譜面台の陰から



                   


                           >暗譜について<
  





 暗譜が苦手・・・。
暗譜ができない・・・。
もう少し前の状態で読譜がつらい・・・。

 このような話をよくすると思う。
特に発表する機会が迫ってくると、
この声は叫びにも近くなってくる・・・。
なんともかける言葉もなんとなく小さくなりがちだ。

 このなかなか思うようにいかない暗譜とは、
どういうメカニズムからできているのだろうか・・・。
このメカニズムを理解することで、
気分的に少しは楽になるのではないか・・・。

 人間というのは一つの現象に対してプロセスが理解できると、
意外に抵抗感というのは少なくなるものだ。

 それは自分が今どこの位置で、
なにをしていて、
また、ここからなにをしなければいけないか、
こういうプロセス中の自分の位置を、
常に見える状態にしておくことが、
心理的な安心感を与えるからだろう。

 人間というのは親の庇護が外れて、
その後の長い人生において常に不安感を持って、
生命を燃焼させているといってよいと思う。
その不安感を取り除くために、
日々、エネルギーを費やしている、
といっても間違いのないところだろう。

 これは大きく人間全体のことが言えるとすれば、
もっとマクロ的に一個の人間を見た場合。
その人がギターを習い暗譜の必要性を説かれ、
それを実行していく上で、
自分にとって暗譜という行為は、
今、どこのどの辺で行われているかを知り得ることができれば、
今自分の心理の全体を覆っている、
不安感の一部は解決できるということだ。

 やはり人間は自分がいつのいつごろどうなるかを知るというのは、
大きな安心感と自信につながることだと思う。

 話はちょっと大きく広げすぎた感はあると思うが、
暗譜していくプロセスとはどんなものかを考えてみたい。

 人間にはパッと見てすぐ記憶してすぐ揮発する、
「感覚記憶」というものがある。
これはパッと見て感覚的な印象を持つ瞬間というのだろうか・・・。
楽譜を見て「こりゃあ、大変だ!」「これなら楽勝かな・・・」
などの見た瞬間の感覚だ。
しかし、これは次の刺激が入ると同時に揮発してしまうものだ。

 これを教室から自宅へ持ち帰って指摘された楽譜を見て、
ざっと音符を拾ってみる。
パッと見た印象を具体的にして見る作業だ。
この段階ではほとんど記憶にとどめることはできない。
ただ最初の印象の追認ということだ。

 この段階ではワーキングメモリに移行したといえる。
しかし、ワーキングメモリというのは、
記憶の持続力は極めて小さいのでそのままでは結局は暗記されない。

 この後「長期記憶」にとどめるには、
どうしたらいいかということになる。

人間には「宣言型知識」「手続き型知識」があるといわれている。

 「宣言型知識」というのは、
日常、なにがどうしてという主語と述語のある状態を言う。
「犬は足が速い」などはこの部類だ。

 「手続き型知識」というのは、
言葉ではなくある種感覚的なことをさしている。
言葉では説明できないが「そこの角を曲がるはずだ」という感覚だ。
漠然とその曲がり角の建物の色や形体、
大きさなどの印象がインプットされていている。

 人間の記憶というのは、
この二つが組み合わさって出来ていると思ってよさそうだ。

 楽譜に向かった時に、
この音符はこの弦のこのフレットポジションで、
iの指でアポヤンドあるいはアルアイレで弾く。
これは「宣言型知識」ということだろう。

 これが解明できて慣れてくると、
「手続き型知識」に変化していくと思う。
すでに「手続き型知識」になっている部分を含めて、
楽譜の最後まで、
とりあえず読みとっていけるようになるということだ。

 これらによって得た情報を「長期記憶」に変化させていくには、
どうしたらいいだろうか。
ここで登場するののが「リハーサル」という作業だ。
「リハーサル」などというとちょっと聞こえはいいが、
要するに繰り返し練習だ。
繰り返しと聞くとかったるく感じるかもしれない。
しかし、この繰り返しによって、
楽譜のあらゆる部分がコード化されて、
いちいち「えーと、この音は・・・」などと読まなくても、
すらすらと指が動いていけるようになると思う。
その繰り返された刺激が脳にインプットされて、
最終的に楽譜を見なくてもバーコードを読み取るがごとく、
脳からの指令は指に送られて弾き進めていけるようになると思う。

 暗譜には以外と思うほど早く覚えられる部分と、
何度弾いてもいつも最初の状態があると思う。
これはどういうところから来る差なのであろうか・・・。
疑問を持つ方も多いと思う。

これには明確な理由がある。

 先ほども書いたように人間には「宣言型記憶」と、
「手続き型記憶」がある。
ギターの楽譜にはハイポジションという、
12フレットよりのフレットがある。
このあたりの音をパッと理解して、
すばやくつかめる人は中級レベルではそうたやすくない。
かなり弾ける人でもたやすくとはいかない押さえ方が多い。

 ここを一つ一つ音を読んで指を置いていく。
これは結構疲れる作業だ。
ギターを弾く人には大いに経験があると思う。
これは「宣言型知識」といえる。

 その反対にローポジションの音であり、
ほとんど苦もなく読み進められてしまう・・・。
いわゆる簡単な部分。
これは「手続き型知識」のみで読み進めることができてしまう部分だ。

 どちらが暗譜できない部分として残るかというと、
簡単にスラッと弾けてしまう部分だ。
簡単であれば簡単に覚えられそうなものだ。
なぜ覚えられないで最後まで残るのぼだろうか・・・。

 簡単に弾けてしまうということは、
「宣言型知識」を省略してしまっている状態だと思う。
いわゆる「こうだから、こうだ」という主語述語の部分だ。

 人間というものはプロセスに手間がかかると、
次からはそのプロセスを省略しよういう機能が働いて、
そこで解決しようと強度の刺激が脳に向かって発せられる。
人間は刺激に反応する動物だから、
この強烈な刺激は脳にプリントされる時間が短縮される。
それによってこういう部分は比較的記憶に残りやすいといえる。

 見ただけでプロセスが短縮されて、
弾き進めることができる部分というのは、
すでにコード化されていて、
新たな作業は必要のない状態だ。
「手続き型知識」のみになっている状態だ。
これは弾いても弾いても覚えられない状況を作り出す。
最も悩ましい状態だといえる。

 だから人間の記憶という7のは、
「宣言型記憶」と「手続き型記憶」の組み合わせといえると思う。

 すでに「手続き型知識」化されてしまっている部分には、
「宣言型知識」を組み入れる必要がある。
要するに脳に対して、
新たな刺激を強要する必要があるということだ。

これにはいくつかの方法論があると思う。

 ここまででだいぶ長くなってしまった。
この問題はこれだけで解決はできないと思う。
この後はまたの機会に書いてみたいと思う。

 なおここに書いたことがすべてだということは、
決してないことを付け加えておきたい。
それほど単純でもないという気が書きながらしている。
ひとつの考え方と思っていただきたい。





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