◇1967年 現代ギター8月号 NO,5より◇

                 

 少し前に古物商のところにあった現代ギター第5号を発見。
1967年ということだといまから52年前ですね。
今の現代ギターから考えられないほど素朴です。
表紙はピカソを思わせるキュピズム系の装丁。
サイズもいまのものより一回りは小さいです、B5サイズですかね。
ページ数もかなり少なめです。


現代ギター第5号の「ジークフリート・ベーレントを聴く」◇

=1967年 6月13日 第一生命ホールにて=

ジークフリート・ベーレントと言えば、

今はもうかなり昔のギタリストという感じになってしまってますが、

この時は、52年前のリサイタル記事です。

セゴヴィアとは対極にあるドイツ出身のギタリストということで、

コンサート評が興味が深いのでかいつまんで載せてみたいと思います。

全部書くのは難しいので一部分だけにとどまります。


>各地でべーレントがリサイタルを開いた。

しかし、その評判はあまり芳しいものではない。

講演五回目の第一生命ホールを楽しみにして出かけた。

世評の悪さというのは、現代では往々にして、美徳であり希少価値があり、

珠玉品である場合がある。

世評などを気にしていてはロクな演奏はできないに違いない。

そして聴き終わった後このギタリストは大したものだと感じたのだった。

どこで彼の演奏と日本の聴衆とに食い違いができたのだろうか。

彼は、公演前の記者会見でこんなことを言ったそうである。

「私のドイツ的様式を聴いてもらいたい」と。

実は彼の音楽を理解するカギがここにあるとも思えるのである。

ドイツ的様式とはただドイツ人的であるということを意味するものではない。

シュッツ、バッハ以来のドイツ音楽の伝統を、

スタイルとして身につけているということである。

日本のギターファンとの食い違いはこのへんに出てきたようである。

セゴヴィアとその一派を代表する南欧的な音色の輝かしさは彼にはない。

いわば彼の音は、墨絵であり、単色画であり、

北方的、ドイツ的様式の線で全曲が貫かれている。

音におぼれるということは彼にはない。陶酔がない。

ここいらが日本のファンににとっては物足りないのであろう。

ギターとはこんな音なのだ、

という既成概念があまりにも日本のギター界を支配し過ぎてはいまいか!

第一部は古典的な曲から、第二部は民謡を中心にした現代曲まで、

そしてアンコールは、第三部といってよいほど盛沢山である。

作品を客観的に理解するよりは自己を主張したいほうである。

ひとひねりひねるから素直な感動というものには縁遠くなる。

ここいらも日本のファンには物足りないのだろう。

彼の演奏スタイルはもっと理解されててもよかったのではないか。

この楽器の伝統的スタイルはもっと注目されてもよいように思われるのである。<

 


     来日時に放送されたと思われる動画(貴重)



         アランフェス協奏曲第二楽章


                  

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