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大乗仏教、密教、念仏 などについて 私が思うところ

 

そのときどきに、思いついたように、書いていますので、散らかった内容になっているかと思います。ご容赦ください(2016年7月)。


 信仰は、祈りから生まれたのだろうか。祈りとは、「宇宙へのメッセージ」という人もいる。果てしなき宇宙に向かって、自分の思いを伝え、その返事を待つ。あるいは、自分(内なる宇宙)と外の宇宙とを交流させる行為なのか。

 たとえ無宗教だという人も、祈るという行為はするのではないだろうか。「苦境を脱したい」 「よりよく生きたい」 「家族を守りたい」 などと強く望むとき、その思いは、祈りとなるのではないか。

 この願い・祈りを出発点とし、悩む人を救済するために、展開されてきたのが、宗教(信仰) なのか。

 ところで、宗教(信仰)における、 信じる とは、どういう行為なのだろうか。 ・・・ 信じるとは、生きていくにおいて、この教えなりを根本にしていく という 強い確信が、自身の中に確立されることであろう。 そのためには、心の在り方だけでなく、現実に幸福になっていくという証拠(結果)が、必要なのではないだろうか。

 はたして、宗教(信仰)によって、現実の生活に、はっきりとした違いが現れるのだろうか。

 キリスト教の人、イスラム教の人、仏教の人、日本では、禅宗の人、念仏宗の人、日蓮宗の人、創価学会の人、 などなど、なんとなく、違いが感じられます。

 宗教は、それぞれ違うので、その違うものを根本とすれば、その違いは、その人の生活のうえに現れるのはと当然でしょう。

 ともあれ、信仰は、潜在意識(無意識界)に深く関わり、、潜在意識は、その人の行動・生活の基礎になっている という点で、とても深いものがある。
 

 ところで、釈迦滅後700年位たって、般若経、華厳経、法華経、阿弥陀経などがぞくぞくと成立していくのだが、  いったい、 誰が作ったのか、釈迦の直接の説法と、どういう関係になるのか など、いろいろ疑問が湧いてくる。


  私の感想(結論)は、「大乗仏教典とは、釈迦の説法を下敷きとして、後世の学僧らが、その熱烈な信仰心をもって、布教の手段(方便)として、当時の、いろいろな宗教を取り込み、発展させたもの。

 あるいは、仏教以外の宗教家が仏教に帰依したとき、以前の自分のやっていた宗教と仏教を融合させ、新しい宗教(仏教)を作った。

 大乗仏教の誕生は、釈迦の仏教を下敷きとしながらも、革新的な仏教、一般大衆に受け入れられるための、仏教の第2ステージ」だと思う。

 宗教は、その時代の悩んでいる人を救済していくものなので、その語り口、布教の仕方は、時代に応じて、変化するもの、変化して当然のものだ と思う。時代に合わない古い説教をされても、受け入れられないだろう。

 大乗仏教のブレイクは、その時代の民衆の求めるものと、宗教側の発露とが一致したことで起こったという点は、20世紀のビートルズ革命と似ていると思う。

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 その昔、仏教では、布教するとき、そこの人々が信仰している宗教を否定せずに、仏教の中に取り込んだ。たとえば、彼らが信仰している神を菩薩として取り込む などの方法(方便)がある。
 たとえば、他力本願という思想(阿弥陀仏の力によって、死後に浄土に生まれることができる)は、元々の仏教にはない思想で、これは、イラン系のゾロアスター教の一派を信仰する人々に、仏教を布教するときに、その神(ミイロ)を阿弥陀仏に昇格させて、仏教にとりこんだのだ と 私は推測している(参考は、平凡社の世界宗教大辞典の阿弥陀仏の項)。
 阿弥陀仏が仏になる前の修行中の時代を法蔵菩薩というが、法蔵菩薩とは、ミイロということになる。

 このミイロに48の誓願をたてさせたうえで、仏に昇格させ、仏教にとりこんだ ということになる。この仮説を立てると、仏典に書いてあることが、おとぎ話ではなく、現実味をもって、迫ってくる。

