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Tokyo, 2003.6.22
text by Yoshiyuki Suzuki
interpretation by Stanley George Bodman
translation by Ryo Uchida
photo by Shigeo Kikuchi

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 BBQ CHICKENSやMAD3、eastern youthの二宮友和とfOULの谷口健によるユニット=THE SPINSTERSなど、豪華かつ通好みなメンツが参加したROCKET FROM THE CRYPT(以下RFTC)のトリビュート・アルバム『A CASE OF RFTC JUNKIES』発売記念イヴェントのために単身来日したスピードーことジョン・レイスへのロング・インタビューである。
 サンディエゴのインディー・シーンは、合衆国の他の地方都市に比べて地味な印象もあるが、実は密かに大きな影響力を持っている。その筆頭に立つ存在がRFTCであり、それを象徴しているのが、日本で作成された先述のトリビュート盤なのだ。今回、初めて対面でインタビューして、その人柄に生で触れる機会を持ち、あらためてジョン・レイスという男の人徳が、そうした事象全ての根源にあるのだと再確認した。RFTCだけでなく、様々なプロジェクトを展開中の彼が今後ますます活躍していってくれることを心から期待している。
※最終ページの写真は、イヴェント当日一夜限りのスペシャル・セッション・バンド(ジョンに加え、SPIRAL CHORDのHIRAOとGENDO、元NUMBER GIRLの中尾憲太郎、NAHTのSEIKI)。


「俺たちは人生を祝福するためにステージに上がっているんだ」

まず最初に、あなたが音楽を始めたきっかけを教えてください。

John:子供の頃、ジョニー・カーソンの『トゥナイト・ショー』(※アメリカの有名な深夜トークショー)でトランペットを吹いていたDoc Severinsenに憧れていたんだ。『トゥナイト・ショー』って深夜11:30からだったんだけど、親には早く寝かされてたんで、いつもみんなが寝静まってから一人でテレビをつけて、Docがトランペットを演奏するのを観てたんだよ。だから、ある意味、彼こそ俺にとって自由の象徴だったのかもしれないな。本当はダメなのを押し切って観てたテレビの人だったわけだから(笑)。まあ、そんなわけで、俺にとって最初の楽器となったのはトランペットになった。で、これがまたヘタクソで(笑)、1年で諦めちゃったんだ。小学5年生の時の話なんだけどね。その後には1年間ピアノに挑戦したんだけど、それもなかなか上手くいかなくて。どうしても自分で音楽を作れなかったんだ。で、ロックンロールは子供の頃から好きだったんだけど、まだ自分ができるものだとはとても考えられなかったんだよね。他の人が演奏しているのを楽しむもんで、自分がやるもんだとは思えなかったんだ。演奏はプロに任せてろっていう感じでさ。だけど小学校6年生の時にパンク・ロックを発見して、初めて「これならできる」って思ったんだ。

最初のパンク体験はどんなものだったのですか?

John:友達の兄貴に教えてもらって、ブラック・フラッグ、デッド・ケネディーズ、セックス・ピストルズの3つのバンドをいっぺんにカセットで聴いたんだ。今でもハッキリと憶えているけど、最初に聴かせてもらったのはセックス・ピストルズで、これは正直あまり気に入らなかった。確かにハードだったけど、わりと普通のロックンロールに思えてね。だけど次に聴いたブラック・フラッグは、マジで狂ってる人間にしか作れない音楽だってブッ飛んだよ。まったく理性がない感じで、それがマジで怖かったんだ。初めて聴いた時は「これはヤバイ!」ってマジでビビったもんな。でも普通なら、それに怖気ついちゃって距離を置くところなのに、逆にすごく惹きつけられちゃってさ。「これはいったい何なんだろう?」「こいつらは何者だ?」「何でヴォーカルのやつは狂ったように歌ってるんだ?」っていうような疑問が浮かんでね。その頃は、そんな音楽が可能だとは思いもしてなかったからさ。最後に聴いたデッド・ケネディーズもそうで、「どうやったらこんなに早く演奏できるんだ?」っていう疑問ばっかりで。しかも当時の自分には理解できない政治的な要素もあったし。だから、そういうことを全て理解しようと、そのカセット・テープがブッ壊れてしまうほど何回も何回も聴き込んだよ。それでも聴き足りなくて、レコードを買いに言ったのを今でも憶えてる。で、それこそがギターをやるキッカケになったんだ。ギターをやるっていうより、むしろギターに取り憑かれた感じになっちゃって。ギターを弾くこと以外は頭になくなっちゃったほどだよ。あと、そのためにバンドもやりたくなったし。最初から「ギターを買ってバンドを組む」っていうのは俺の中ではセットになってたんだ。

