ラレアベルト vol.11998、8、1発行

      
"砂漠の老人がコワルスキーに"
 インディアンの道さ。自分の影を見失わないよう太陽についていくんだ。すると必ず目につくサボテンがある。それがラレアベルトさ。サボテンとハマビシにそってゆくと必ず道に出られる。
             ーーー映画"バニシングポイント"より

  
石田君の死
        我恥じて云わん
        我等は弱き者の如くなりき
        されど人の勇敢なり得るところには
        愚かなる故に我云わん
        我も勇敢なり  (コリント人への第二の書状)
 
 その日暇乞いにきた石田君の心情を見抜けなかったのです。そしてその一週間後石田君の死を知らされた私は、電話口でベチャベチャと泣いてしまうのです。

     カチュウシャかわいや 別れのつらさ
     せめて淡雪溶けぬ間と
     神に祈りをかけましょうか

 今は無くなってしまった尼崎のライブハウス"S"で石田君と初めて会ったのは、その日の数年前の事でした。底知れぬ哀しさをたたえてカチュウシャを唄う石田君の居る場所が、私には誰よりもよく分かりましたし、その場所に居続けてきた石田君の痛みを思うと、自分自身本当に恥ずかしい思いがするのでした。
 ともあれ探し続けてきた同類に巡り合えた安堵感で、その夜私は子供のように眠ったのです。

     カチュウシャかわいや 別れのつらさ
     せめてまた会うそれまでは   
     同じ姿で居てたもれ

 今思えば石田君と私は同じ場所に居て、同じ場所に向かいながら確執していたのです。 
 透きとほったガラスの世界の話しをする`80世代の石田君に`70世代の私ははにかみながらも議論をふきかけるしかなかったのです。そうして石田君は`80世代のトップランナーとして誰よりも純粋に生き抜き、コワルスキーのように激突するのです。残された私は`70世代のラストランナーとして砂漠の老人が語ったラレアベルトを行くばかりです。   

     カチュウシャかわいや 別れのつらさ
     広い野原をトボトボと
     ひとり出てゆく明日の旅

 それにしても意を決したかのように「じゃぁっ 帰ります」と夜道に消えていった石田君の背中を思い出す度に、あれから10数年経った今日でさえやりきれない思いに胸がつまるのです。
                    (文・山田ほおぼう)

  
田んぼの中のフォークシンガー
 
昔、東北地方に田んぼのあぜ道を三味線担いで村から村へと旅する盲目のおばあさんがいた。"めくら御前"略して彼女達は"ごぜんぼ"とか"ごぜさん"とか呼ばれた。村々を回り、田んぼから「ごぜさん 今夜はうちで唄ってくれ」という声がかかると、その夜はその農家の納屋が彼女達のステージとなった。
 彼女は回ってきた村々の話しを織りまぜ、リクエストに応え、民謡から流行歌まで何でも唄った。時に風刺を効かせ、笑いを折り込みながら‥ ‥。
 彼女達の存在を知った時僕はギター一本を担いで町々を回る己の姿を投影してみた。そしてその構図にすっかりはまってしまったのである。もちろん町から町へと流れていく流れ者の構図はそれまでにもあった。HOBO 'S LULLABY(流れ者の子守唄)なんかも訳して唄っていた。けれどどうしてもアメリカが抜けなかった。和製"流れ者"の域を出なかったのだ。それに年端もいかんもんが流れ者を気取るのも気が引けた。実体験を持たぬ詩は浮いていた。そこにごぜさんはやさしく自然に橋渡しをしてくれたのである。 
 彼女達を日本のフォークのルーツというには余りに異端ではあるが、フォークの在り方、やり方を今でも示唆してくれている事は間違いない。

 田舎を土壌に田舎に培われ田舎に愛されてきた者達の唄‥‥ そしてフォークはいつまでもなつかしく、のんびりと響くのだ。
                            
                        (文・神田修作)



ラレアベルト vol.2    1998.8..25 発行

        
   
 18才
 
体の上下から血液が流れ出るかのような喀血と下血をドボドボと繰り返した私に、周りのみんなはとてつもなく優しく、目覚めると誰かしらの穏やかな笑顔がありました。目覚め、安堵してはまた眠りました。私は甘ったれていましたので、そんなふうにずっと誰かが傍に居てくれる事がよほど嬉しかったのです。
 物語りは酒の中にあり、その頃の私はその物語りの中でしか過ごせなかったのです。友人の憐憫の中、アルコールでゆがんだ街に住み、誰彼となく甘え、自分を主人公にした勝手な物語りの中に住んでいたのです。溶け出した歯の痛みを抑える為に飲み出した鎮静剤は通常の5倍の20錠以上にも増え、尋常でない胃の痛みは私を怯えさせました。酔いざめた夕暮れ、ガシャガシャとした頭痛の中で、何人もの友人に電話をかけ、相手にしてもらえない私は街角に佇み、やってくる長い夜に怯え又飲み続けるのでした。そうして私は壊れ、通常40年で受けるべきダメージを17年で受けてしまうのです。取り返しのつく事ではありませんでした。 
 50日後、青銅のような顔色のまま私は退院しました。友人は去り、壊れた体だけが残り、そのうえに飲み続ける勇気もなく、途方に暮れた私は、場末の映画館に弁当を持って通いつめたのです。つまらない場面に胸が詰まりました。薄暗い客席でにぎり飯を持ちながらボロボロと泣いてしまったりしていたのです。
 映画館を出るといつも夕暮れでした。人気の無い通りの空気は澄んで、該当が素敵にキラキラと輝きます。裸電球がそこかしこに滲む商店街を歩いて帰る時、きらめくような営みの温もりに私は癒されてゆくのです。そして日常の仕事の美しさに圧倒され、自身の思い上がりを知るのです。
 私は立ち直ろうとしていました。
                     (文・山田ほおぼう)

