BIOGRAPHY


以下は当時の『JANIS』ライナーノーツにおける田川律氏作成のものをベースに出来る限りの補足を加えたものです。事実関係に誤りがありましたら遠慮なくお知らせ下さい。

1943〜
 1月19日、山羊座、テキサス州ポート・アーサーに生まれる。フル・ネームはジャニス・リン・ジョプリン。父のセスは、テキサス製缶会社に勤め、後に石油会社テクサコで現場監督助手として働いている。母のドロシーはポート・アーサー専科大学の登録係。ジャニスは長女であり、ローラという名の妹と、マイケルという弟がいる。
ジャニスは自分が生まれ育ったテキサスについて、次のように語っている。
 「テキサスは、そこに住んで、静かに生活するなら良い所ね。でもね反抗的な人には向いていないんだよ。あたしはいつもそうだったんだ。テキサスじゃ、いつもわるく言われてたんだよ。あそこじゃ、誰もが、ビートニクに良くしないんだから。」
 少女時代の彼女の生活についてはこの言葉が、もっともよく語っているくらいで、彼女自身、その詳しいことを喋りたがらなかったらしく、殆ど分からない。
 ただ、絵を書くことと、詩を作ることが好きだったらしい。
1960  17歳の時に、悪友達と連れだってメキシコ湾沿いの海岸にある古い燈台のてっぺんでささやかなパーティを開いていた。ふと、誰かが「ここにレコードプレイヤーがあればいいのになぁ〜。」と何気なく言ったところ、ジャニスが「私が歌う!」と名乗り出た。みんなが冷やかしているさなかジャニスはオデッタのナンバーを力いっぱい歌った。この事がキッカケで?ジャニスは家にいるときもレコードを掛けながら歌うようになった。彼女の当時のフェイバリット・アーティストはオデッタ、レッドベリー、ベッシー・スミス、ビリー・ホリディ等だった。
  そして高校を卒業すると進学の為?に家出。
1961  彼女はテキサス州のオースチンに出てくる。目的は、テキサス総合大学に学ぶためであるが、生活費を稼ぐために、キーパンチャーとしてパートタイムのアルバイトをしていたらしい。また、大学時代の仲間と一緒にフォーク・ソングのグループらしきものを作って歌っていた。
1961〜1963  この頃のジャニスについても、不明の部分が多い。どうやら、この頃、後にビック・ブラザー・アンド・ホールディング・カンパニー(以下BB&HC)のマネージャーをやるテキサス出身のチェット・ヘルムスと知り合い、一時、サン・フランシスコまで、彼と一緒に出かけたらしい。
 そのキッカケになったのは、オースチンの町外れにあったガソリンスタンドを改造して作った”スレッドギルス”と呼ばれるバーである。当時、「ウォーラー・クリーク・ボーイズ」という名のヒルビリーのバンドの一員であった彼女は、このバーによく出入りしていた。このバーの主人はスレッドギルと呼ばれる太った 背の高い年輩の男であり、彼の好みもあってここはカントリー・ウエスタンの歌い手や、好きな者たちの溜まり場的存在であったらしい。当時は彼女もこの手の歌を歌っていて、たまたまやって来たチェットに認められてサンフランシスコに連れていかれた。
 もっとも『ジャニス』の本で、彼女が語っている所によれば、 「あたしは、ほんと、歌に対して興味がなかったんだよ。何度か歌ったけれど、要するに、何事に対しても、真剣に考えちゃいなかったんだ。ただの若い女の子だったんだよ。」
 そして次第にドラッグに染まっていく。彼女の記憶が確かだとすると、この頃にグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアたちとも一緒にその経験を共有したらしい。
1964〜1965  ほぼこの1年間、彼女は再びテキサスに戻ってドラッグで壊れた身体を静養している。
1965  BB&HC結成。
 メンバーはサム・アンドリュー(Vo,G)、ジェイムズ・ガーレイ(G)、ピーター・アルビン(B)ディヴ・ゲッツ(D)。彼らはヘイト・アシュベリーの1090ページと言われる所でコミュニティを形成しており、その中にはミュージシャンや画家や作家の卵たちがいた。
1966  同郷のジェファーソン・エアプレインの成功に刺激を受け、チェットはテキサスからジャニスを呼ぼうとして、彼女の昔のボーイフレンドであるトラヴィス・リヴァースに依頼する。ジャニスが仕事が終わって友人宅でくつろいでいる時に彼は突然現れ、ジャニスをひょいと持ち上げるとベッドの上に放り投げて朝までF**Kし続けたという。(←なんて、パワフルな奴!)
