忍者と宗教

(山岳信仰、道教(仙道)、陰陽道、修験道、密教)

 「忍者(術)」は、プロの奇襲戦闘員・諜報員として、戦国時代までに発展、完成された。そして、宗教は、「忍者」の誕生、発展、完成の過程で、影響を与えたもの、背景にあったものと考えます。
 なお、昔の生活では、忍者に限らず、すべての人に、今とは大違いに 「宗教や呪術」 が、大きく関わっていたし、精神を支配していた と思います。

 忍者は、何か(術)をしかけるとき、「印」を結び(手指で決められた形を作り)、呪文を唱える。実際にそうしたかどうかは、別としても、それはどこから来ているのでしょうか ?

 映画 「忍びの者」の中で、忍術について、伊賀の上忍百地三太夫が述べています。

「 〜 そもそも、忍術とは、天智天皇の御世、役の行者小角を頭といただき、天台・真言の両密教の山伏どもが、仏法を広め、守るがために始めた術じゃ。我ら忍者が、印を結び、呪を唱えるは、これみな、天台・真言からの頂戴もの。この尊い仏法に弓引く信長めは、我ら忍者にとって、天魔・悪鬼にもまさる仇敵といわねばならない。」

 映画 「忍びの者」は「市川雷蔵主演」の昔のモノクロ映画で、忍者、忍術がリアルに描かれています。

1 手裏剣と仏教

忍者といえば、手裏剣 ・・・ 

(写真は、戸隠忍者村資料館にて撮影。たくさんの資料がありました。)

      棒手裏剣の原型、独鈷 。法具。

      十字手裏剣の原型、かつま。法具。

  「かつま」とは、梵語(サンスクリット語)の「カルマン(行い、行為、業)」の音写で、意味的には、「行動とか業」でしょうか。


     八方手裏剣の原型、八輪宝(法輪)

 「法輪」とは、古代インドの戦車、あるいは、輪のような武器らしい。 それが、転じて、仏の教えが悪を粉砕して、人から人へと伝わっていくことを意味する。八方手裏剣にも、そんな意味(敵を粉砕する、敵の戦意を失わせる など)を込めたのだろう。

 その後の私の研究(?)で、八方手裏剣の「八」は、仏法の「八正道」に通じることが明らかとなった。つまり、仏法の修行法である「八正道」の意をこの手裏剣に込めたのかもしれない。とすれば、たんなる武器ではなく、「仏法・正義を守るための武器」となる ・・・ 。昔の人の戦とは、現代人の考えるものとは違い、もっと神聖なものではなかったかとさえ思われます。

 手裏剣には、三方手裏剣、十方手裏剣、まんじ手裏剣など、いろいろな形のものがあるが、実在しなかったとか、実戦的でないともいわれる。忍者は、試行錯誤、いろいろな形のものを作ったのではないか。

 ところで、忍者は手裏剣をひとつしかもっていかなかったとも聞く。ひとつが、100〜200グラム位の結構な重さなので、いくつも持つと重い、ぶつかって音がする などの理由も考えられますが、忍者にとって手裏剣は「最後の起死回生の武器」だったのではないか、そうに違いない と 思うのです。宗教的法具が原型ということは、単に武器というより、宗教的意味合いも持っていると考えられ、なにかしらの不思議な力を込めたものと思います。

2 役の行者と修験道 

 「役の行者(えんのぎょうじゃ)」とは?

 奈良時代の人で、修験道の祖といわれる。大和の国(奈良県)の生まれ。役小角(えんのおずぬ)ともいう。代々山の呪術師の家に生まれる。幼い時から生駒山に登り、熊野に入って苦行を続けた。32歳の時、家を捨てて葛城山(かつらぎざん)に入り、以来三十余年の間、穴居して山を出ず、巌窟(がんくつ)の中に金銀の孔雀明王の像を安置し、呪(じゅ)を唱えて、験術(霊能力)を得たという。その後、金峰(きんぶ)、大峰、二上、高野、牛滝など近畿一帯の山に足跡をしるした。文武天皇の三年(699年)に伊豆に流罪となり、後、許されて西国(中国)へ行ったという。

 「修験道」とは?