なるほど。あなたはサンディエゴで育ったわけですけど、地元の環境は自分にどんな影響を与えたと思いますか?

John:変な話だけど、そういうのって計れるものじゃないんだよね。もっと根深い影響っていうか、具体的にわかるもんじゃないんだ。影響されたことは間違いないんだけど、「サンディエゴでバンドを始めたからこういう音になった」とかそういう単純なことじゃないんだよ。わかりにくいかもしれないけど、アメリカで旅をすると、俺の喋り方や服装、または歩き方から俺が南カリフォルニア出身だってことを見抜く人がいる。ちょっとレイドバックして落ち着いた態度に土地柄が出てるみたいでね。そういうのが自分の性格に影響しているのは間違いないし、だから自分の音楽にそれが反映されているのもわかる。サンディエゴって街はちょっとしたコンプレックスを抱えているんだ。というのも、大都市なんだけど、世間にはあまり認識されてない嫌いがあるからさ。だから「自分たちらしいカルチャーを築かなくちゃいけない」っていう使命感をみんなが感じてるってのはあると思う。自分たちにしか作れない最高のシーンを作るっていうか。で、実際に一時期はすごく盛り上がってたんだよね。別に今は廃れちゃったってわけじゃないんだけど、一時期は全米で最も活発なシーンって言っても過言じゃないぐらい盛り上がってたんだ。3年間ぐらいそんな感じだった。素晴らしいバンドが大勢いて、ライヴハウスに行ったら必ず凄いバンドに出くわす感じで。しかも、色んなバンドを掛け持ちするミュージシャンが多くて、みんな入り乱れてる感じで、とにかく自発的なエネルギーに漲っているシーンだったんだ。

なるほど。「自分たちらしいカルチャー」という話に関連すると思いますが、あなたは自分で音楽をやり始めた当初から、パンクにもっと往年のロックンロールの要素を組み合わせたいと考えていたんでしょうか?

John:う〜ん、別にそれは意識的にやろうとしたわけじゃないよ。色んな要素を取り入れなきゃいけないっていうルールがあったわけじゃなくて、みんな色んなスタイルの音楽を聴いていて、そこから生まれるものが俺たちの音楽ってことなんだ。RFTCのメンバーはみんなリスナーとしてもすごく音楽に精通しているやつらばっかりで、だから他のバンドに比べると、もしかしたら影響されている音楽の範囲も広いのかもしれない。なにしろ音楽を聴き込むってことは、一種のジャンキーになっちゃうってことだからね。もう中毒なんで、常に新しい音楽に対して貪欲だし。で、自分にとって新しい音楽は必ずしも最新のサウンドではなく、はるかに古い音楽だったりするんだよね。だから、このバンドは「音楽消費者集団」って感じで、とにかくあらゆる音楽を食い尽くして、それを自分たちなりに消化してる感じなんだ。

なるほどね。さて、あなたが初めて組んだバンドはピッチフォークですよね。

John:そうピッチフォークだよ。ちゃんとアルバムをリリースして、ツアーとかしたのはピッチフォークが初めてになるね。

ピッチフォークはどんな風に結成されたんですか?