 とにかく、まんまとハメられてカリフォルニアにやって来たジャニスはBB&HCに加入する。6月の事でした。
 それまで、自分でアコースティック・ギターを弾いて一人で歌っていたジャニスは初めてバンドと一緒にやるようになって、歌についての考えや、取り組みかたが全く変わってしまった。
「みんなして、あたしのことをミュージシャンの中に投げ出したんだよ。音は後ろから来るし、ベースはあたしを支える。コレに決めたんだ。他のことやりたいって、全然思わなかった。どんな男とヤルよりイイんだから。でも多分そこが問題なんだろう。」
そしてBB&HCと初めて演ったのは「ダウン・オン・ミー」だった。一週間後、アヴァロン・ボールルームを皮切りにベイエリア周辺で定期的に演奏するようになる。
ジャニスがその時の気持ちを語っています。
 「まず彼らだけで何曲かやって、それから、『では紹介しましょう。』とアナウンスされて、誰もあたしの名なんて聞いた事もないんだよ。あたしはただその辺の女の子で、ステージのための特別な衣装もなにも持ってなかったし、大学へ行ってた時と同じ格好で出たんだよ。ステージに出て、歌いはじめたら凄いんだ!まるでドラッグの世界が現実になったみたいなんだ。もう、何も覚えてやしない。ただ、凄かっただけ。
 音楽はブンブン鳴るし、みんなは踊り出すし、照明はもうもうとしている。あたしはっていえば、そこに立って、マイクの前で歌っていたのさ。とても楽しかった。だから言ってやった。『ずっとココにいるよ』って。ね、いいじゃない。確かにあたしはもう驚かされちゃったんだよ。他のことなんて思いもしなかった。寒い楽屋にこれから一生座ったりするなんてこと。だいいち、楽屋がある事さえ知らなかったんだよ。
 でも、シンガーになった時もスターになりたいなんて絶対に思わなかったんだよ。ただ、楽しいから歌うんだよ。テニスが好きな人はソレをすれば身体にイイ。あれなんだよ。ビールだっておごってもらえる。。ただ経済的に苦しかった。両親からお金を送って貰ったりもしたんだよ。」

この年、メインストリームというシカゴの弱小レーベルからレコーディングの話が来た。ピーター・アルビィンによると「ニューヨークから来たイカサマ野郎に騙された。アレは失敗だった。」と語っている。いいように話が進み、わずか3日間で吹き込んだ彼らの1stアルバム『ビッグ・ブラザー・アンド・ホールディング・カンパニー』は発売されたが、彼らは1セントも貰う事ができなかった。
  1967/6  5万人が集まったモントレー・ポップ・フェスティバルにおける熱演が、ジャニスの名を決定的なモノにした。たまたま会場に来ていたコロムビア映画の社長、クライヴ・デイビスが彼女に目をつけた。また、アメリカのロック・シーンを1人で動かせるほどの敏腕マネージャー、アルバート・グロスマンもジャニスに興味を持った。
1968/1 BB&HCはアルバート・グロスマンと契約した。
/4 ジャニスとそのバンドはニューヨークでコロンビア・レコードより発売されるアルバムを録音。
/8  ニューヨークのフィルモア・イーストで演奏。彼女は4回もアンコールに答えるほどの熱狂ぶりだった。
/9  『チープ・スリル』が発売された。
 このアルバムは発売と同時にミリオン・セラーになり、ゴールド・ディスクを授賞した。
/11 BB&HCが解散するという噂が拡まる。
/12 1日、アヴァロンで、BB&HCとの最後の公演をチェットの為に行う。その頃、ジャニスは既に次のバンドを造りはじめていた。
 このバンドは”ジャニス・レビュー”、”メイン・スクイーズ”とか色々な名称で呼ばれていた。現在は通称”コズミック・ブルース・バンド”と呼ばれている。メンバーはサム・アンドリュー(G)、ブラッド・キャンベル(B)、ロイ・マルコヴッツ(D)、テリー・クレメンツ(T.SAX)、スヌーキー・フラワーズ(B.SAX)、ルイス・ガスカ(Trumpet)、リチャード・カーモード(Organ)。
