プロローグ
1960年代のアメリカ合衆国。50年代後半から60年代前半にかけて華やかな音楽産業の一端を支え始めたエレクトリックギター市場において、ギブソンは苦境に立たされていた。革新的なイメージを持つフェンダーギターに比べて、伝統的なフォルムを持つギブソンギターはもはや過去の産物と見なされていたのだ。テレキャスター、ストラトキャスターと立て続けにヒット作を送り出したフェンダーは、アメリカの伝統音楽であるカントリー系のプレイヤーからの確実な支持を受けていた。

ブロンドのテレキャスターからサンバーストのストラトキャスターへの変遷に影響を受け、ギブソンは52年に発売したレスポールに次のような変更を加えた。

・ より軽量、安価なジュニアモデル、豪華なカスタムモデルの発売
・ TVカラーの採用
・ ゴールドトップへのチューンOマチックブリッジ(ABR-1)の採用
・ ハムバッキングPU(PAF)の採用
・ ジュニアのWカッタウェイ化、ゴールドトップからサンバーストカラーへの変更

しかしABR-1やPAFといった画期的な新技術を採用したにもかかわらず、結果は思わしくなかった。中でも革新性を旗印に58年に発表したフライングV、エキスプローラなどのいわゆるモダニスティックギターも市場からの反応は鈍く、実際の製造はわずか240本にとどまった。

一方、フェンダーが同じ58年発売したジャズマスターはギブソンの主な顧客であるジャズプレイヤーからは支持されなったものの、当時流行していた西海岸のサーフミュージックのミュージシャンを中心にスマッシュヒットとなったのである。絶対数の多いポピュラーミュージックプレイヤーへの普及により、市場の中でのフェンダーの優位性はますます高まるばかり。さらに59年のローズ指板への全面切り替えでよりギブソンに近いプレイヤビリティを手に入れたフェンダーは、60年のカスタムフィニッシュの導入でさらに顧客のニーズに近づき、61年にジャガーを投入。ラインナップも徐々に充実していった。

61年、ついにギブソンはレスポールのフルモデルチェンジに踏み切る。9年続いた伝統的なシングルカッタウェイ、アーチドトップボディに別れを告げ、22フレットフルスケールネック、スキャロップドボディの軽量ギター、通称レスポールSGを発売したのだ。61年、SGスタンダードは1662本のセールスを記録し、60年のレスポールスタンダードの635本に比べ2.5倍の伸長となったが、翌62年には1449本と15%も落ち込み、決して先行きは明るいものではなかった。当時のギブソンの社長、テッド・マッカーティも相当頭を悩ましていたに違いない。


Chicago in 1962
「社長、ここはわが社も生産工程を見直し、デタッチャブルネックのギターを・・・」

「バカもん!わが社は伝統ある楽器製造業だぞ。ラジオ屋のネジ止めギターの真似などまかりならん。わが社の顧客はあんなものは欲しがらん。70年の伝統を汚す気か!」

「しかしVもかなり気合を入れたんですが、あの通りでしたし…。なんでもセールス部門からの報告では、ラジオ屋のジャズマスターのカスタムフィニッシュが西海岸の若者に人気だとか」

「色なんてものはすぐにでも採用できる。それに我々の顧客であるジャズプレイヤーもあの音色では満足しまい。だが若者の指示を受けることも大切だ。どうしても色ものが必要ならSGに採用するのは構わないだろう。しかし我々の膝元である自動車産業からヒントを得るとはな。敵ながら大したアイデアだ」

「はい、早速デュポンの担当者を呼んで検討します」

「うむ、問題は本質的なニューモデルだ。モダニスティックの売りものは材とデザインだけだったし、SGもハードウェアには大きな進化がない。我々は職人の集まりだ。いかにカラーリングをしようとも仕上げはラッカーにこだわろう。顧客がラジオ屋のPUのようにブライトな音を望むなら、その音をノイズのないハムバッキング構造で提供するべきだ。もっと重要なことはネジ止めには出せない楽器本来の音色が欲しいところだ…そうだ、逆に前から暖めていたネックスルーボディを世に送り出してみたらどうだろうか」

「売れてるラジオ屋のギターとは全く逆じゃないですか。そんなものが…」

「こんなときこそ発想の転換が必要だ。当社の持つ伝統的な技術に裏打ちされたものが」

「社長、でも先日もそう言ってリンバウッドを結構仕入れたじゃないですか」

「うるさい!『朝令暮改は君子のたしなみ』この変わり身の早さが経営者には大切なんだ。しかしカスタムカラーを採用すると画期的なネックスルーボディ構造がわかりにくくなるなあ」