John:パンク・シーンを通して他のメンバーに出会ったんだけど、とにかく当時のサンディエゴで活動していた他のバンドとは全く違うことに挑戦してみたかったんだ。俺たちはみんなパンク・ロックを聴いて育ったキッズだったんだけど、もっと作り込まれた複雑な音楽をやりたかったんだよね。特定のスタイルを貫くつもりはなかったんだよ。とはいえ、あの頃のアルバムを聴き返すと、確かに特定のスタイルへの拘りが感じられるんだけど、当時は「なんでもあり」だと自分たちでも信じてやってたんだ。

当時のサンディエゴには他にどういうバンドがいたんでしょうか?

John:あの頃のパンク・シーンはとにかく最低だった。いいバンドは幾つかいたんだけど……例えばバタリオン・セインツっていうバンドはすごく好きだったし、かなり影響された。でも、あのバンドが解散してからシーンには面白いバンドはほとんど残ってなかったんだ。あと、シーンもすごく暴力的になっちゃってね。だから、自分たちのサウンドも典型的なパンクとは掛け離れたものにしようとしたんだよ。サンディエゴのパンク・シーンがあまり好きじゃなかったからね。だからパンクじゃなくて、例えばレゲエのバンドとやったり、サイケ・バンドとやったりして、とにかく楽しむことを念頭に置いて活動してた。そんなわけでピッチフォークはサンディエゴでは孤独な存在だったんだよ。まるでアウトサイダーだったな。で、他の町でやると、なぜかいつもストレート・エッジのバンドと一緒にやることになっちゃってさ。だから、みんな腕を組んで、ぽか〜んって俺たちのことを見てるって感じだったよ。どう解釈したらいいかわからなかったんだよね。友達がリーズン・トゥ・ビリーヴやらインサイド・アウトやらジャスティス・リーグやら、そういう南カリフォルニアのストレート・エッジ・バンドをやってる連中ばっかりだったんで、どうしてもそういう連中とブッキングされちゃってたんだ(笑)。

かなり不思議な光景だったんでしょうね。

John:うん、すごく奇妙な体験だったよ。まあ、自分たちはストレート・エッジじゃなかったし、酒やドラッグもやってたけど、それでもまだ「自称」ストレート・エッジ・バンドなんかよりマイナー・スレットに通じるところがあったと思うよ。だって、ヘッドの尖ったギターを使って、メタルっぽいサウンドをやっている、角刈りの連中に「俺たちはストレート・エッジだ」って言われても、それは違うもんな。あの連中にとって、それはただのユニフォームでしかなかったんだよ。どっちかっていうと俺たちのほうがストレート・エッジの思想を貫いてるような感じだったな。

わかります。あなたはサンディエゴ・シーンの活性にすごく貢献しているわけですが、シーンを築いてきたという実感はありますか?

John:うーん、確かに貢献した一人であるとは思うけど……サンディエゴのシーンって未だにすごくアンダーグラウンドなんだよね。そのシーンをちょっとは知ってもらえるようになったのは、自分たちを含むあの頃のバンドたちのおかげじゃないかっていう自負はあるよ。だからって自分がサンディエゴ出身だってことに誇りを持ってるわけじゃないんだ。別に俺は何もしてなくて、たまたま自分の親が住んでいたから、あそこで生まれたってことだけなんだからさ。だけど、やっぱり好きなんだよね、サンディエゴは。もう別にそこに住む必要はないんだけど、あえて居残ってるんだし。ただ、さっきも言ったように、どうしてもサンディエゴの人間はコンプレックスがあるんで、そういう人たちが劣等感を感じないためにも、自分たちがサンディエゴ出身のバンドだってことは積極的にみんなに知らせようとしている。そうやってサンディエゴの旗持ちにならないと、いつまで経っても誰にも認識されない街のままだからね。

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