譜面台の陰から





                >「ぴあん」アルペジオコンサートを聴く<


                       
                  
  藤が丘「ぴあん」に会場を移して、

今回で二回目のコンサート。

喫茶店から普通の会場に移って、

以前から聴きに来ていただいてる方は、

いまいち違和感があるかもしれない。

聴きやすくなったという意見もあり、

さほどのイメージの混乱は起きてない気がする。

よかったとするべきところでホッとしている。


 今回は「金氏」を招いてのギター独奏会。

秋も深まった夜のお楽しみというところだ。

なかなか目前でギターの演奏を楽しむというのはできない。

そんなところも大きなメリットのあるコンサートだと思う。

演奏者の息遣いを感じられる位置で聴こうというのが、

このコンサートを開催している意図の中にあるのも確か・・・。

 これだけ間近で見ていると、

金氏の超絶技巧にもそれを達成させるべき要素があることが分かる。

なんとなくすごい技術で弾かれてるわけではない。

今回の演奏でまず第一に気づくことは、

弦のビレる音が全くなかったことだ。

一曲の中に一つや二つビレる音が入るのが当たり前のような、

そんなギターという楽器でもある。

ギターという楽器を弾いている人がほとんどの聴衆であれば、

心当たりがあると思う。

そのビレる音が全くなかった。

一時間半くらいの演奏で一つもなかった。

これはやはり凄いことの一つだ。

 間近で見ているとその左手の技術がいかに優れているかが分かる。

まず一番目についたのが左手の小指が、

しっかり指板に対して立っているということだ。

もちろん関節は丸くなっているのは当然だ。

小指は急いでおさえたりすると、

グシャっと関節が外側に反ってしまうことがよくある。

それがビレる原因であったりするわけだが、

そういう状況はまったくなかった。

ビレる音が発生しない理由の一つだ。

さらに左手が指板の上を移動するときに、

押さえる形が崩れないということがある。

もちろん指を広げたりする押さえ方もあるわけだから、

まったく同じで全部ということではない。

いわゆる重心がずれないということだ。

人間の指の重心というのは常に人差し指側にあって、

人差し指に力を入れると小指側は浮き上がってしまう。

普通はそれで正常なわけだが、

金氏の左手の移動を見ていると、

重心が人差し指側にも小指側にも移動しないことが分かる。

むしろ小指側に重心を残してるかもしれない。

重心が常に片方に偏ることがないということだ。

人間の指にとってこれはかなり難しいことの一つだと思う。

人差し指と小指が同じ力関係にないとこれは難しいと思う。

指板に対して水平に動く時も斜めに動く時も変わらない。

ハイポジションからローポジションに移るとき、

上下どちらに動くとしても、

人差し指側に重心というのは大きく動くものだ。

これが小指側に重心を残して移動出来れば、

音を出す正確度は上がると思う。


 移動するときの重心ということも重要ではあるが、

ハイポジションからローポジションへの移動となると、

これまたきわめてミスの起こりやすい移動となる。

ギターは指板が長いので移動距離も長いということになる。

テンポが遅い時でも気を付けないと押さえ損じをしやすい。

金氏の演奏を見ていると、

この移動するときは移動するフレットを指よりも先に見ている。

かなり早い移動でも目が先に移動先を見ている。

体操選手の宙返りと一緒で、

空中にいる時にすでに着地点を見ているのに似ている。

移動する指と目が同時では感覚というのは反応しない。

目が一瞬でも早く着地地点を早く見ることが出来れば、

指は目で見たところを押さえると思う。

これは出来そうでかなり練習を要するところだ。

アマチュアの方は目と指が一緒に移動していくと思う。

それが当然でありそれが普通だと思う。

しかし、金氏のような演奏家になるとそこから決定的に違うといえる。


 右手を見ると凄い速さで指が動いている。

当夜は、M・ジュリアーニの「大序曲」が弾かれたが、

この曲はものすごく速いアルペジオがある。

速いパッセージも随所に出てくる。

こういう素早い右指の動きがどうしてできるのかということだ。

よく見ていると速くなればなるほど力が抜けていくのが分かる。

@m a の指の関節の力が完全に抜けている。

非常に柔らかく動いている。

力みがないからいくらでも速く動く感じだ。

普通人というのは速く動かそうとすると力ずくになる、

肩にも凄い力みが生まれる。

力ずくだと一瞬はそれで動かせるが、

速く動かす状態を続けることはできない。

逆に力みをなくし力を抜いた状態に出来れば、

かなりの速さを続けることはできると思う。

速くすればするほど力を抜くことが出来れば、

速く指を動かす技術は上がると思う。


 こういう演奏会でよく話題になるのが、

ミスをしたかしないかということがあると思う。

曲がよく分からないとだいたいそういう話題になる。

CDを聴いているのが普通の今の時代、

ライブ演奏でもミスがあると地獄の沙汰のような会話が飛び出す。

自分が演奏会で演奏を聴くようになってここまで、

〜10年変わることのない話題ではある。

CDのように弾かないといけないという風潮はどうかと思うが・・・。

 では、今回の演奏でミスが全くなかったかというとそうでもない。

やはり金氏にしてもミスはあるのだ。

ほとんどは分からなかったのではないかと思う。

ハッキリわかった人はかなりの通なんだと思う。

ミスとは気が付かないで聴いていた人がほぼ全員ではないか・・・。

なぜミスをしてミスらしく聴こえないのか。

一般の人が弾くとミスはミスとして聞こえてしまうと思う。

それが普通ではあるのだが・・・。

ではなぜ、金氏がミスをしても、

ミスとして聞こえてこないのかということがある。

ひとつにはフレーズの繋ぎ方が抜群にうまいというのがある。

たとえばフレーズの真ん中でミスしても、

次に来るフレーズとの連結がまったく乱れない。

要するに時間的な変化がなく繋いでいけてるということだ。

だいたいミスをするとそのフレーズというのは乱れてしまうものだ。

そのフレーズでミスをしても次のフレーズに全く影響しない。

ということはメロディーは一本でつながって聴こえてくることになる。

ミスがミスらしく聞こえないのはここに理由がありそうだ。

金氏は最初のころ来演したころは、

まさに完璧でミスもすることがなかった。

年月もかなり過ぎて今。

若干ミスのある演奏になってきた。

普通に聴いて分かるか分からないかのレベルのミスだが・・・。

しかし、以前と変わってきたと思うのは、

弾かれるメロディーが聴き手の感性に残るようになったと思う。

メロディーに粘りが出てきたというか、

さっと通り過ぎなくなったということだろう。

しっかり聴き手の感性にとどまっていくということだ。

メロディーの歌わせ方が変化してきてると思う。

フレーズの中のテンポの動かし方が違うと思う。

大きな枠でのテンポは変わらないが、

フレーズの中では少しづつテンポが動いている。

要するに十分に歌いきっているということだろう。

聴き手の感性にとどまるのはその歌わせ方が生きてると思う。

これは簡単にできることではないと思うが、

聴き手の感性にとどく演奏というのは難しいと思う。

しかし、演奏というのは、

こちらの感性を聴き手に伝わるようにというのがあると思う。

要するに自己表現ということだが、

自己表現においてメロディーを歌わせるというのは、

大きな意味があると思う。

晩秋の空気感の中、

いいコンサートに出合ったと思う・・・。





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