「折角のメイプルトップをゴールドに塗ってしまったレスポールでの苦い経験もありますしね。」

「それも禁句だ!ところで今どきの若者の興味の対象はいったい何かね」

「そうですねえ、音楽の他にはファッションとかクルマとか…」

「そうか!ではいっそのことデザインもクルマ屋に任せてみたらどうだろう。せっかく塗料の件を検討するなら、デトロイトに行ってデュポンの担当者から腕利きのデザイナーを紹介してもらってくれ。ニューモデルには若者の心をとらえるデザインが必要だ。クルマも最近は夢のない小型車にシフトしてきている。きっと新たな分野で腕を奮いたいと思っているデザイナーはいるはずだ。伝統に裏付けられた革新的な技術とデザイン、それにわが社の将来をかけようじゃないか」

<以上は話の流れをわかりやすくするためのフィクションです>


Raymond H. Dietrich
こんなやり取りがあったかどうかはわからないが、ギブソンとしてはソリッドボディギター市場での復権をかけ、レイ・デートリッヒなるデザイナーにニューモデルのデザインを任せることにした。レイは32年から38年までクライスラーに在籍していたコーチビルダーで、その以前にはデューセンバーグというクルマのデザインを手がけたとテッド・マッカーティは語っている。クライスラーを辞めたあとコンサルタントとして独立し、戦後はミシガン州のグランドラピッドでRay Dietrich Inc.を設立。60年にリタイアするまでタッカーやパッカード、フォードなど多くのモデルの開発にたずさわっていたアメリカの自動車史を語る上では極めて重要な人物である。ギブソンとしてはあくまでも伝統と革新性にこだわった人選だっただろう。Firebirdが開発された62年には、すでにリタイアした後であるが、どのような経緯でギターのデザインを請け負うことになったのか興味深い。

余談だがデューセンバーグは1929年から1937年までの間に、僅か380台しか生産されなかったハンドメイドの超高級車で、禁酒法の時代、マフィアのゴッドファーザーたちの愛用車として知られ、映画などでも目にする機会が多い。アメリカ人にとっては、古きよき時代の代名詞ともいえるクルマで、現在でも超高額で取引されており、レプリカまで製造されている(<http://www.duesenbergmotors.com/>)。このようないわくつきの超高級車であるから、無意味なくらいデカく思い。おまけに装飾部品が満載されている。まともに走りを楽しむことはできないとすらいわれていた。同じデザイナーにより生まれてきたFirebird(特にXU)にどこかしら共通するポイントがあると感じるのもうなずける。


ニューモデル
50年代のドリームカーを生み出してきたレイがデザインしたニューモデルは画期的なものだった。テッド・マッカーティの言葉によると、「レイは渦巻やらなにやら派手な決してやろうとしなかった。彼のスケッチはシンプルで古典的な美しさを持っていた」と言うことだが、トレブルカッタウェイと右手のひじが当たる部分が大きく張り出した非対称のボディは優雅で滑らかな曲線でおおわれ、それに伴いヘッドストックも非対称。4インチ幅のネックスルーボディの部分も両サイドの部分より一段持ち上げられ、その特徴をより強調していた。これならカスタムカラーを採用してもその構造がひと目でわかる。さらにヘッドからボディエンドまで同一の材で構成されるこの工法は、通常のネックジョイント部における複雑な加工や接着不良といったトラブルを回避する事ができ、ヒール部が小さくなる事でハイ・ポジションが弾きやすいというメリットをもたらした。

同様にヘッドストックも中央部が高くなるように削り込まれ、アジャスト・カバーまでが統一のデザイン。ブリッジからペグポストまで弦がストレートに張られるデザインながら、ペグもヘッド裏にノブがあるバンジョー・スタイルのものを採用したことで、正面からノブが見えず、独特のヘッド形状も十分に生かされ、全体として非対称ながら微妙なバランスを演出していた。

接着強度を増すためV字型の接着面でジョイントされたオールマホガニー製のボディ(もちろん単板)はウイングと呼ばれ、外側にいくに従ってテーパーがつき、さらにボディの裏側の体にフィットする部分が浅く削られているなど弾きやすさの面での工夫も随所に見られた。

