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グルセラ代表北田の連載「東欧ロック」
 

 
Last Updated : 1999/9/7

このページはグループセラピー・ゲストボード(BBS)に現在連載中のグルセラ代表北田裕幸氏による連載「東欧ロック」の中から本文のみを若干整形して再掲したものです。 記事はこれからも随時追加していきますのでお楽しみに。 また個別の質問に対する応答等は省略している場合もありますのでより詳しい情報をご覧になりたい方はゲストボードの過去ログを参照して下さい。 尚、御意見、御感想、御質問等はゲストボードにお寄せください。お待ちしています。



はまった訳へのイントロ  投稿日:05月19日(水)02時23分16秒


これから数回に分けてソ連・東欧にはまった行った経緯を暴露させて頂きます。
もしこれを1回で書けば、この1ページには表示しきれないでしょうから、連載させて頂
きます。第1回はずばり「何がきっかけだったか」です。

1980年に"Radio Moscow World Service"(「モスクワ放送」の全世界向け英語短波放送)
でソ連・東欧のジャズ・フュージョン、ロックを偶然聴いてしまったことが(さらには
B.B.Kingのモスクワ公演後のモスクワ放送アナウンサーとのインタヴューを聴いたのも)
全ての始まりでした。
ポーランドのSBBを初めて聴いたのもRadio Moscowです。
これがきっかけで私の共産圏への概念は180度変わりました。
この後どのような経緯を辿ったかは次回に。



はまった訳イントロ2  投稿日:05月20日(木)14時16分59秒


当時の私は在宅時には英語短波放送を良く聞いていました。ある日、何気なくチューナー
をまわしていると、ジャズ・フュージョン調の曲やロックが流れていたので、そのままし
ばらく聴いていたのですが、なんとアナウンサーが"You are tuned to Radio Moscow 
World Service"と言ったのです。
はっきり言ってたまげました。「ソ連ではロックは禁止されている」というのが当時の一
般的認識でしたから。
それからその周波数をチェックし、色々な番組を定期的に聴き始めました。中でも"Jazz 
Show"という番組が楽しく(これはVOAの"Jazz Hour"をもろ意識したような番組でしたが)、
ついにはリクエストを出すようになり、2〜3年の間に50回ほどは私の名前とリクエス
トが流れました。当時のテープはほとんど残していますし、いくらかはDATに落としてあ
ります。
私はまずラジオを通して、ソ連・東欧のバンドを聴き始めたのです。
残念なことにモスクワ放送の日本語放送は、これらのすばらしい(先入観を覆すような)
音楽は全くかけませんでした。もし日本語放送でもオン・エアしていたらもっと知名度が
でたかもしれません。



連載3−ZODIAC  投稿日:05月22日(土)01時26分43秒


前回の終わりに日本語放送について触れましたが、80年ー81年にかけて日本語放送が強
力にプッシュしたバンドにZODIACというバンド(ラトヴィア出身)があります。当時ワ
ールドサーヴィスでもほぼ毎日のようにかかっていましたが、音楽はフランスの「スペ
ース」、日本の「YMO」のような「当時のテクノ」です。
海外短波放送のリスナーの多くは中・高校生で、彼らに対し「ソ連のYMO」「ソ連初のロ
ックバンド」(この表現は本当は正しくありませんが)として強力にプッシュされ、つ
いには「新世界レコード社」(ソ連国営レーベル「メローディア」の総輸入元)によっ
て大量輸入されました。
また私はNHKでこのバンドのヴィデオクリップを観ました。
ZODIACの例を挙げましたが、80年はソ連にとってロックの1つのターニング・ポイント
になった年なのです。

次回は「ソヴィエト80」、そしてその次はいよいよどのようにして私がレコードを入
手するようになったかについて述べます。



連載:ソヴィエト80  投稿日:05月27日(木)22時41分57秒


79年のアフガニスタン侵攻によって世界一の「悪役」になったソ連ですが、その汚名
を晴らすべく80年のオリンピックの成功にたいへんな熱意を注いでいました。
結果的に西側諸国は殆どがボイコットする結果になったのですが、世界各地からの観光
客を意識し、文化・芸術の面でも決して劣らない国である事を示したかったのです。
また西側のロックバンドを闇市で手に入れ、社会批判的な歌詞に耳を傾けるくらいなら、
自国の「健全な」バンドを若者に聴かせておく方がよいという判断もあったと思われま
す。
こうして80年になってソ連国営レーベルはいくらかのバンドをデビューさせました。
もちろんこれらは政府公認のバンドであり、それ以外に無数の「非公認」バンドも存在
していましたが、それらの実態は分かりかねます。当時の「非公認」バンドで現在もっ
とも有名なのは「アクワリューム(アクエリアム)」でしょう。