 修験を目的とする山岳信仰。修験とは、霊験(霊力、加持力、超能力)を得るための法を山野で修行することで、その行者を「修験者、山伏」という。修験道は、日本古来の山岳宗教をもととし、中国の道教(仙道、仙人思想)の影響をうけて形成された。その後、仏教、陰陽道、などを取り入れていく。不動明王を本尊とし神・仏両道に仕え、加持祈祷を修することに重点を置き、山野に起伏して難行苦行により霊験を成じようとした。修験者は数珠を手にし、錫杖(しゃくじょう)をにぎり、観音経や阿弥陀経を誦す一方、頭髪を整え、浄衣を着用し、刀をさした。中世(室町時代)になって、当山・本山の二派ができ、前者は真言密教系で吉野山(金峰山)から大峰山にかけての地域、後者は天台密教系で、熊野山から大峰山にかけての地域がその中心地であった。 権力と癒着し、堕落していく聖職者に比べ、世俗を離れ、山で厳しい修行をする僧は、尊敬され、また、畏れられもした。 明治維新以降、政策により、各地の神道、仏教に吸収されたが、これに反発し、終戦後独立した派もある。

参考 「日本陰陽道史話」 村山修一著 平凡社 。
この本では、「山伏とは、法師陰陽師である」 との見地であり、下は、その引用です。

 修験者の方術・奇術について

 「 〜 さて南北朝に入りますと、金峯・大峯・能野一帯は南朝政権が立て籠ったところで、北朝との間にしばしば山岳戦が繰り返され、そのため修験者もこれに動員され、劣勢な南朝側に立って活躍しました。彼らが得意とした遁甲・方術は兵法に威力を発揮し、各種の呪術を用いてゲリラ戦を展開しました。〜」

古武道や昨今のk−1などの格闘技には、山伏兵法の血が流れているではないかとTVを観ながら思ったりします。

3 密教(秘密仏教)とは? 

 5世紀ころのインドでは、仏教を広めるとき、土着の民間宗教(バラモン教)と対抗した。そのため、方便(手段)として、それらの宗教のもつ呪術的要素を取り入れた。しかし、呪術化したインドの仏教は、13世紀には、ヒンズー教などに吸収され、ほとんどなくなってしまった。代表的な密教経典の大日経や金剛頂経は、釈迦の説法に、インドの呪術的要素を取り入れられたもので、遅くとも7世紀までに、完成されたようだ。 ・・・大乗仏教典は、釈迦滅後700年(2世紀)以降に成立。

 密教とは、仏教に各地の呪術(複雑な儀式、いろんな願望をかなえる術・まじない)を取り入れたものですが、釈迦自身は、呪術を否定していました。釈迦の説法とバラモン教とは、徹底的に対立していたのです。後、空海は中国より、密教を輸入し、密教は日本で大ブレークしましたが、その理由は、「日本はもともと呪術の大好きな風土であり、空海の持ち込んだ密教は、日本人が待ち望んでいた最高の法術だった」 というのが私の考えです。 日本人の宗教観の根底は、「宗教=呪術」 であります。 一方、高等宗教とは、人はいかに生きるべきかを示す教範です。

 密教の特徴

1 呪術的儀礼
仏像の前で護摩を燃やして陀羅尼を誦す。さまざまな願望に応じた種々の祈祷法や印の結び方などがある。

 2 象徴的神秘主義
手に印を結び、口で呪文を唱え、心が三昧(ざんまい)に住することで、身口意の三業(からだ、口、心の三つの行い)において行者と仏とが一体になれるとする。神・仏など超越的絶対者と自身が一体化したとする「合一体験」を重視する。
  三昧(ざんまい)とは、梵語サマーディの音写で、解脱や悟りをひらく精神統一の方法のひとつ。あるいは、悟りに到達した精神状態。静寂、清浄な精神状態をいう。

