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第1回 加藤 正之氏 (Roundhouse リーダー&ギター) 2002年10月インタビュー
インタビュアー 山田摩耶 |
山田)
このインタビューでは日本、特に関西のおけるジャズロックの黎明期に関わっ
ておられた加藤さんから当時の色々な出来事を含めた興味深いお話をお聞かせ願えれ
ばと思います。まずこういった音楽に興味をもたれた切っ掛けはなんでしたか?
加藤)
高校生、いや中学生の頃かな。あの頃ってベンチャーズ、モンキーズ、ビート
ルズなんかがあって普通の人は皆ビートルズに行く所を、モンキーズとベンチャーズ
を聞いていたっていう事なんですね。で当然ベンチャーズのあのテケテケっていうの
を例にもれずやりたくて、でギターを買ったていう。すごくベタなんですけど、そう
いう邪心から入り(笑)で、そのうち、あの時代で言うと、やっぱりツェッぺリンと
かグランドファンクレイルロードあたりをコピーし始めて、で、じわじわと流れがリ
ターン・トゥ・フォーエヴァ−へと行き、で、ウィッシュボーン・アッシュとか、な
んかちょっとインストゥルメンタルな方向へ走ってしまったためにジャズロックへ行っ
たというのが経緯なんですよ。
山田)
未発表音源の「Wings To rest」では、スパニッシュなフィーリングを持った
サウンドにリターン・トゥ・フォーエヴァ−の影響を強く感じさせますがやはり加藤
さんの中では(RTFは)大きいですか?
加藤)
そうですね。「浪漫の騎士」なんかはとても印象深いアルバムでした。その他
にもチック・コリアのアルバムにも「クリスタル・サイレンス」っていう曲があっ
て...
山田)ゲイリ−・バートンとチック・コリアのライブ盤でやっている曲ですね。
加藤)
そうそうそう。あの辺のECMっぽいサウンドが凄く好きで。でも、スタッフと
かリ−・リトナーがウェストコーストっぽい音楽をやり出した頃には、もっとアメリ
カンな音楽にも興味を持ち始めました。
山田)ラウンドハウスを結成されたのと、そういったクロスオーバー的な音楽に興味
を持たれたのは時期的にどっちが先でしたか?
加藤)
ラウンドハウスの方が先でした。丁度ラウンドハウスの前にアーデルハイドハ
イジっていう、ボーカル入りハードロックっぽいポップな音のバンドをやっていたん
ですけど、その頃にインストの方がドラマティックで拡がりがあって自分の表現方法
としてはそっちの方があっているなと思ってしまったのでした。リターン・トゥ・フ
ォーエヴァ−の他にはキャメルとか、アラン・ホールズワースの入ったゴングとか、
コロシアムなんかも聞いてました。日本で同じ世代ではスペースサーカスとかプリズ
ムとか四人囃子とかがいましたね。
山田)その辺のバンドと交流があったんですか?
加藤)彼等は東京ですからねえ。交流という程の事はなかったけど、僕らは88ロック
デーで、向こうはイーストウェストっていうコンテストがあったので、直接ではない
んですけど、主催者のヤマハを通じてお互い知っていたというくらいの事はありまし
たね。
山田)一応関西という事でインタビューさせていただいているんですけど、他に関西
でそういった音楽性で活動しているバンドはありましたか?
加藤)
例えば古川兄弟の羅麗若(ラレイニャ)とかなんかですね。あとアインソフは、もう完全
にお友達でした(笑)。天地創造ってバンドがアインソフになったんですけど、例え
ばうちのドラマ−の名取は前アインソフだったんです。山本要三君と、あと藤川って
いうキーボードは親しかったです。数は少なかったです。ミスターシリウスなんかは
シンフォ系だったし、ナニワエクスプレスなんかはフュージョンぽいジャズロックだっ
たのかもしれないですね。あとマジックスタッフというバンドがあって、どっちかと
いうとタワー・オブ・パワーのようなファンク系のサウンドだったんだけど、そのメ
ンバーは個別に色々とやっていて、ジャズロックだったのかもしれないなっていうの
がいくつかあったけど、もう全然音源とかが残っていないので、バンドとしてはあま
り活動はしていなかったですね。でも、88ロックデ-があったので、ロック色の強い
バンドは多かったんですけどね。
山田)Q88ロックデーについて聞かせて下さい。
加藤)
基本的には万博公園でやっていたんですけど、僕達が初めて出た時は合歓の郷っ
ていう伊勢の会場でオールナイトコンテストだったんですよ。オールナイトは初めて
だったんですけど、あの一番下にステージがある擂り鉢状の敷地の中に全国か
ら10000人も来てました。でもオールナイトはその時で終わってしまったんですけど
ね。何故かと言うと合歓の郷って近所に養鶏場があるんですけどそこであれだけ大
きな音で夜通し音を出したせいで、ニワトリが卵を産まなくなったらしいんです(笑)
。まあ盛り上がってましたねえ。うちはその時から3年連続で88ロックデーに出たん
ですけどそれっきり88は就職もあって卒業しました。88自体はその次の年で終わりま
した。残念な事にヤマハ自体にそういうスタッフがいなくなって来たという事が原因
みたいです。
山田)当時はラウンドハウスの音楽性はどのように評価されましたか?