長くなったので、次回は「ソヴィエト80、Chapter2」としていくらかのバンドを紹介
したいと思います。



連載:ソヴィエト80−Chapter 2  投稿日:06月06日(日)19時48分31秒


1980年4月、グルジア共和国の首都トビリシで "Spring Time Rhythms Pop Festival"
と名づけられた大々的なポップ、ロックフェスティヴァルが行われました。これはもち
ろん政府公認でコムソモールと文化省の協力のもとに行われたものです。
一部の研究家には、こうした「公認もの」に興味を示さない人もいますが、政府がこう
した催しを認めざるを得ないほどに社会状況が変化してきた事は重要な事実と捉えるべ
きだと思います。以下にこのフェスティヴァルに参加した主なバンドを列挙します。
(私の記憶では26バンド参加した筈です。おそらく日本のヤマハの大会のように、ソ連
各地で勝ち抜き戦でもやったんでしょう。)
*「アフトーグラフ」(AUTOGRAPH−モスクワのシンフォニック・ハード・プログレ)
*「マシナ・ブレメニ」(TIME MACHINE-モスクワのポップ・ロック。有名。)
*「ラビリンス」(LABYRINTH−グルジアのジャズ・ロック!カッコイイです!)
*「グネシュ」(GUNESH−トルクメンのジャズ・ロック!これもいい!)
*「グループ75」(GRUPA75−グルジア) 
*「マグネティック・バンド」(MAGNETIC BAND-エストニア)

これらのバンドをフィーチュアした2枚組"TBILISI 80"が後に発売されましたが、ライヴ
を収めた物ではありません。
長くなったので、予定を変更して、もうしばらく「ソヴィエト80」を続けます。
その後、レコードを入手するようになった経緯や、他の東欧について触れていきます。
なお上のグループを聞いてみたい人は、直接メールを下さい。
なお以前「グネシュ」をカザフと書いた気がしますが、トルクメンです。



連載:SOVIET80−Chapter3  投稿日:06月12日(土)00時44分09秒


旧ソ連のバンドの詳細やCD事情等は後日述べる事として、80年のソヴィエトのシーンに
ついて続けさせて頂きます。

80年のソ連のポピュラー音楽シーンには非常に熱いものがありました。春にはホレス・
シルヴァー・クインテットのモスクワ公演も行われ、6月に開かれた「第7回モスクワ・
ジャズ・フェスティヴァル」にはビッグバンド、ストレートな4ビートバンドからフュ
ージョンバンドまで多数参加し、私はこのライヴをRadio Moscow World Serviceで
聴いた事により、以後Allegroというバンドの虜になってしまいました。
そしてソ連が威信をかけたオリンピックがついに7月に幕を開けるわけですが、その開
会式のオープニング曲はソ連でもっとも有名なシンセ奏者、作曲家である Eduard 
Artemiev(エドゥアルド・アルテミエフ)の手による壮大なシンフォニック・ロック
でした。Artemievは「惑星ソラリス」「ストーカー」等のタルコフスキー作品の音楽
監督としても有名であり、当時「モスクワ実験音楽スタジオ」の主宰でもあり、さらに
はシンフォニック・ロック・ユニット、"Boomerang"を率いてすばらしいアルバムを製
作しています。このオリンピック用の作品は後に"Ode to the Bearer of Good News"
というアルバムにまとめられました。
ちなみに、現在、息子のアルテミィ・アルテミエフが何枚かCDを出しています。
さらにオリンピック開催中の文化プログラムでは、Arsenal(アルセーナル)、
Vyacheslav Ganelin Trio(ヴャチェスラフ・ガニェリン・トリオ)等、ソ連を代表
するバンドが西側プレスの前で演奏しました。
西側諸国がボイコットする中で、オリンピックそのものには盛上りに欠けたかもしれま
せんが、「ソ連にろくなジャズやロックなどない」と思っていた人は、おそらく度肝を
抜かれたに違いありません。(ちょっと大袈裟かな?)
オリンピックの開催、それに伴う大衆音楽の開放という点で、80年はソ連にとってエ
ポック・メイキングな年であったと私は考えています。
次回は「LP入手の経緯」について述べたいと思います。