ジャニスの敬愛するオーティス・レディング、ティナ・ターナー等の影響が伺えるホーン・セクションを含む大所帯だったが、ジャニスとの相性は良いとは言えず、実際、そういったメンフィス・サウンドの為のフェスティバルでデビューしたのだが、(共演はオーティス、バー・ケイズ、アルバート・キング、エディ・フロイド等)聴衆の態度は冷たく、場違いの感じは免れなかった。
1969/2 11〜12日、フィルモア・イーストでの、ジャニスとそのバンドの登場はこの年最大のイヴェントとして、すべてのメディアが待っていた。ジャニスがシャンテルズの古いヒット・ナンバー「メイビー」と「サマータイム」を歌った時、みんなは涌いた。
/3 この頃にはジャニスとバンドの亀裂が決定的になる。
/8 ニュージャージー州のアトランタ・ポップ・フェスティバルに出演。
/11  『コズミック・ブルースを歌う』発売。
/12 12日、マディソン・スクウェア・ガーデンでコズミック・ブルース・バンドと最期の共演。
1970/4  中旬にジャニスは、新生BB&HC(ニック・グレイヴナイツとサム・アンドリューを加えて)とのリユニオン・コンサートをフィルモア・ウェストで公演。その時の模様は『ジョプリン・イン・コンサート』に収録されている。
/6  12日、ジャニスとフル・ティルト・ブギー(以下、FTB)のデビュー・ライヴがケンタッキー州、ルイズビルのフリーダム・ホールで行われる。観客は4,000人程だったが物凄い熱狂で迎えられた。
 ジャニスは、歌の途中でステージから飛び降りて観客と踊る一幕があり、ガードマンはステージに駆け寄る観客に警棒をふりあげ、マネージャーは客席の電気を全て点けて沈静させようとしたが、かえって逆効果で観客はよりエキサイトした。
この時の模様かは定かではナイが映画『JANIS』において「心のかけら」の演奏シーンで彼女の回りに観客が群がっていた。 (その中にフレディ・マーキュリー似の男がいて彼のリアクショナンは結構笑えます。)  FTBのメンバーはKBBよりジョン・テイル(G)、ブラッド・キャンベル(B)、リチャード・ベル(Piano)、ケン・パーソン(Organ)、クラーク・ピアソン(D)の5人。
 ジャニスは自身が絶賛する最高のバンドと名声を手にして、いわゆる「大スター」の座に就いたのだが、彼女自身は”スター”である事を認めようとはしない。
 「ショーが終わってしまえば、ドレスを脱ぎ捨て、そのドレスはもうくしゃくしゃ。下着も取って、肉体だけがドレスから取り残されてしまうんだよ。髪はくしゃくしゃだし、頭痛がする。家へ帰ればひとりぼっち。ドレスは畳まれ、靴は脱ぎ捨てたまま、マネージャーにたのむ、お願いだから家に連れていって、ね、御願い。って。それはスターなんかじゃない。ただひとりの人間がすることなんだ。あたしはたったひとつの事しか出来ない。それを自慢に思うことはあるけどさ。ただ、それだけなんだよ。」
/7  初旬にジャニスとFTBは多くのミュージシャンと共にカナダのトロントからカルガリーまでツアーに出る。(共演者はザ・グレイトフル・デッド、デラニー・アンド・ボニー・アンド・フレンズ、バディ・ガイ、イアン・アンド・シルヴィア、等)そのツアーの模様は『イン・コンサート』、『白鳥の歌』、先日リマスター再発された『パール』(ボーナス・トラックの4曲)で聴くことが出来る。
/8 12日、ジャニスとFTBが最期に演奏したのは40,000人の聴衆を動員したハーヴァード・スタジアムであった。そのあとロス・アンジェルスに向かい、新しいアルバムの制作に入る。
/9  ジャニスが最期に公の場に現れたのは、彼女が卒業した故郷、ポート・アーサーにあるトーマス・ジェファーソン・ハイスクールの卒業10周年記念の会場だった。
/10/4  突然の死去。27歳だった。
 ハリウッドのランドマーク・ホテルでその夜、部屋を訪ねたロード・マネージャーのジョン・クックによって発見された。
1971/1  アルバム『パール』発表。
 何故死んだのか?それは、いつまでたってもわからないだろう。死を巡る数多くの推論は枚挙にいとまがない。



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