加藤)うーん、非常に受け入れられ難い音楽だったですね。関西ではブルースとウェ
ストコーストが主流ですからね。僕らが初回に出た時は「アラバマ」っていうバンド
が賞を取って、2年目は「サザンクロス」...。
山田)どっちもとてもアメリカっぽい名前ですね(笑)
加藤)
そうですね(笑)。3回目は、誰がカバやねんロックンロールショーっていう
バンドが賞を問ったんですけど、やはり歌ものの売れ線が受けてたっていう感じです
ね。ただ88ロックデーっていうのは必ず2バンドプログレが出るんです。何故かヤマ
ハのルールでそういう事になってて。
山田)当時はライブ活動はどれくらい定期的に行われていましたか?
加藤)
2ヶ月に一回くらい京都では、サーカス&サーカス、磔磔、拾得、大阪だったら
バーボンハウスとかでやってしました。
山田)お客は入っていましたか?
加藤)絶えず満席でした。
山田)ちなみにバンド名の由来は?
加藤)スラングなんですけど、ラウンドハウスっていうのは取り囲まれた家っていう
意味で刑務所っていう意味なんです。
山田)それはまさかメンバーの方が(笑)?
加藤)
いやいやそうじゃなくて(笑)。なんかこう割と閉鎖的で囲まれた中でやって
てもいいかなってその時は思って、ポピュラーな誰にでも受けるものではなくて、こ
のエリアの中だけで聞いてくれる人がいればそれでいいやっていう意味でそういう名
前にしたんですけど。マニアックな世界の中だけでやっていこう、みたいな。今でも
メジャーな考えはなくて、僕の世界を気に入ってくれる人達が、応援してくれればそ
れでいいやっていう、基本的にはそういう考えは変わってないですね。そのエリアが
拡がっていく分には構わないんですが。
山田)現在の関西のジャズロックシーンと当時のシーンとを比較してどう思われます
か?
加藤)
まあ、シーンそのものは発表の場が少ないと思いますし、自分達で小刻みにやっ
ていかざるを得ないですね。大きなお金が動いて、そこに参加するだけっていうシー
ンはなくなってしまった。88があったころはヤマハが力を持ってて発掘しようってい
う意識も高かったし暫くしたらイカ天とかもあって、コマーシャルな部分でバンドっ
ていうものが流行ってたじゃないですか。で、これからはそういう事じゃなくて、本
当に音楽を続けて行きたい人達がちゃんとこうみきわめていけるシーンを作らざるを
得ない。そのなかで僕らがやっていける事っていうのはそういうシーンを作るお手伝
いをするという事だとおもいます。
山田)加藤さんは御自身でも会社を経営しておられて、ミュージシャンもやっておら
れて、その辺の意識の切り替えは大変じゃありませんでしたか?
加藤)
僕は昔からバンドのマネージメントも自分でやってたので。でもその時とくら
べると今はネットがあるから随分楽になりました。(人に任せた時に)あまりにもビ
ジネスセンスがないやり方をされてしまうと、バンド自体に良くないなと感じてるん
ですよ。遊びじゃないんで、きっちりとしなければいけない所はきっちりとすべきな
んだけど、バンドの人もそういう事が分っていた方が良いです。きびしい言い方をす
れば、それがわからないバンドはやっぱり目が出なくて当たり前だと思います。真面
目に音楽に取り組んで、ちゃんと自分達の音楽を聞いてもらいたい、と努力をしてい
る人達がシーンを作って行くべきだと思うし、で、そういった気持ちを大事にしてい
かないと、途中で気持ちが萎えてしまいますよね。だから僕はあえてそのマネージメ
ントというものはポジティブにやっていきたいんですよ。自分はミュージシャンでも
あるし、マネージャーとしてもプロモーターの立場としても物が言える。そういった
立場の人間が一人でもいないと、うまくいかないと思うんですよ。それは大変だと思
わずに、やらないとしょうがないなあという覚悟はあります。
山田)今日はお忙しい所貴重なお話をどうも有難うございました。
加藤)有難うございました。
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