 3 民間信仰との融合
祈祷で用いられる金剛杵は、インドの「リグ・ヴェーダ」・・・中央アジアから移住したアーリア人の信仰・・・に登場する雷神インドラが持つ武器に由来。また、呪文(真言といい、バラモン僧侶の言葉)、護摩(ホーマー)などの行法もインド一般の風習にもとづくものとされる。護摩法は火の中に芥子(けし)や食物を投ずるが、これは、バラモン教の焼供の作法に由来し、「
火の神アグニ」を通じて食物を供養するとのことです。「真言」とは、釈迦の言葉ではなく、バラモン僧の言葉が本来なのだ・・・!    バラモン僧は、釈迦を憎み、殺そうとさえしたようだ。

4 呪術と宗教 の違い 

 呪術:  超自然的存在(神・精霊 など)の力を直接的に操作して、ある目的を達成しようとする行為(まじない)。

          白呪術:雨乞いのように人や社会のためになる呪術

          黒呪術:人や社会に災いをもたらす呪術

 宗教:  超自然的存在への信仰、懇願、服従などにより、間接的に、目的を達成しようとする行為(いのり) 。

とはいえ、呪術と宗教は混在している場合が多く、境界がはっきりしない とのことです。

5 陰陽道 について

 古代中国の、木火土金水の五行と時刻や方角の十二支をもとに陰の気・陽の気を組み合わせて、森羅万象を説明する学問理論で、「易経」を基とする。日本には、6世紀頃、仏教とともに、僧らによって移入される。律令体制のもと、陰陽寮がもうけられ、陰陽師は官人(役人)として組み入れられる。陰陽寮には、天文博士(天変の原因と意味、予見をする)と暦博士(太陽太陰暦の作成)がおかれる。太陽太陰暦では、一年が、346日になったり、うるう年には380日になったりした。
 日本の陰陽道では、だんだんと呪術が強調されていく。仏教と同じく呪術・護国祈祷の役割を荷う。陰陽師は、平安時代は、藤原氏に重用され、賀茂(暦博士)、安部(天文博士)両家に世襲される。10世紀ごろ活躍した安部清明は鬼神と交流する呪力をもったといわれ、畏敬された。今日、安部清明を祭る神社があるし、少し前には、劇画や映画になった 。

 鎌倉幕府は政治、祭礼の全般にわたり、陰陽師(安部氏)の意見を尊重した。幕府の記録文書「吾妻鏡」には、陰陽師についての記述が多い。権力者の葬儀には僧よりも陰陽師のほうが密接に関わっていた。

 甲賀忍者の伴家の祖先は、陰陽師であった と忍者関連の本にあった。だから、忍者は星の動きをよく知っていたのだ

 陰陽師は、室町、江戸時代も重用されたが、明治維新以後、修験道が仏教に吸収されたのと同じように、政策により、神道各派に吸収された。また、それまでの太陽太陰暦は、欧米にならって太陽暦に代わった。

 聖徳大使の「17条の憲法」は、仏教の精神を基ととして成立していると思われているが、第一条の「和をもって尊しとなす」や、17という数は、陰陽道から来ているとのことです。日本の文化の基には、陰陽道の影響がかなりあるようです。朝廷、天皇家の儀式の中には、濃く残っている・・・ようです?

まとめ

 呪文を唱え、印を結ぶ、また、手裏剣の原型をたどれば、修験者は忍者に大きな影響を与えたといえる。修験道は、道教や陰陽道、密教などを取り入れているが、原点は日本古来の山岳宗教(山にたいする畏敬の念)のようだ。同様に忍者の忍術や武術は、さまざまな要素を取り入れているが、日本で生まれ、発展した独自の奇襲戦闘技術といえそうだ。

 ところで、忍者屋敷には、「キリシタン屋敷説」がある。忍者は、西洋の鉄砲、火薬などの知識を得るため、キリシタンになりすまし、宣教師に近づいた。が、なぜかそのまま、キリシタンになったものもいたそうだ。闇の中、草の陰にひそかに忍ぶ忍者の中に、仮にも、洗礼を受けた「キリシタン」がいたかもしれない。

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