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作詞・作曲ともライフワークだと思ってますし、今まで音楽を続けてきた動機でもあります。

若い頃は音楽をする人は一色端だと思っていましたが、実際はプレイヤー、パフォーマー、

コンポーザー、アレンジャー等、微妙ですがはっきりとその立ち位置が分かれてるように思います。

小屋主はきっとコンポーザーであり続けたいのです。

ですから彼にとっての作品はどれもきっとカワイイものでしょう。すべてを展示したい気もしますが、

とても実現できそうにありません。ここにはほんの一部だけ、紹介をのせておきます。

どこかのライブ会場で耳にしていただければ幸いです。いつの日か、少しずつ音源になってゆくかもしれません。



あいつのバラード

「41」結成当初に書き下ろしたものです。東京時代はビジネスになるよう、曲を作っていました。
それもなかなか侭になりませんでしたが、そんな気持ちを捨てる事ができそうになった時、 さらーっと出来上がりました。
古臭くて、いい曲かどうかもわかりませんが、とても思い出になってる曲です。 2003年ラジオ番組に出た時に、
現在の原点の気がして、この曲を流してもらいました。



道 途〜みち〜

東京時代の最後の方の時期に、友人のコンポーザー「浅野佑悠輝」氏の曲に詞をつけました。
プレゼンの相手が「森 進一」さんだったので、初の演歌の詩作になりました。
当時、悩みの多い時期で、また母の死などもあり、詩作の途中で一時帰った故郷の海を見ながら
何度も何度も作り直したことを思い出します。よく仕上がった詞曲だと思うのですが、 結局未だ日の目を見ていません。
「41」で一度だけやりましたねー。もっと年老いたら、このジャンルに行かざるを得ないし、
その頃にはもっと自然に演歌詞が作れそうな気がします。誰か唄わないかなー。もったいない。



USONJO

2002年「41」結成の日にアドリブで唄ったメロディーに「イロモノ」詞をつけました。
大分には18までしか居なかったから、自身はあまり大分弁を使えません。
帰郷してから、何気に聞く大分弁が可笑しかったので、ウケ狙いで作っちゃいました。
2002年中は毎回唄ってましたので、この曲を覚えてくれた人は多いかも。なんてね。うそんじょー!



Born in the USA

タイトル、サビフレーズはスプリングスティーンの名曲からパロっちゃいました。 「USA」はお察しの如く「うさ」のことです。
2003年4月、メンバーの転勤や諸々の事情により「41+options」をとりあえず解散することに しました。活動自体、
満足していましたし、その時期に創った曲にも満足しています。
その後「41omnibus」を立ち上げましたが、ファーストライヴ後、事情により本格活動を 翌年以降に延ばしましたので、
とてもヒマをしていた2003年11月頃、大分「ねいろや」にて宇佐在住バンドイベント なるものが企画された折、仲間の
The Spirit of Radio、幸 賢二氏とのセッション「喜楽屋」のために書き下ろしました。



永別の詩

19の時、親友が事故でこの世を去ってしまいました。 葬祭場で立ち上る煙と皮肉なほど澄んだ青空が
とても印象に残っています。当時その悲しみを曲にもしましたが、やはり稚拙であった気がします。
「死別」をテーマにした曲はその後「ロード」「会いたい」等が売れましたが、 いい曲ではあるものの、
詞においての反則技のような気がしていました。 ずっと僕なりの「死別」をテーマにした曲を作りたいと思っていました。
2002年春頃の作品です。



二人のデスティニー

1991年、コンポーザーとして初めてCD採用された曲です。
元々は1988年頃に作った曲で、アルバムコンセプト上、詞を多少書き直しての発表となりました。
クレジットをペンネームにしたのも最初でしたし、やはり手にしたCDは嬉しかったです。
年月が経つと色褪せて、自分でも今更唄えない曲も多いですが、 この曲はいつか、たまには唄ってみたい気がします。



EPISODE

故郷に帰ってからの1年半ぐらいは曲も書けずにいました。このままやめてもいいかと思ってた頃に、 ふとしたきっかけで
冗談交じりに同級生と結成したのが「41」でした。 ブランクの反動からか次々と曲が出来ました。
それまで無意識に縛られていた「色気」というか「欲気」みたいなものから解放されて、 『音楽』を純粋に楽しめたからかも
しれません。良いも悪いも、「自分」に忠実な曲が出来上がっていった気がします。
この曲はアップテンポとバラードと2バージョンでやっていました。ソロでもよくやりますし、 お気に入りの曲です。
2002年春頃の作品。



ココアミルク

2003年春「41+options」の時の作品。もともとレディスヴォーカル用に書きましたが、 その後ソロや「Cherry Coke」でも
自演しています。道具は本来、人間が生きてゆく上での利便性の追求から様々なものが 開発されてきたのに、行き過ぎ
て人間そのものを脅かす存在になっている気がします。文明が進んで、 よりよい社会になるかと思えばその反動の大き
さに僕らは面食らっている気がします。見失ってはいけないものはもっと単純なことなのに。



愛しき人へ

小屋主はジャンルにこだわる気はないのです。とはいっても、好みはありますが。
世の中には無数の音楽があって、そのすべてはそれぞれにファンタスティックです。 けれどパフォーマンスとしては、どうしても
ポテンシャル的にカラーが存在するし、それは尊重するべきだとも思います。 ただそれに収まりきれない曲を作りたくなる欲求
もコンポーザーにはあります。2003年の「喜楽屋」は「41+options」という ドラムレスユニットという「くくり」をはずす試金石とな
ったと思います。そのセッション用に書き下ろしたもうひとつの曲です。 その後、ソロや「Cherry Coke」で自演しています。



Be Alive

2003年秋の「喜楽屋セッション」以降は、アコースティック限定のイメージから離れて、 アンサンブルにこだわらずに曲が
出来上がっていった気がします。2004年は2月、4月とソロにてこの曲を自演しました。 ライヴを観に来てくれた麻生氏、
ゆきちゃんと意気投合し、その後の「Cherry Coke」への進展となりました。
この曲もまた「Cherry Coke ライヴ」に外せない曲となりました。



Terrible wife

2004年夏に向けて、「Cherry Coke」は胎動を始めました。当初小屋主は立案中の他の プロジェクトもあり、また麻生氏、
立川氏、大津氏は3人で「チェリーコーク」というトリオを結成したばかりだったので、 「41 with Cherry Coke」という形で
小屋主とのコラボレーションとしてやる形を取っていました。 8月にファーストライヴが決まっていましたので、それに向け
て書き下ろしたのがこの曲です。