連載 レコード入手への道程 Chapter1  投稿日:06月18日(金)23時22分42秒


80年からモスクワ放送の英語放送の常連となった私ですが、ラジオで聞いてエアチェッ
クするだけでなく、当然レコードが欲しくてたまらなくなるわけです。当時何が何でも
手に入れたかったのはソ連のARSENAL,ALLEGRO,EDUARD ARTEMIEV,ポーランドのSBBの
アルバム"WELCOME"です。
私は既に、モスクワ放送英語セクションのスタッフの間では常連になっていたので、リ
クエストの手紙だけでなく、「どうやったらLPが買えるか、このバンドは何枚出してい
るか」等の問い合わせも書きました。その返事は「日本では新世界レコード社がソ連の
レコードの輸入元である」、「モスクワの○○という所に問合わせてみろ」といったも
のでした。後で分かったのですが、モスクワのコンタクトは、ソ連の書籍・レコードの
輸出公社で、個人売りなどしてくれない所でした。
SBBに関しては、ポーランド大使館内のポーランド政府観光局に「SBBというバンドを知
りませんか、またポーランドのレコードを手に入れる方法はありませんか」という手紙
を出しました。さすがに「当方ではSBBまでは分かりません」という返事が来ましたが、
よくこんな問い合わせに返事を書いてくれたものだと思います。後で分かったのですが、
"WELCOME"は西ドイツとポーランドの共同製作版でドイツ盤を探す手があったのです。
このドイツ盤は後に大量に出回りました。
さて、以前述べたように、ZODIACというバンドが日本でも輸入される事になったので
私はついに、エアチェックしたテープを10本ほど持って、東京は神田の「新世界レコー
ド」
に乗り込む事になったのです。



連載 レコード入手への道程2  投稿日:07月02日(金)21時42分30秒


エアチェックしたテープを10本ほど持って「新世界レコード」を訪れたのは81年の
秋だったと思います(ちょっと記憶が薄れてますが)。アポなどとらずにいきなり行っ
たのですが、親切に応対してくれたのは当時の店員のT氏でした。「ゾディアックが入
ってるらしいですけど、他のバンドは入らないのですか?ぜひテープを聴いてください」
という話から始めました。もちろん「ZODIAC」以外のジャズ、ロックのLPはな
かった(アーラ・プガチョワなどのポップスはありました)のですが、テープを聴いた
T氏は「英語放送ではこんなのがかかってるんですか」と大変驚かれました。
T氏との話でわかったのですが、ソ連のLP、カセット(書籍も)の輸出はすべて国営
公社が行っており、「輸出用」のカタログが送られてきて、そこからソ連へオーダーす
るというシステムだったのです。ですから、輸出用カタログに載せられていないものは
手に入らないとのことでした。また、販売価格もソ連が指定し、最低50枚という決ま
りがあるとのことでした。
私がほしいアルバムがカタログに載っているかを彼は調べてくれ、ARSENALを見つける
事ができました。とりあえず、過去のカタログを調べてみて、「載っていれば1度考え
てみましょう」といことで話しはまとまりました。これが縁でT氏と連絡を取り合うこ
とになりました。しかし、LPは「新世界レコード」が入荷するよりも早く、別の方法
で、この数ヶ月後に私のもとに届くことになりました。それは書店で「スイングジャー
ナル」を立読みしたことに始まるのでした。



連載−特別編1 「ウズベキスタンとのやりとり」  投稿日:07月08日(木)01時17分30秒


今回は今までの連載を離れて、現在の私のコンタクトであるウズベキスタンのヴィタリ
・メンシコフ氏とのやり取りについて書きたいと思います。

彼はタシュケントのミュージシャンであり、プログレッシヴミュージックの評論家でも
あります。彼と現在アルバムのやり取りをしています。グルセラCDはもちろんですが、
「ケンソー」「アルス・ノヴァ」「ハッピー・ファミリー」を彼に送り、彼からは「ゴ
リゾント」のカセット等を送ってもらいました。以前入手しそこなった「グネシュ」の
フルアルバム等を探してもらっています。
私がここでどうしても書きたかったのは、彼とのメールのやり取りの中で、現在の旧ソ
連諸国の生活が、われわれが新聞などで得ている情報以上に厳しいものだとわかってき
たということです。
ロシアの経済危機、いくつかの共和国での民族紛争などが話題になっていますが、旧ソ
連国民の多くが「ソ連時代の方がよかった」と言っているのは真実でしょう。
元モスクワ音楽院の教授がレストランで演奏してその日の生活費を稼いでいるといった
話を良く聞きますが、ソ連崩壊以後、ミュージシャンなど活動できる余裕などないよう
です。政府公認ならロックでも文化省から援助金がもらえたのですから。
最後に先日のメールの中のもっとも心に響いた言葉をそのまま掲載し、今回の特別編を
締めくくりたいと思います。
"We lost freedom together with Soviet.Only God knows our future."