    
まるごと子守唄
 
古くから伝わる日本を代表する子守唄の多くは「子守り娘唄」である。奉公に出された娘達が幼子を背負い体をゆっくり揺すりながら呟くように唄う。メロディーは平坦で歌い上げるサビはなく、1コーラスは短い。 
 何を唄っているのかと云うと「おやすみ」が基本になっているが、歌詞を追っていくと結構愚痴というか恨みつらみというか、子守り娘の本心がちらついている。つまり、「おやすみ」のニュアンスが「早く寝て」に変わり、日々の仕事の辛さ、故郷への想いと、唄は背中の子供を離れ展開していく。
 じゃあ揺りかごの文化圏ではどうか。背中と違って子供とは少し距離がある。唄うのは娘ではなく乳母だ。彼女達の唄う子守唄はメロディアスに歌い上げられる。内容は叙事詩傾向でサラリとまとまっている。
 北欧では母親が揺りかごを揺らしながら漁に出て帰らない夫に対する不満を朗々と唄い続けるらしいから揺りかごの文化圏と云っても様々だ。
 でも詩が子供から離れていくというのは面白い。これは子守唄が自然発生的なものであるという事のあらわれだ。最初は背中や目前の子供に唄いかけられ、その途中で子供が寝てしまった後、対象を失った唄は日頃のうっぷんや心情を綴り始めるのである。むろん聞き手は子供といってもまだ言葉を解さない幼子であるから、初めからメロディーと一体となった声をまるごと聞いているのだろう。

 子守唄が安らかな眠りをいざなうものなら、包み込んでくれるような音の流れこそがその本質かも知れない。
 夢に敗れた、恋の疲れた男や女達をまるごと包み込んでくれるような子守唄をもう一度聞きたい。
                     (文・神田修作)



ラレアベルト vol.31998、10、10発行

        
   続18才
 
誰も知らない遠い街、珈琲一杯の温もりで暮らすのです。銭湯に通い、御飯を炊き、洗濯しましょう。仕事を終え、暗いアパートの鍵を開け、明かりを灯すのです。慎ましく清貧に甘んじた暮らし‥‥自分にはふさわしく思えました。私は18才で隠棲すべく旅立ったのです。
 
 数カ月後、顔をアザだらけにした私は留置場の床の上で、膝を抱えながら、脱走の事を本気で考えていました。
 
 生活力の無い私に、清貧の暮らしは叶いませんでした。それどころか私は70年代の吹き溜まりの様な人々が集う、東京近郊の安アパートの猥雑な生活へと突入してしまったのです。バンドマン、空き巣、革マルくずれ、下着泥棒、隠遁生活者‥‥‥アウトロー達に囲まれた私は、彼等の強靱な暮らしぶりに驚嘆し、憧れ、学ぼうとしました。私もまた、状況的にも、資質的にも彼等と生きる以外に無かったのです。ふとんを担いで質屋に走り、拾ったものを駅前で売り、盗んだすいかを抱えて走りました。まっとうなアウトローとしての暮らし‥‥私は自身の居場所を探り当てたのです。 
                                                                   私はバンドマン、革マルくずれの留年生と親しみ、半ば共同生活に入りました。私達はドロップアウトした者同士で群れ遊び、その自負に酔い、そうして増長してゆきました。薄汚い格好で近辺を徘徊し、畑を荒らし、夜毎市民生活を小馬鹿にするような低能な唄で騒ぎ、近辺の住民と敵対してゆくのです。
 何度かの小競り合いの後、住民のアレルギーは限界を越え、或る夜、私達は15人程の猛者達によってアパートから連れ出され、リンチを受けるのです。それは喧嘩として警察に通報され、散ざ殴られた挙げ句に私達は逮捕されてしまうのです。   
                       (文・山田ほおぼう)


   
秋に暮れていく童謡
 猛暑を越えた現場は急にピントが合ったレンズ越しに広がり、細部まで輪郭をあらわにする。ここ数日視界に赤とんぼの群れが飛び込んでくる。確実に昨日より数がふえている。誰かが口ずさむ。「夕焼け小焼けの赤とんぼー」‥‥あのねのねでも長渕でもない。いかに時流に乗った、或いは感銘を受けた唄があっても、ふと口をついて出るのが幼い頃に擦り込まれた童謡である事に恥じらいを覚えた時期もあった。TVの画面や歌集からではなく、特定の声でもなく、聞こうという意志もなく何度となく耳にした唄達は、今聞いてもその風景がぼやけている。きっと物事とのかかわりをその頃耳にした唄と一緒に自分史に組み入れていく以前の擦り込みだったのだろう。
 ただ、歌詞のインパクトの強さは歳をとるごとに大きくなる。「赤い靴」は、もの悲しさから救いのない悲しみにまで膨れ上がった。「青い目のお人形」に至っては「アメリカ生まれのセルロイド」の繰り返しだけで込み上げてくる。これら時代を越えた独特の郷愁は一体なんだろう。
 童謡は字のごとく子供の唄う唄だ。子供の視野に入るものを唄っている。その設定や描写が丁寧であるが故に一場面だけが妙に生々しく目に浮かぶ。一枚の絵のようだ。物語り性もある。ただ、いつの誰という設定はしていない。そこに個々の思い入れや空想が膨らむ余地がある。
 港から連れていかれた女の子や港にやってきた西洋人形はそれからどうなったのだろう。尻切れとんぼに突き放された刹那だけが胸に残る。そしてつるべおとしの秋や突然の別離という実体験と相俟って、それは歳を重ねる毎に大きくなる。 
 今度又失恋したら、フォークではなく童謡を口ずさんでいるかも知れない。
                       (文・神田修作)