ヴァーチャル復刻と
ネットワーク・インスタレーション時代の芸術作品について
[1997]
マーク・アメリカ


The Work of Art In The Age of Virtual Republishing and Network Installation
[1997]
Mark Amerika

http://www.ljudmila.org/nettime/zkp4/46.htm


 93年、自分が前衛ポップ宣言を書いていた頃まで遡ってみる。この宣言で僕は現在のデジタル・アーティストたちが二つの流れを引き受けている事実を認めていた。一つは20世紀初頭の前衛芸術と文芸思潮。もう一つは世紀後半に大きく開花したエレクトロ・ポップカルチャー。そんなことを考えていてつい質問が口をついた。「情報スーパーハイウェイを前にしたら未来派の連中は何を始めるだろう?」
 問いかけと言っても言葉の上だけだった。未来派にとどまらず、ダダイストやおそらくはシチュアシオニストにしても新しいメディアからもたらされる表現形式を相手にすぐ実験を始めるだろうと分かっていた。エンジニアが良く使う言い回しを借りるなら、連中は《限界に挑む》はずだった。テクノロジーのレベルで。そして概念をめぐる形で。今では問いかけが別な形になっている。「世界中を駆け巡るコンピューターネットワークシステムが到来し、多国籍でマスメディアでドリームワークスな複合体が育ちつつあるこの現代社会、美学と政治と経済の現実がめまぐるしく変化していく様子を前にして今のアーティストはどう反応するだろう?」って。
 文化には王道というのがあって、どうしても呑みこまれそうになっていく.。でもその誘惑に強く逆らっていくオルタナティヴなサイトを構築していけば答えが出てくるかもしれない。でもそうするとまた別な問いかけが生まれてくる。「内容が政治的に正しいのかどうか別にして、オンラインで何かを”語る”プロジェクトを推し進めていった場合、こういった全ては新しいメディア産業から生み出されてくる商品を展開していく支えになるのだろうか」。今の状況で(オンライン上の)物語を生み出そうとしている誰かに聞いてみるには良い質問である。HTCのようなオンライン型プロジェクトが行っている物語生成は、政治的戦略として真剣に前衛ポップの反美学を実践しようとしている。システムから弾き出されそうな破壊力をもう一度組みこんでいく。役に立つとか立たないといったばかり重視しているシステムに逆らって、パッケージには詰めこめない文化の塊(統合物)を生み出そうとしていく。でもういった「倒錯した語り」を生み出していくとき、後期資本主義の様々な発展段階で現れてきたテクノロジー装置を生み出してきたこの投資&消費システムを同時に支えないわけにはいかないと思う。
 芸術はかつての芸術らしさを失っていく。日々の生活を議論のような形で批評していく(古い修辞学がそうだったような)最初期の役割を引き受けていくことになる。「脱芸術」と「日常への回帰」。アートはこういった動きを通じて企業や大学、さらに政府の内側に居場所を見つけだす。日々の作業に統合されていく。
 ヴァーチャル復刻、ネット上に作品を展示できるこの時代の芸術作品とは何だろう。ネットワーク上で文化はリゾーム状の流れを見せていく。この中で目は見るというより触れる役割を担っていく。意味を生み出すプロセスの真っ最中に放りこまれた目は「感じる」という触覚の役割に没頭している。サイバースペースというシュミレートされた世界、人はサイボーグ的な語り手あるいはアバターとして自分自身を作り出し、その責任を負っていかなくてはならないのだけれど、こういったある種電子メディア上の出来事として現れてきているのがこの意味生成プロセスだったりする。そしてそれはモザイク状になった社会や文化の一部分に組みこまれたいというより大きな欲望の一部でもある。
 まだそれでも問いかけが残されている。現在、文化を通じて何かを生み出していこうとするこの欲望を書きこんでいるソースコードは何だろう。
1997年4月5日、土曜日
マーク・アメリカ [マルチメディア・アーティスト]