連載 レコード入手への道程3  投稿日:07月17日(土)00時10分28秒


「新世界レコード社」を訪れ、何とか話をつけたものの、「オーダーしても100%入荷す
るかは分からない」とのことで、私のレコード入手への思いは日々高まるばかりでした。
そんなある時、たまたま書店で「スイング・ジャーナル」を見ると「文通コーナー」があ
り、そこに海外からの文通希望が掲載されているのを発見しました。「この手がある!」
と電光のように閃きました。残念ながらその号には思うような文通相手はなかったのです
が、書店で音楽誌を立読みするときは「文通コーナー」に必ず目を通すようにしました。
そしてチェックを始めて1ヶ月後か2ヶ月後に、ついにソ連からの文通希望に出会ったので
す。たしか81年の秋か冬だったと思います。「ウクライナのジャズ愛好家協会の副会長が
レコードの交換を希望しています。文通は英語で。」というものでした。さっそく私が手
紙を書いたのは想像に難くないでしょう。相手はウクライナはドネツスクのアレクザンダ
ー・マカレンコ氏。職業は、ポスターを手がけるデザイナーでした。私はウオント・リス
トをつけて手紙を送り、返事が来るのにさほど時間はかかりませんでした。
−続く−



連載 レコード入手への道程4   投稿日:07月31日(土)23時16分35秒


こうしてソ連とレコードの交換を始め、最初の荷物が届いた時には感動しました。
しかし一方で、ソ連のLPジャケットのぼろさ−とにかく薄っぺらくて背表紙などないに
等しい、LPを入れるヴィニールの陰湿なこと−どう表現すればよいのでしょうか。これ
は持ってる人にしかわかりません−に驚きました。
日本盤との価格バランスを考え、日本盤2枚、ソ連盤3枚という比率で、この後数年にわ
たり交換を続け、100枚を超えるLPを手に入れたと思います。
ところで向こうが何を欲しがったかというと、日本盤「帯」付きのジャズLPです。
驚くことにどこで調べたのか、レコード番号まで書いてウオント・リストを送ってきま
した。しかしながら、向こうは欲しいものがどんどん出てくるのに対し、回を重ねてい
くうちに、だんだんと面白くないLPが増えてきて、億劫になってきたのが実際のところ
で、手に入れたLPのうち、くだらないものはかなり売り払ってしまいました。送ってく
れたのはソ連盤だけでなく、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ポーランドのものもあ
りました。
その後、同様の方法(音楽雑誌でペンパルを探す)で、1982年にはついにポーランド、
84年には旧ユーゴスラヴィアともレコードの交換を始めることにもなりました。そして
ふとしたきっかけで「マーキー」(当時「マーキームーン」)誌のソ連・東欧コーナー
の執筆を担当することにまでなったのです。



連載 レコード交換とコレクション1  投稿日:08月02日(月)15時46分08秒


ソ連(ウクライナ)、ポーランド(ワルシャワ)、ユーゴスラヴィア(ザグレブ)の3人
とレコード交換をし、手に入れたLP600〜700枚はありました。しかしその大半を処分し
てしまい、いまでは100枚もありません。やはり「スカ」が多かったことも事実です。
ワルシャワのペンパルは当時ワルシャワ大学経済学部の学生で、単にレコード交換する以
上に親しくなり、85年夏、私はついにポーランドを訪れました。彼の父は、なんとワルシ
ャワ大学日本語学科卒で、日本語はペラペラ、さらに私たち日本人でも書けないような難
しい漢字をいとも簡単に書いてしまうような人でした。今のインターネットの発達した時
代なら、EMAILでやり取りし、また東欧のレコード情報ももっと簡単に手に入れることが
できるでしょうが、80年代のこの時代に苦労してレコードを入手したことには、感慨深い
ものがあります。
ところで、私が一体何を持ってるのかと思われる人も多いでしょう。私が私の入手したレ
コードをすべて掲載することは無理があるので、現在コレクションに残っているもののみ
を列挙します。(バンド、ミュージシャン名のみ)なお、カタカナにて母国語での読み方
になるべく忠実に表記しますが、分からないものは英語読みで書かせて頂きます。中には
世界的なビッグネームのものや現在アメリカで活躍してるものもいます。なお日本で手に
入れたものは除きます。

