パク ソギョン (Vo)
韓国を代表する女性ジャズボーカリストであり、韓国ジャズ創生期、「ヤヌス」をオープンさせたパクソギョン。 現在でも「ヤヌス」を活動の場に、彼女のジャズへの情熱は衰えることがない。 |
ジャズに身を捧げた パクソギョン
国内最高のジャズボーカリストとして自他共に認めるパクソギョンは、ジャズに恋するあまりジャズの熱病にかかり、 ジャズと結婚した女性だ。 他の大衆音楽芸術に比べ、ひときわ冷遇を受けたジャズ、その暗黒の時期の70年代1974年、パクソギョンは ジャズ演奏会を始めて開き、以来今まで20年以上をもっぱらジャズのだけを歌う潔癖な女性だ。
梨花女中、高校を出たパクソギョンは学生時代には運動に素質があり、バスケットボール部とバレー部で選手生活をした。 彼女が音楽と因縁を結ぶようになった背景には、父親の音楽好きがあった。 趣味にトランペットを吹き有線機や電蓄を買い集めてもいた父親のおかげで、彼女は50年代に大人気だったベニーグッドマン、 グレンミラー、マリオランジャ等の音楽を早くから聴くことができた。 しかし、女高を卒業するまでは、舞台に立ち歌を歌うという仕事など夢にも思わなかった。 そんなしばらく後の女学校時代、一番親しかった友達が同窓の中で一番先に結婚することになり、背信感とうつろさを感じていた 彼女は、ある日、新聞をみて米8軍ショー団体のオーディションの広告を見つけ、退屈ついでに応募してみたのだが、 音楽性が認められたのか合格し、それが今日の彼女の運命をジャズへ向けた決定的なきっかけとなった。
高校卒業の一年後、パクソギョンがデビューした場所は米8軍舞台で、当時は米8軍ショーの全盛期であり、 彼女はサラボーンスタイルのジャズレパートリーで舞台に立った。ある日、バンドマスターが聞かせてくれたジャズが 若い彼女の心をひきつけた。ジャズへ興味を感じた彼女はもう少し深くジャズを勉強したいと考え、淑明女子大学音楽大学作曲科 へ入学した。
その後、パクソギョンは国内よりは東南アジア巡回公演、日本公演などの海外公演を通し実力をつけていった。 1974年、国内で初めてのジャズ演奏会、パクソギョン歌と映像の夕べという舞台を持ち、パクソギョンの名前を一部僅かのファンに 知らしめ、ウオーカーヒル、朝鮮ホテル、米8軍・内資ホテル、フォーシーズンズ等の舞台でジャズだけを歌った。 その結果、学校の勉強に打ち込めず、大学の卒業書をもらうのに7年もかかった。
1978年には、新村駅前にジャズ専門カフェ、ヤヌスを開業し、今の梨花洞に場所を移すまで18年間絶えることなく 国内ジャズメンたちの舞台兼集いの場としての役割を果たしている。 またこれをもとに1980年からは、ヤヌスジャズ同友会を主催し、イパングン、カンテグァン、チョンソンジョ、シンガンウン、 イドンギ等と一緒に10周年を超えジャズの研究と発表を続けてきている。
「ジャズはまだ私たち聴衆と非常に親しくはなっていないでしょう。しかし一旦ジャズに目覚めた人たちは熱病にかかったように はまってしまうのです。それがジャズの特徴でもあります。私もまた愛の熱病にかかったようにジャズにはまっています」
そのためか彼女はまだ独身だ。いや、厳密な意味ではジャズと結婚したと言えるかもしれない。 彼女自身、結婚したなら今のようにヤヌスカフェとヤヌスジャズ同友会を維持できなかったかもしれない、と言うように、 ヤヌスとジャズを愛している。 86年にはパクソギョンとヤヌスが共にジャズアルバムを発表もしたところだが、 最近若者がジャズを受け入れる姿勢より、フュージョンを好む傾向が強いことに対し、 偏食をする子供のように奇形になってしまうと釘を刺す。
ソン ソグォン 「ジャジーなジャズ話」より
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