譜面台の陰から
>第31回アルペジオコンサート終了<
第31回のアルペジオコンサートが終了した。
今回のゲストはもう何回目かの記憶もない、
クラシックギター界を代表する演奏家の金庸太氏だ。
今回も素晴らしい演奏を聴くことが出来た。
毎回思うのは、
氏の感性の質の素晴らしさは特筆に値する。
アルペジオというのはほんとに小さな音楽喫茶だ。
30人も入ると超満員となる。
一番後ろの席でも音楽ホールでいえば、
一番前って感じのスペースだ。
一番前に座るととにかく目の前という感じになる。
このような狭いスペースで聞くことが出来るというのは、
実は非常にまれなラッキーと言えると思う。
やはりライブコンサートの醍醐味の一つに、
演奏者の息遣いを感じながら聴くというのがある。
人間というのは人と対面するときには、
相手の息遣いというのは大きなファクターとなると思う。
その微妙な変化で大きな判断を下すこともある。
また、印象が変わったりすることもある。
人間の息遣いというのが、
いかにコミュニケーションにとって大きな意味を持つのかは、
社会人にとっては結果に反映されてくると思う。
アルペジオコンサートの意味というのは、
大きくその演奏家の息遣いを感じながら、
音楽を楽しむということに主眼がある。
ホールの一番後ろでは感じることのできない部分を実現させてるわけだ。
もちろんホールにも前という席はあるわけで、
息遣いを感じながらが不可能ということはもちろんない。
しかしやはり舞台の上はある種距離感があることも確かだ。
それならばその距離感をぎりぎり狭めることが出来ないだろうか、
ということが目標となってアルペジオコンサートは始まった。
実際に席に座って見ればまさに目の前に演奏者がいる。
右手、左手の指の動き、演奏姿勢。
楽器を演奏するうえで必要な情報が手に入り放題ではないだろうか・・・。
今ギターのレッスンを受けていて考えることのすべての情報を、
瞬時に手に入れることが出来るのだ。
これは大きなチャンスといって間違いない。
チャンスというのはその時にはなかなか具体化しないものだ。
すべて去った後にそれがチャンスだったとわかるものだ。
金氏のような演奏家の演奏から出てくるものというのは、
音色ひとつとっても出てくる音というのは極めて磨かれた音だ。
楽器の楽しみの半分以上は音色を楽しむことにある。
つまらない音というのはやはりつまらないのだ。
飽きるというのは楽器に飽きるというより、
音に飽きるという部分がほとんどといっていいと思う。
要するに感性にとってつまらないものというのは、
人間は最終的に拒否してしまうものなのだ。
魅力的な音とはと言えば、
実際にその魅力的な音を間近で聞くことだ。
実際に聞かなない限り100パーセント分からない。
CDの音は楽器の音とは程遠いものだ。
実際に聞く音とは比べてはいけない代物だ。
魅力的な音を聴かなかれば魅力的な音を得る縁もない。
金氏の演奏にはそれらがいっぱい詰まっていたと思う。
一度聴いて分からなければ二度聴く二度聴いてわからなければ三度聴く。
これが出来るのはアルペジオコンサートが、
毎年あるという強みなのだ。
数年に一回聴いたところでは何も分からないだろう。
ギターを練習していれば、
上達というのは絶え間ない練習の積み重ねというのが分かると思う。
たくさんではなく少しづつの積み重ねだ。
繰り返し聴くことでは、
少しづつ積み重ねて感性を磨いていくものだと思う。
技術だけ磨いても基本的にはなかなか上達はしない。
やはり感性の成長が伴わないと簡単に行き詰まりが来てしまう。
行き詰まりというのは意外に感性の行き詰まりといっていいかもしれない。
楽器演奏というのは総合的な上達がないとなかなか難しいものだ。
その上達に欠かせないのが質のいい情報だ。
今自分がどうしなければいけないかと考えるのであれば、
質のいい情報をふんだんに得ることだと言える。
その情報をもとに自分のギターの練習を考えるなら、
いろんな疑問が出てくると思う。
その疑問を解決していくことで技術を伸ばすことが出来る。
感性を伸ばすことも出来ると思う。
たとえば一つの曲を今日完成させて、
それから一年情報を得て感性が上達すると、
同じ曲でも見方、聴き方は大きく変化する。
そういう変化は芸術にかかわる者の大きな楽しみの一つでもあると思う。
感性の上達というものは見方、聴き方に、
大きな広がりを持つことが出来るということだ。
アルペジオコンサートがいつまで続くか分かりませんが、
意味を考えて席につけば大きな収穫は必ずあるコンサートだと思う。
一つの大きな才能に触れるということ自体、
そうそうチャンスのあるものでもない。
今回素晴らしい演奏に接して、
音楽喫茶アルペジオのスペースの貴重さを考えた次第です。
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