譜面台の陰から


                  >「なぜ・・・」について<


 
2020年、いよいよおさらばか・・・。

なんだかあんまりいい思い出も残せてない一年ですね。

コロナウィルスの猛威に逃げたり立ち向かったりの365日。

「そう言えばコロナってあったよね」

と、懐かしく語れるにはもう少し時間がかかりそうです。

ワクチンが効果を上げてその後ってことらしいです。

どのくらい効果を上げるかはなんとも想像もつかない。

アメリカ、イギリスの結果次第というところでしょうか・・・。

 「なぜ」1970年代のムード歌謡全盛時のタイトルみたいな言葉ですね。

内山田洋とクールファイブとか鶴岡正義と東京ロマンチカとか、

敏いとうとハッピー&ブルー、ロスプリモスとか・・・。

昭和のあの時代みたいな・・・。

すでに知らない人のほうが多いのかな・・・
トウゼン

そういうこともありの言葉ですが、

この「なぜ」という一言の言葉はものすごい広さを持ってるんですね。

「なぜ100円なの?」「なぜこうなるの?」「なぜいいの?」「なぜダメなの?」

いろいろきりがなく出てきますが、

ほぼすべて疑問の?がついてくる言葉でもありますね。

「なぜできるんだろう?」「なぜできないんだろう?」

可能、不可能の両方で活躍する言葉でもあるんですね。

この「なぜ」という言葉は全人類の言葉にあるんじゃないかな。

英語だと「why」かな・・・。

まあ、とにかくどの言語にもある言葉だと思う。

人間というのは「なぜ」という言葉を、

ものすごい数を繰り返して成長する動物なんですね。

特に幼少時のころはこのなぜに全身包まれている感じ・・・。

この幼少時の「なぜ」の繰り返しで、

日本人なら日本人、アメリカ人ならアメリカ人、

ってことで出来上がっていくんですね。

もっと小さく絞り込めば、その家の家風というのかな・・・。

県民性とか都会風とか田舎風というのも「なぜ」から始まってるんですよね。

「なぜ」というのは人間の発達、成長の上では、

重要かつ絶対条件なんですよね。

 しかし、この「なぜ」が歳とともに数が減っていくのも人間なんですね。

ようするに環境があまり変わらなくなると、

「なぜ」という言葉はあまり必要なくなるってことなんですね。

なぜ「なぜ」という言葉が減ってくるのだろう。

ここでも「なぜ」が出てくるんですけど・・・。

歳を経るにしたがって、

日々の努力もあると思うのですが、

あまり環境の変化がなくなってくるということもあるんじゃないですかね。

ある種の生活ルーティンというのが出来上がって、

「なぜ」という前になんだか解決してしまうということが出てくるんですね。

これはこれで長年の努力のたまものということはあるんですが、

このあたりで気をつけたいのは、

なんといっても人間の五感の成長もなくなってくるというっことです。

「なぜ」という言葉は感性を磨いていく言葉でもあるわけです。

「なぜ」がなくなれば感性の広がりもなくなるわけです。

このなぜをなくさないためにも趣味というのは大事な要素ではあるんですね。

時々、なんと!無趣味なんて言う人っていますよね。

もちろんなんでもいいわけだからこれもありですが、

もう「なぜ」の機会は圧倒的に少なくなりますよね。

感性の広がりを止めてしまってる状態なんじゃないかな。

一番身近なギターでいえば、

なぜ弾けるんだろう?

なぜミスしたんだろう?

なぜ部分的に弾けたり弾けなかったりするんだろう?

なぜこの曲は自分の感性に合ってこちらの曲は合わないんだろう?

とにかくありとあらゆる「なぜ」が出てきますよね。

せっかくでてきた「なぜ」を出てくるたびに、

モグラたたきのように打ち消してしまうのか、答えを探っていくのか、

で、大きく違いって出てくるんですよね。

なんの違いかっていうと、

感性の広がりの違いです。

この「なぜ」を持ってる人との会話って面白いんですね。

逆にこの「なぜ」を感じさせない人の会話ってつまらないので、

「早く終わらないかな」とかばかり考えてるんですね。

ある程度の年齢とともに、

この感性の広がりで会話してるところが人間ってありますね。

感性の広がりをやめちゃった人との会話というのは、

とにかくうなずくしかないって感じ・・・。

こうまともに言うと怒らそうですが('◇')ゞ

とにかくあらゆる趣味において、

「なぜ」を失ってしまうと、もうやめるしかなくなるね。

次に移ってもまた同じね。

「なぜ」のないところに感性の広がりがなえれば、

物珍しさだけで終わりね。

人間には目を転じると物珍しさって常について回る。

当然ですよね。

物珍しさって新たな感覚を呼び寄せてきますからね。

でもそこから「なぜ」が生まれなければ、

物珍しさだけで終わりでしょうね。

要するん感性の広がりがないわけだから、

また次ってことになるんですよね。

たまに、過去にいろいろやってきた人と遭遇するんですね。

すごいなってレベルでやってきてる人っているんですよ。

こちらも知らないことだったりすると、

ちょっと深堀して話を聞こうとする、

なんだかなにも出てこない場合がほとんど・・・。

なんだかやってきたことに対する話というのがやたら短いのですよ。

下手するとちょっと聞いてみると一言出るか出ないかで終わり・・・。

「なぜ」の少ない人の会話って大体こんなもんですよね。

「なぜ」という言葉は人類が獲得した最高の言葉なんですよ。

話がでかくなりすぎですかね・・・(*ノωノ)

まあ、当たらずとも遠からず・・・じゃないですかね。

2020年コロナに翻弄されてしまった一年ですが、

2021年は、この「なぜ」から、

自分の思考、感性その他のテリトリーを広げていくのも、

けっこういいのではないかと思う次第です。



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