飛びぬけた個性は重要か?

 

 おそらく、音楽のジャンル分けをなくそうと考えている人は、「個性的な人間を目指している」とか、「個性的な人間が必要とされているんだ」とか思っているのではないだろうか。実際のところ、そんなに飛びぬけた個性が必要なのか私には疑問に思えてならない。最近、「個性」という言葉が重要視されており、個性を大事にとか、個性を伸ばしてあげようとか言われているが、個性ってそういうものなのだろうか。個性とは、それぞれが持っているものであり、自然に育っていくものだと私は考えるのだが、それは私の勘違いなのだろうか。確かに、考えてみると個性をつぶす教育というのは存在するかもしれないが、それもひとつの個性を育てる要因だと私は思う。つまり、すべてを経験して、社会に出たときに自分の中に残ったものが、最終的な自分の個性なのではないかと考えるわけだ。小さな子供の場合、どの子を見たって個性的に見える。大人から見れば、子供はみんな個性的なのだ。だから、自分の子供は、特別な個性を持った天才じゃないかと勘違いして、期待をかけすぎてはだめだと私は考えるのである。

 無論、個性的な人間の重要性はわかる。でも、そんなに個性的な人間ばかりしかいない国があったら、それこそ問題なのではないだろうか。そのような国では、お互いに妥協点が見出せないから、それこそ争いの絶えない国になるのではないかと私は考える。無論、それが戦争とかテロとかそういうことではなく、たとえば、個性的な人間というのは、それだけ自分というものが確立されているのだから、あまり他人とは意見が合わないものではないかと考えるからだ。つまり、個人主義が進んでしまい、他人との係わり合いが薄くなるから、個人レベルでの争いの絶えない国になるのではなかろうか。無論、その闘争心が、進化の一つの要因なのかもしれないが、私はそんな国に住むことははごめんこうむる。

 それと、「個性」を強調する人に限って、「凡庸」なことは、だめな人間のように考えているけど、それが大きな間違いだということを知らなければならない。なぜなら、「凡庸」という言葉の意味は、あくまで一般的な人間だということであって、決して悪いことではないのだから。むしろ、「天才」などと呼ばれた人間は、概して、人間的には誉められた人間ではないことが多い。むしろ、「天才」は、生きている間は煙たがられる例が多いではないか。それに、そんなに「天才」ばかりいるはずないではないか。むしろ、無理に「個性的」に見せようとせずに「凡庸」でいられることのほうが、人間的には大事だと私は考える。

 それに、「天才」ではなくても、才能のある人間はいくらでもいると思う。たとえば、私が影響を受けたジョン・ウィンダムという作家が良い例だ。ジョン・ウィンダムといえば、映画「光る目」の原作である「呪われた村」や、「トリフィド時代」などが有名な作家だが、彼の作品を読むとわかると思うが、とくに彼の作品には飛びぬけて斬新な点はない。だからといって、その作品が単なる焼き直しの作品かというと、決してそんなことはないのだ。特に私の好きな作品の「トリフィド時代」を読んでみると、今まであったモチーフをつなぎ合わせて、自分なりの主張と解釈をつけた作品であり、決して斬新なアイデアがあるわけではない。それでも、これだけ面白い作品を書けるのは、それだけ自分というものがわかっているからだと私は考える。

 つまり、どういうことかというと、また別の例を挙げて話してみると、ある有名な映画監督の話にこんなことがある。「まず、はじめに習ったことは、自分がどうしてもやりたいシーンがあったとしたら、そのシーンは全部なくせということだ。」というのである。自分のやりたいシーンをやらないで、何のための表現者なのかと思う人もいるとは思うが、私はこの話を聞いて、なるほどと納得する部分が多い。ここが、メジャーとマイナーの差をつけている要因だと考えさせられる内容ではないだろうか。どうしてかというと、誰にでもあると思うが、たとえば、何気なしにした発言で、友人から笑いをとってたときに、こんなこといったら面白かろうととっさに考えたネタを、いざ言ってみると、逆に周りをひかせてしまったということは多いと思う。それはなぜかというと、その「面白い」が、「独り善がりの面白さ」しか持ち合わせていないからなのだ。つまり、考えすぎて失敗したわけだ。つまり、「自分がどうしてもやりたいシーン」ってのは、これと同じことなのだ。考えすぎるという言葉は、「過ぎる」という言葉のせいで、たくさん考えているように勘違いしている人がいるが、それはまったく別で、考えすぎるってことは、思慮が浅いってことでしかない。なぜかというと、「考えすぎる」ってことは「自分の中で盛り上がってるだけ」だから、他人には受けないのだ。つまり、他人を視野においてないから、他人を笑わせようと思ったネタでも、自分しかそのネタの面白さがわからないわけだ。たくさんの考えから成り立ってる作品というものは、自分以外の人間が面白いのかということも考えている作品である。むろん、他人が何を望んでいるのかなんてことは、誰にだって正確にはわかりはしない。だが、「考えすぎず」に「考える」ことを心がけていれば、それは作品を作っていく過程で、ある程度わかっていくものなのではないだろうか。むろん、そこで才能の差がでるのだろうが。

 天才の場合、凡人と何が違うのかというと、自分のやりたいことだけを考えて生きていけるってことなのかもしれない。ほかにも、本能的に、つまり意識しなくても、みんなが何を求めているのかわかっている人間も、一種の天才であろう。無論、世間に評価されずとも自分を貫き通し、死後に絶大なる評価を受けた天才もいる。だが、そのような人間が、そうざらにいるわけないのだし、それほど飛びぬけた個性を、若者に求める時代性は問題があると考える。無論、最初に個性のある人間を求めるていると言った人の指す個性は、誰にでも多少持ち合わせている個性を生かせているかということなのだろうが、結構、そこを勘違いして、飛びぬけた個性を持たない人間は、社会から必要とされてないと勘違いしてしまっている人がたくさんいる現実を作ってしまった。それは、若者だけでなく、無駄に「個性」を売りにしている企業にも言えるのではないだろうか。

 つまり、「個性的な人間になりたい」ということばかり考えていると、結果として自分のことしか考えない、独り善がりの人間性しか持ち合わせない人間になってしまう危険性が大きいと考えるわけだ。実際、私の周りにもそういう人がたくさんいると思うし、私だってもしかしたらそうかもしれない。でも、どこかそういう一面をもっていなければ、誰もが多少なりとも持っている自分なりの個性を生かすことはできないのかもしれない。つまり、「個性」を作ろうとはせず、自然にまかせることが一番理想なのではないだろうか。