曲という感じで演奏している。ライブということで,管楽器の音程などが不安定に感じることがあるが,OEKの演奏史に残る立派なCDだと思う。

録音については,ベートーヴェンの交響曲全集の時も感じたが,なんとなくぼやけているような気がする。私は,もっとクリアな感じの音の方が好きである(別のホールで再録音してもらったら有り難いが,朝比奈さんでもない限り(?),そう何度も全集を作るわけにはいかないでしょうね。)