ギブソンの木工技術をフルに導入したニューモデル。デザイナーと職人との火花を散らすようなやり取りが目に浮かぶようだ。


ハードウェア
音質や演奏性を支えるハードウェアもまた力の入ったものだった。ピックアップには新開発のPU-720(ニッケル)とPU-740(ゴールド)が搭載された。これらはポールピースの変わりにアルニコ製バーマグネットを配置した樹脂製のボビンを横に二つ並べたWコイルのハムバッキング構造となっていた。外見的に似ているエピフォンのPUやスタンダードサイズのいわゆるラージハムバッカーとも異なる独自のデザインで、コスト的にもPUの中でも一番原価構成比の高いマグネットを二つ使用している高価なものであった。音の魔術師ウォルターフラーの手による新たなPUはミニハムバッカーと名付けられ、高域特性に優れたブライトなサウンドは他のギブソン製PUとは明らかに異なった独自のキャラクターを持っていた。そしてSGにも採用されたバイブローラ(ショート、ロング)の採用。この辺はフェンダーの特性を十分に分析した上で、市場でのシェアを獲得しようとするギブソンのねらいが反映されている。また前述のバンジョー・スタイルのペグも形状がバンジョーのものに近いだけで、実はギヤ比を含めてFirebird専用に新たに型起こししたもの。ヘッドからエンドピンまでの長いマホガニー材、新開発PU、バイブローラ、新デザインのペグ、レイに支払われるそれなりのデザイン料など、コストを度外視したかのようなニューモデルのプロトタイプが完成したのは62年の暮れから63年初頭にかけてのことだった。(右の画像はプロトタイプといわれている1本)


Firebird
鳥が大きく羽を広げているかのようなボディ、鳥のくちばしの様なヘッドストック。その雄大なイメージからニューモデルには「Firebird」という名称が与えられた。アメリカ国民は成功の象徴としてアメリカンイーグルを尊重する風習があるが、ギブソンの復活をたくしたニューモデルにこれほど適した名前はなかったのだろう。ベースバージョンの「Thunderbird」というネーミングには50年代に大ヒットしたフォードのThunderbirdの影響も見逃せない。ちなみにGMの傘下になったポンティアックから新車Firebirdが発売されたのは67年のことだが、レイやギブソンFirebirdの影響があったのかどうかは知るよしもない。


サウンド
63年春Firebird発表。実際に出荷されたのはその年の10月といわれている。事実63年のシップメントリストを見ると434本しか出荷されていない。そのトーンはPUからも想像できるように他のギブソンギターとは一線を画していた。ネックスルーボディがもたらすはずの豊かな倍音も、薄いボディとトレブリーで中低域が少ないPUのキャラクターに押され気味で、なおかつフェンダーのトワンギーなサウンドとも異なっていた。さらにブライトさに輪をかけたのは重く大きなペグの影響だった。これは音質的な影響もさることながら、オリジナルのストラップピンの位置ではヘッドが下がってしまい、演奏性の面でも好ましくない結果を招いていた。

スペック
オリジナルFirebirdには4つのモデルが用意された。1PUでドットマーカーフィンガーボード、ネックバインディングのないFirebird I、2PUでドットマーカーフィンガーボード、ネックバインディングつきのFirebird V、さらにディッシュマーカーが施されたFirebird X、3PUにブロック(スクエア)インレイ、ゴールドパーツのFirebird Zの各モデルは、レスポールジュニア、スペシャル、スタンダード、カスタムにほぼ相当するレンジ分けであった。全てのモデルにバイブローラが付属していたが、IとVは平たいアーム付のショートバイブローラとテイルピースブリッジの組合せ、XとZにはプラスチックのノブ付のロングバイブローラとチューンOマチックの組合せである。Iだけにはテイルピースブリッジ(TPBR8513)のモデルも存在した。


マイナーチェンジ
オリジナルモデルは発売されていた2年の間にいくつかの小変更を受けた。まず発売時にはついていなかった赤い鳥のトレードマークがつけられるようになった。これは3プライピックガードのトグルスイッチの隣にホットスタンプで入れられた。また2プライだったネック(ボディエンドまで貫通しているが)が9プライになった。これはネックを幅の異なるマホガニーの5プライとし、それぞれの材の間に1mmの極薄いウォルナットの付き板を挟むという凝った構造で、全部で9プライとなる。主にネック強度を増す目的と木材の調達のしやすさのために行われたものである。トラスロッドの仕込み溝をあらかじめ刻んで置けるというメリットも考えられるが、実際それが活用されているかは不明。この二つの変更は63年中に行われ、ごく初期のモデルを見分けるポイントとなる。またネックの9プライ化と前後してネックの太さが若干細いものが登場し、65年にはほとんどのモデルがスリムなネックとなった。