 もちろん、日本の念仏宗が、阿弥陀仏の前身である、法蔵比丘(菩薩)が、仏教外のミイロというゾロアスター教系の神であったとは、認めないだろうし、無視するでしょう。ですが、他力本願という思想が、元々の仏教にはなく、外から持ち込まれたものであろうことからも、阿弥陀仏は、仏教の外から入ってきた というのは確かだろう。

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  ところで、 現代は、科学 が宗教にとってかわっている と思う。科学は宗教ではないが、人間の夢をかなえてくれ、現実的に利益を与えてくれる。我々は、「科学的である」という言葉を聞くと、漠然と、「それは、正しく、間違いがない」という意味に受けとるが、これは 「信じられる」 ということに通じる。

 ただし、科学は常に、自身の限界を知っていて、無限にその領域を広げていこう、発展していこうとしている。

 科学は宗教ではなく、学問を基礎とした、技術なのだが、「信じられる」という点では、かなり高いレベルにある。別の面から見れば、人は、無意識にせよ、信じられるもの(つまり、我が心の在り方や行動の根本になるもの)が必要なのだ と思う。

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 ところが、以降、大乗仏教は、解説的、哲学的になっていって、民衆は魅力を感じなくなっていく。民衆は、分からない難しい話より、はっきりとした現世利益、現実的な生活上の幸福を求めたのだと思う。

 そこで、当時、普通に信仰されていた呪術を仏教に取り入れた 密教が登場してくる。つまり、当時、インドで普及していた呪術宗教と 仏教とが、融合したのだ。

 呪術とは、儀式やまじないによって、神などを動かし、要求をかなえようとする行為になる。

  7世紀に密教の経典「大日経と金剛頂経」が成立するが、これの元をたどれば、バラモン教典になるらしい(参考:平凡社の世界宗教大辞典)。真言宗というのがあるが、真言のもともとの意味は、バラモン僧による、宗教的に発せられた言葉を意味しており、当時、バラモン僧の言葉は、神の言葉よりも重要とされたそうだ。

 たとえば、日本の密教には、「護摩をたく」という儀式があるが、ゴマって、なんだろう、食べる胡麻ではなさそうだ? これの元は、バラモン教(ヒンズー教)の「ホーマー」という儀式になるらしい。火の中に食べ物を投じて、神に供養する焼供(しょうぐ)という儀式になる。つまり、ホーマーが護摩(ごま)の元になっている。日本の密教のひとつの儀式の元をたどれば、インドのヒンズー教の前身のバラモン教になるというのは、どういうもんだろうか。バラモン教は、釈迦在世当時、仏教と激しく対立し、釈迦を無き者にしようとまでした。釈迦は呪術を動物的行為だとして否定し、バラモン不要を説いたから。

  さて、密教となったインドの仏教は、ヒンヅー教との差異がなくなり、13世紀には、吸収されて、なくなってしまった。布教のために呪術を取り入れた仏教だったが、その呪術によって滅ぼされたといえるのではないか。

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 感想・・・宗教とは、固定的なものではない。宗教は、その時代の民衆の多様な要求に応え、民衆を救済するために、布教の方法や形などを変化させていく。
  ただし、信仰の対象とするもの(信仰の中心)は、不変であろう。信仰の中心が別のものになれば、それは、別の宗教の誕生になる。

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 釈迦は、現実の生活にそくして、誰もが納得できるように、いろいろ説いたが、根本の「法」については、具体的には説かなかった。たぶん、法とは、宇宙の生命・根源の力 のことであろうと思う。

 太陽のような恒星が寿命を終えるとき、超新星爆発を起こし、その爆発からできた かけらやガスが新しい星の元になっていくそうだ。漠然と、大きなエネルギーが背景に存在することを感じるが、これが宇宙の根源の力なのでしょうね。

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 そのときどきに、思いついたように、書いていますので、散らかった内容になっているかと思います。ご容赦ください。

2016年7月
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