アレグロ、アルセーナル、アフトーグラフ、アクワリウム、エデュアルド・アルテミエフ、
ブーメラン、バロメター、アレクセイ・クズネツソフ、インスペ、カセケ、
ガニョレン・トリオ、アレクサンダー・ズルビン、アノール、アナトリー・クリコフ、
アレクサンダー・ロストツキー、グネシュ(近日入荷)、イゴール・ブリル、メロディヤ
(以上ソ連)
SBB、チェスワフ・ニエメン、ブッカ・スフレラ、マレク・グレチュタ、アナワ、
サン・シップ、イクストラ・ボール、ミハウ・ウルバニアック(現在アーバネイターやっ
てますよね)、エクソダス、スカルドウヴィエ、ズビグニエフ・ナミスウォフスキー、
ズビグニエフ・ザイフェルト、ズビグニエフ・レヴァンドフスキー、
アダム・マコーヴィッツ、ストリング・コネクション、クシストフ・コメダ、
トマス・スタンコ、ラボラトリウム、ジャズ・ジャンボリー・ライヴ・シリーズ、
ヤン・プタシン・ヴルーフレフスキー、ロンバルド、TSA、バディ・リッチ、
スタン・ゲッツ、ギル・エヴァンス、ビリー・ハーパーのポーランドでのライヴ盤

次回はチェコ、ブルガリアのものを書きます。



連載 レコード交換とコレクション2  投稿日:08月06日(金)01時12分43秒


*ソ連の追加 アナトリー・ヴァピロフ

ソ連、ポーランド以外のものは現在ほとんど残っていません。前回同様、日本で買ったも
のは除きます。あくまで文通相手から直接入手したものです。

*チェコ・スロヴァキア フェルマータ、ブラティスラヴァ・ジャズ・フェスティヴァル
 83(ソ連、東欧のバンド、さらにはジャック・ディジョネットの演奏も聞けます)
*ブルガリア FSB
*ハンガリー イースト、カルシャック

東ドイツ、ユーゴスラヴィアのものはすべて処分しました。とくにユーゴのは一般的に
評価の高いアルバムはまったく手に入りませんでした。最近、いくらか出回ってますね。
もちろん手に入れたLPはそこそこありましたが。
現在私が血眼になって探しているのはソ連の「ゴリゾント」です。これはいいです!!

次回は「マーキー」での執筆について書きます。ネタはまだまだありますし、昨今見か
けるロシア音楽のウエブページについても述べたいことがあります。
楽しみにしていてください(何人かは楽しみにしている人がいると思って頑張ります)。



連載 特別編 海外のコレクターとのレコード交換と旅  投稿日:08月07日(土)17時24分46秒


旧ソ連を皮切りに、ポーランド、旧ユーゴスラヴィアともレコード交換を始めた私です
が、それだけにとどまらず、その後カナダに1人(これは交換ではなく、購入でしたが)、
ブラジルに2人コンタクトが出来ました。以前少し触れましたが、85年にはポーランドへ
行き、ワルシャワ滞在中はペンパルのアパートに1週間お世話になりました。この年はLOT
ポーランド航空でついでにフィンランドとデンマークへも行きました。(ちなみに私はそ
の後2回コペンハーゲンに行きました。SASでの乗り継ぎのためにですが)そして86年には
ついにブラジルのペンパルを訪れVARIGブラジル航空の格安チケットでリオにまで行きま
した。
この年はついでにアルゼンチンまで足を延ばしました。もちろん目的は観光だけでなく、
現地のレコード店へ行き、知られざるプログレバンド、ジャズ・フュージョンを発掘して
くることです。別に金持ちだった訳ではありません。当時、働き始めて数年目で、まだ親
元にいたため、給料の大半を、楽器・音響機器・レコード・旅行に費やしていました。
現地のバンドだけでなく、面白い(他人にとっては何の価値もないですが)LPがいくらか
あります。ジャン=リュック・ポンティのギリシャ盤、マリリオンのブラジル盤、ジェネ
シスのアルゼンチン盤(スペイン語歌詞カード付き)等。
私が80年代ソ連でもっとも好きだったALLEGROというジャズ・フュージョンバンドがある
のですが、ソ連崩壊後まったく消息がつかめなかったのが、つい最近、NYで音楽活動をし
ていることが分かり、メールを出したら返事がきました。「かつてモスクワ放送を録音し
たテープを多数もっています」と書いたのですが、なんと「私のソ連時代の思い出に是非
送って欲しい」ということになりました。またウズベキスタンのコンタクトから、以前入
手できなかったGUNESHのLP2枚も近日入荷します。
最近つくづく思うのは「心で強く願ったことはかならず物質となって現れる」という「心
の法則」「潜在意識の法則」ですね。グルセラの海外進出もしかりです。
あきらめずに思いつづけることの重要性をひしひしと実感しています。(あとは金やなー)
それではまた次回。マーキーでの執筆活動へと話を進めたいと思います。