シッピングデータ
このようにギブソンが満を持して発売したFirebirdだったが、残念ながらその売上げは期待通りとはならなかった。発売の翌年、仕様と出荷が安定したの64年の売上げはSG全モデルの7419本に対して2434本だった。不振の原因は発売当時の$189〜$445(ケースなし)という高価格に加えて、64年には3〜5%の値上げがあったためともいわれているが、やはりモダニクティックギターほどではないにしろ、十分過ぎるほど革新的なデザインに顧客の支持が得られなかったことが最大の原因だろう。


ノンリバースFirebird
そこでギブソンは65年に価格を抑えるためのモデルチェンジを行う。安くすれば売れると考えたのだろうか。この変更は生産効率を改善する目的でコンベンショナルなセットネック工法を用い、ボディはフラットで違和感の少ないベースカッタウェイの張り出したフォルム、フェンダーと同じ配列のクルーソンペグを配したヘッドストックの採用などによるものですが、もうひとつ同時期に行われたSGのピックガードマウントPUの採用と同じ手法が取られていることも見逃せない。ボディのルーティングを共通にすることでさらに生産効率を高めることができた。これがいわゆるノンリバースFirebirdといわれるモデルだが、実際に発売にされたのは65年も暮れになってからといわれる。

リバースモデルと同じく4つのモデルを持つノンリバースFirebirdはハードウェアがわずかに異なるだけで、ドットマーカー付でバインディングのないの指板を含めボディ&ネックは基本的に全てのモデルに共通だった。よって全モデルに3PU用のルーティングが施され、不要なそのルーティングはピックガードによって覆われていたのだ。

ローコストのP-90が2個のFirebird I、同じく3個のFirebird V、ミニハムバッカーが2個のFirebird X、同じく3個のゴールドパーツのFirebird Zといった具合で、ボディの相違点はわずかにテイルピースブリッジとチューンOブリッジの穴のみ、Tを2PUにすることによってコントロールの穴の数も一緒という念の入れようだった。バイブローラ装着モデルについてはリバースと同様だが、バイブローラなしのIは見たことがない。おそらく全モデル標準装備だったと思われる。


トランジションモデル
1965年は偶然にもトランジションモデルの当たり年だったのだろうか。CBSによる買収に伴ってフェンダーの各モデルにいわゆるトラロゴに代表されるトランジションモデルが登場していたが、Firebirdもノンリバースモデルへの変更直前の65年製のものには様々なトランジションモデルを見ることができる。一番ポピュラーなものは65年のレフティヘッドVで、ボディは64年仕様のVでありながら、ヘッドだけがフェンダーと同じ一弦側の長いレフティヘッドで、段付き加工やバンジョーペグなどの特徴はそのままといったもので製造本数も多い。また同じくボディは64年仕様のIでヘッドもありながら、ヘッドの表面はノンリバースモデルと同じフラットなタイプでにもかかわらずリバースモデルと同じ6弦側の長いタイプ(クルーソンペグ)など、65年にはこうして説明するにも厄介なモデルが複数存在する。

極めつけはリバースモデルの最終型といわれるもので、リバースボディのVにP-90を2個搭載し、クルーソンペグ付きのヘッドを採用したモデルだ。ヘッドはノンリバースタイプのフラットな仕様なのにペグが1弦側(つまりリバース)についており、ネックには本来あるべきバインディングが付いていまい。おそらく実は前述のTのボディをルーティングし直し、2PUとすることでノンリバースTのパイロットモデルとしたものと思われる。このモデルは今まで3本しか確認されていないレアなモデルであるが、このモデルに限って言えばまさしくリバースとノンリバースの過渡期にあたる仕様で、ネックスルーボディ構造と軽いクルーソンペグ、P-90により、Firebird本来のボディの鳴りを生かしたファットな音がする。ちょうどSGスペシャルのファットなトーンを思い起こしていただくといいかもしれないが、ボディの形からかそれよりは若干トレブリーでもある。


