キル オギュン (吉屋 潤)
日本でも、往年のジャズメン、ジャズファンに、知られる 吉屋潤。
彼は韓国人なのですが、ジャズをやりたいあまり、50年代、日本へ渡り、
日本のジャズ界でも、日本名 「よしや じゅん」 で活躍した音楽家です。
韓国ジャズ界の創始期、忘れてはならない多くのジャズマンがいますが、
韓国のジャズを語る時、彼はあまりにも有名な一人のようです。
ジャズに夢中になり日本に密航したキルオギュン
1995年3月17日歌謡界は大きな星を失った。
作曲家でジャズサックス奏者のキルオキュンが骨髄癌でこの世を去ったのである。
学生時代、当時日本で活動していたキルオギュンがアメリカのゴールデンゲイト4重奏団と一緒に来韓し、
ジャズ共演をしたのを見た記憶が思い出された。
ゴールデンゲートカルテットのボーカルと一緒になった彼のサックスの演奏は、しばらく脳裏から離れなかった。
キルオギュンがジャズに魅了されたのは、1945年8月15日の解放数日後、
米軍四鼓舞団が進駐し、今のミドパ百貨店に位置していた米24師団将校クラブへ見物に行って、ジャズを聴き魅惑され、
あくる年1950年1月、統営から知れずに密航船にのり、日本へ密航したのだ。この時から彼の人生は180度変わってしまった。
1927年2月22日、ピョンボクヨンピョンで医師だったチェギョンギル氏の5男2女中4番目の、
息子としては2番目の彼の本名は、チェチジョンである。
ピョギャンのチョンノ国民学校とピョンギャンコウボを卒業して、
今のソウル大学歯科大の前身の、キョンソン歯科専門大学を1949年に卒業した。
彼が音楽に縁が出来たのはピョギャンコウボ時代、むかいという日本出身の教練先生がいた。
その先生が、学校に6名いたラッパ手の中で、一名が欠員が出たため、彼にラッパを手をしろと指示したのがきっかけになり、
この時からラッパを吹き始めた。1943年17歳でソウルに来て、ソウル歯専2年生の時解放を迎え、
今のサボイホテル裏側にあった、黄金ダンスホールでサックスを吹き、その時パクチュンソクがピアノを弾いた。
彼はキョンソン歯専を卒業し、ソウル音大に編入しようとして父親の反対で歯大へ入学したが、
音楽への未練を捨てきれず、ユックン軍芸大で活動し、ついに密航船に乗ることになった。
21才という若い年で日本に密入国した彼は、作曲家、小沢を探し弟子になった。
小沢は彼に、日本の小説家吉屋信子と谷崎潤一郎の名前からとり、吉屋潤(キルオギュン)という芸名をつけてくれたために、
その時から、名前をチェチジョンからキルオギュンに変えることになった。
キルオギュンは、オアシス銀座というクラブで吉野バンドの一員として演奏して、日本に行き3年、
自分のバンドクールキャッツを組みながら、次第に名前が知られるようになり、
TBS、NHKに出演するほど、日本のジャズ界でも知られるようになった。
日本の生活10年目に4・19直前、故国の舞台を踏んだ彼は、ジャズボーカルグループ、ゴールデンゲートと共演をしたが、
1966年に母親の見舞いで再び来韓して、ちょうど、海外公演を終えて戻ったパティキムに会い、
4月が過ぎれば、を発表し愛が芽生え、その年11月24日パティキムと結婚にゴールインした。
彼らはコンビをつくりあげ、光と影、ハワイ恋情、別れ、を連続ヒットさせたが、2人の関係は悪化し、彼らの歌、別れ、のように72年離婚した。
しかし音楽は共同作業が続き、73年東京歌謡祭に一緒に出場し、
愛は永遠に、で銅賞を受賞したように、音楽に対する並外れた情熱を見せてくれたのであった。
1976年にはヘウンニをピックアップした、あなたはしらないでしょう、カムスクァン、へ続き77年、MBCソウル国際歌謡祭で、あなただけを愛する、
で最優秀賞を受賞し、アメリカイエール大学音楽大に、ジャズの韓国定着史を講演し、
韓国ジャズを世界に知らしめ、ソウル芸専教授と韓国音楽著作権協会長を歴任した。
ソンソグォン ジャジーなジャズ話 より