譜面台の陰から


                     >感性の壁<


 
今年も残すところ一か月になりました。

11月もいよいよ終わり・・・。

11月も気温差の激しい月でした。

晴れが続いたかと思うと後半は雨模様の日が続く。

暑めの気温から一気に10度も下がるという極端さ。

インフルエンザが早々と猛威をふるうというとんでもない状況。

ここで体調を崩さないようにが一番大事ですね。

 感性の壁というといきなりなんだという反応が返ってきそう。

感性というと人間がものを見たり聞いたりしたことへの反応のことだと思う。

似たような言葉に感受性というのがありますが、

これはまた別のことなんですね。

同時に語るというのはちょっと難しいかも・・・。

ここは感性ということだけにしておきます。

 感性というのは感じたことを具体化することだと思う。

故郷に来て、思い出の山、思い出の川を眺めて涙ぐむということは、

これは感受性の世界ですね。

なんだか石川啄木の短歌にありましたね。

感性ということだとどういうことか、

感性ということでくくるとこれはこの情景を見て、

具体的に言葉にすることですね。

思い出の山、思い出の川を見てその感覚を具体的に語る。

そういうことですね。

しかし、感性というのは一種の壁があります。

それは人それぞれに表現違いがあること。

その表現が何によってなされるのか・・・。

そこに芸術が存在するんだと思いますね。

絵画、音楽、書道、津軽三味線・・・。

あげればたくさんありますね。

見たり聞いたりしたことを楽器で表現する。

ここではギターでということになりますね。

自分の感性を発露する手段としてギターを選んで演奏する。

感性の発露のない人間というのはいないんですね。

ただ手段が違うだけ・・・。

とんでもない犯罪まがいのことを選ぶと大変なことになりそうです。

ギターを選ぶというのは穏やかなことだと思いますね。

しかし、せっかく発露する手段を手にしても、

自分の感性に壁を作ってしまっては元も子もない・・・。

しかし、意外と壁を作るというのはあるんですよね。

近いことでは、教室主催で開催してるコンサートがあります。

これを主催する側で見ているとなかなか興味深いですね。

かなり毎回積極的に参加する人、

しょっぱなから無関心な人。

どういうことでもそれは構わないわけですが、

感性というのは興味があろうとなかろうと、

ものごとに接しなければ刺激はされないということです。

人間というのは行動して刺激を受けないと何も広がらない動物ですね。

特に感性ということになると、

自ら育てていかないと全く広がらないとものです。

育てていくということは興味があるがなかろうが刺激を受けて、

そのことを具体化していくことなんですね。

ここまで生きてくると数限りのない人と接してきてるわけですが、

話の面白い人とつまらない人がいることは確かです。

つまらない人というのは表現することが狭く広がらないんですね。

例えば最近のソロコンサートを聴いて次々に言葉が出てくる人と、

そんなのあった・・・という話の人といるわけです。

もちろんどういう風に感性に響いたかはそれぞれなので、

どんなでもいいのですが、

同じギターを演奏していてなんの言葉も出てこないというのは少し寂しい・・・。

演奏された曲、演奏してる人の雰囲気、指の動き、姿勢、音色、響き・・・。

もっと上げれば会場の照明、出てきたコーヒーの味わい。

いろんなことが聴いてる側に投げかけられてるんですね。

まったく何も受け止められなければ、

かなりつまらない時間の流れだったかも・・・。

そこでいろいろひねくって言葉にしていければ、

感性は広がると思います。

一つのコンサートのニュアンスの幅は広がるんですね。

感性を発揮することもなくスルーしてしまえば何もなかったと同じであり、

言葉の広がりも何も生まれないんですね。

ポピュラーの世界はテレビ、ラジオ、なんだかんだ出現してるので、

受け止めやすく言葉にしやすいんですね。

どこに行っても接することを強制されてるわけです。

しかし、スピーカーから流れてる音楽では、

ほとんど感性の広がりはないですね。

実際ににそのコンサートに行って、

そこの空気感パフォーマンスすべてを見ないと、

感性の広がりはほとんどないですね。

クラシックギターのコンサートというのは今の時代かなり難しく、

聴く機会が限られます、だから開催してるわけです。

クラシックというだけで壁を作ってしまうという人をかなり見ます。

一つの言葉の先入観で、

感性の入り口を閉ざすというのはもったいないですよね。

すべての音楽は共通の言語を持っています。

一つの言葉だけしか受け入れようとしなければ、

そもそもは何もない人間世界がますます狭くなっていくんですよね。

人間には知識とか感情があるので、

無心に門戸を広げてみるということが難しいです。

感性の世界を狭く狭くしていくと、

いきなり自殺願望なんかが生まれてしまうんですね。

感性の引き出しがたくさんあれば、

行き詰ってしまったところでいろんな言葉がありニュアンスありで、

たくさんの方向性を見ることができるんですね。

自分の中にある感性の壁をまず取り払って、

自分を表現する世界が広げられると、

いろいろ面白くなるんじゃないかと思います。



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