パテントの問題
上記の様にわずか2年でフルモデルチェンジを施されたFirebirdだが、その背景にはフェンダーからのクレームがあったともいわれている。非対称のボディシェイプ、一列のペグ構成が酷似するためといわれているが、実際にはすでにフェンダーが取得していたオフセット・コンター・ボディのパテントにリバースFirebirdのボディシェイプが抵触しているという訴えであった。当時フェンダーの社長であったドン・ランドールがギブソンのもとに弁護士を派遣し、両者の間で数日間にわたり話合いの場がもたれたが、訴訟までにはいたらぬうちにフェンダーがCBSに買収され、うやむやになったともいわれている。それを意識してのことならノンリバースモデルにバックコンターを施すこともないだろうし(実際ノンリバースにもしっかりコンターがある)、よりフェンダーライクなデザインであるノンリバースボディ&ネックを採用するはずはない。やはりセールスの不振とコストの問題が何よりも大きかったことがわかる。


マイナーチェンジとFirebird]U
ノンリバースモデルはサーフミュージックのミュージシャンにも受け入れられ、販売台数を延ばしました。66年にはスライドスイッチからトグルスイッチへの小変更を受け、それと同時期に12弦モデルであるFirebird]Uが発売になった。これはノンリバースのボディにギブソンのコンベンショナルなヘッドスタイルを持つ12弦用ネックを組み合わせたものだが、これにも前年65年にフェンダーから発売されたエレクトリック]Uの影響が垣間見られる。Firebird]Uにはさすがにバイブローラの搭載はなく、代わりにES-1275と同じ鉄板を加工したテイルピースがネジ留めされていた。
また68年ごろにはノンリバースモデルのPUにも構造上に大きな変更があった。ポールピースの代わりにボビンの中心に差し込まれていた2個のマグネットを軟鉄製に変更し、一枚の板状のマグネットをボビンの中央に縦に配置、ボビンを90度傾け中央のマグネットから着磁させるというこれまた画期的な方法で、これはコストの低減にも役立った。ちょうどビル・ローレンスのPUと同様の構造で外観上の変更はないが、よりシングルコイル寄りのサウンドとなり、ギブソンはよりトレブリーなトーンを追求していたことがわかる。


カスタムカラー
ギブソンは63年にFirebirdを発売した際、フェンダーの14種のカスタムフィニッシュに対してサンバーストの他に10種類のカスタムカラーをオプションとして用意した。しかし発売当初手に入れることができたのは、白、黒、ゴールド、チェリーレッドだけだったといわれている。63年から69年まで用意された10種のカラーはいずれも59年から61年にかけて作られたオールズモビルやキャデラックなどのクルマに塗られた色で、この点はフェンダーに一致してあり、実際の色も一部を除いて名前が異なるだけの同じ色だった。現在でもノンリバースモデルを含め鮮やかなフィニッシュを施されたFirebirdのイメージが強いのだが、実際には楽器店の店主が在庫品の売れ残りのを嫌がり、顧客にカスタムカラーのインフォメーションをしなかったことが多く、カスタムカラーの生産台数は限られていた。


エピローグ
Firebird ]Uの発売後は仕様も安定し、継続して生産されたノンリバースモデルであるが、セールスの方は決して好ましくなく、66年の出荷数は]Uを含め2735本。64年の2434本とほぼ変わらなかった。テッド・マッカーティが社長の座を退いたのもこの頃である。さらに翌年の67年の出荷数がその3分の1に落ち込んでいるところから、もはやモデルの運命は誰が見ても明らかだった。68年に271本、69年83本という出荷台数はモデル終焉とはいえ悲しくなるような数字である。一方ギブソン本体は空前のギターブームにささえられ、生産量は飛躍的に増加していた。設備を大幅に拡張したにもかかわらず、バックオーダーをかかえ、生産性の向上が計られた。また68年にオリジナルシェイプのレスポールが再生産を決定する。それが69年には年間5000本を越える人気機種となり、ギブソンの新たな主力商品が確立した陰で、ギブソンは販売台数の落ちてきたFirebirdの生産を終了させた。発売期間6年、総出荷数は9019本を数えた。

アメリカがもっとも輝いていた60年代。クルマ、ファッション、音楽が強力な個性を主張していたあの時代の空気と調和しながら、天才的デザイナーの手によってこの世に生を受けたFirebird。セールスこそ不振だったものの、その後、新たなスタンダードとなるエレクトリックギターは一本も生み出されていない。

時は1969年、ロック元年とも言えるこの年に静かにミュージックシーンから姿を消したFirebirdは、ホテルカリフォルニアのソムリエが名門カラマズーの醸造所から仕入れた最後のスピリッツの1本だったのかも知れない。

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