連載 雑誌「マーキー」での執筆 1  投稿日:08月11日(水)22時28分16秒


1982年末に「マーキームーン」第11号を買いました。この雑誌、存在は知ってましたが
立読みで買ったことはなかったのですが、先日この掲示板に書込みのあった中藤氏の
「フレンチ・ジャズ・ロック集成」というのに惹かれ、かってしまいました。
ところでご存知のように80年代は「プログレ不毛」の時代であり、かつてプログレを扱
っていた「フールズ・メイト」も路線変更し、唯一頑張っていたのが「マーキームーン」
でした。
その中に「国別インフォメーション」のコーナーがあり、「東欧・北欧」に関するペー
ジがありました。しかし、情報量は多くなく、「東欧のシーンについて詳しくご存知の
方、編集部までお手紙ください」と締めくくられていました。これを見て、「まめな」
私が動かぬ訳がありません。さっそく自分の持っている情報を書いた手紙を送り、まも
なく編集部のU氏から手紙と電話で連絡がありました。そしてついに「マーキームーン」
第13号で「ソ連のジャズ、ロックシーン」と題した原稿が掲載されることになったので
す。
この号がでたのは83年夏でした。私の原稿が初めて活字になった記念すべきデビューで
した。



連載 「マーキーのこと 2」  投稿日:08月28日(土)15時38分07秒


83年8月に「ソヴィエトのジャズ・ロック・シーン」という記事が見開き2ページにわた
って掲載されました。当時、あんなのを書いた人間は他にいなかったと思います。ソ連
の文通相手から手に入れたLPや各種情報、モスクワ放送英語放送からの情報をもとに書
いたものですが、唯一自慢できるのは、少ない情報源のなかでも、自分がこの耳で聴い
たものを紹介できたことです。その中で、エドュアルド・アルテミエフを誉めちぎりま
した。これがきっかけで、「新世界レコード」も輸入に動いてくれましたし、新宿レコ
ードなどにも、おかれるようになったと思っています。
以来3年間ほど、「マーキー」国別インフォメーションの「ソ連・東欧コーナー」を担
当しました。



連載 マーキーでの執筆3  投稿日:1999/09/05 21:14


「マーキー」13号での執筆を皮切りに、その後ポーランド、ソ連を中心に「国別インフ
ォメーション」のコーナーを担当しました。
ソ連・ポーランドから入手したLPや最新情報をもとに執筆していたのですが、だんだん
ネタ切れになって苦しかったこともありました。
ソ連に関しては、MUSEAから再発された"IN SPE","KASEKE","ALEKSANDER RYBNIKOV"
などを紹介しました。ポーランドは当時パンク、ヘヴィー・メタルの嵐で、ほとんどが
ユセフ・スクシェク周辺の話題になってしまいましたが、EXODUS,RSC,MAREK GRECHUTA,
BUDKA SUFRELAの新譜などを紹介できたのが、まあ、よかったでしょうか。
その後、中藤氏らの同人誌「NEMO」創刊号にも「ポーランドのジャズ、ロックの歴史」
と言う記事を書き、それを最後にお呼びがかからなくなりました。

次回は「ポーランド85」と言う題で。なお、先日、実家の押し入れで、ソ連のLPがま
だ残っているのを発見しました。売るつもりでそのままになっていたようです。そのう
ち、私のソ連・東欧LPコレクション一覧表をHPにアップいたします。



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