Early Waits

1949年12月7日。カリフォルニア州で教師をしていたウェイツ夫婦に赤ん坊が生まれた。
2人の女の子に続く、ウェイツ家待望の長男。夫婦はこの子にトーマス・アラン・ウェイツと名付けた。
引っ越しが多く、活字好きの中流家庭に育ったトーマスは自然に旅や読書が好きになった。そして音楽。
教会での歌、父のギターに合わせて歌う母の声、そしてラジオから流れるマーティ・ロビンズのエルパソ、ボビー・ベアのデトロイト・シティ、父親とのメキシコ旅行で聴いたメキシコの伝統音楽……。
時に、頭の中で鳴りやまない音に怯えるほどにトーマスは沢山の音を感じていた。
中でもトーマスが魅了されたのは、他の子供たち同様、チャック・ベリーをはじめとするロックンロールだった。

そんな幸せな幼少時代であったが、トーマスが10歳の時、両親が離婚する。彼は母親と2人の姉についてメキシコとの国境の街・サンディエゴの外れに移り住んだ。
もっとも元来旅好きのトーマスは、何時間もかけて両親の元を行き来し、14歳の頃には初めての車を手に入れた。車での旅、そしてジャック・ケルアック等ビートニクの詩集。いつしかトーマスは路上に自由を見出していた。
気ままに疾走し、ラジオからはロック、ブルーズ、それにジャズ。ハンドルさえ切れば広大なアメリカはトーマスに未知の世界を与えてくれた。
もっともトーマスは旅ばかりしていたわけではない。親の都合で転向ばかりではあったが、他のティーン同様小学校にはきっちり通い、スペイン語や国語など得意教科も持っていた。
そして、60年代が訪れる。自分がどうなりたいのか葛藤している姿もまた、他のティーンと同じであった。

トーマスにとって、1962年に転機が訪れる。ジェイムズ・ブラウンのステージを観たのだ。

魔法にかかったか、ドラッグでもやったような気分だった。

そして同じ時期、トーマスはボブ・ディランのステージも体験する。

大学の体育館で観たボブ・ディランの演奏が、俺をその気にさせたのさ

こうして音楽にのめり込み、それまで以上にブルーズ、R&B、フォークなど沢山のアーティストを体験していく一方、トーマスは自らもピアノのレッスンを受け、ギターは独学で習得。そして高校の仲間と初めてバンドを組み、ジェイムズ・ブラウンやモータウン・サウンドなどコピーした。
ただ、他の若者と違ったのは60年代に巻き起こったブリティッシュ・インベンションとは距離を置いていたということだった。
無論、トーマスもビートルズやローリングストーンズなど好きなものは沢山あった。
だが一方で、一層昔の音楽-それはつまり離れた父親の時代の音楽-に、より愛着を感じていたのも事実だった。懐深く人生を歌うベッシー・スミスのようなジャズ・シンガー、それにメキシコ好きな父が愛聴していたメキシコの移動楽団……。

たぶん俺は、ひとむかし前のミュージシャンの中に、父親の姿を見てたんだろう。ルイ・アームストロング、ビング・クロスビー、ナット・キング・コール、ハウリン・ウルフ……

トーマスが目指したのは髪を長くすることでもサイケデリックに愛を語ることでもなく、ジャズの専門誌を購読し、オールド・ソングズに身を浸し、自分の個性を探求することだった。それも自分が好きになれる個性を。
そのためには流行だけではなく沢山の音に触れる必要があった。様々なタイプの曲、歌手に浸されたトムの音楽センスは様々なエッセンスを吸収していった。中でも色濃く染みついたのはトーマス自身大好きだったソウルやR&B、それにメキシコ音楽や古いジャズシンガーたちの声だった。

大人への憧れ、旅や音楽に夢中なトーマスにとって、学校は抜け出すべき場所だった。
進学するにつれ成績もパッとせず、学ぶ意義も見出せない中、トーマスは16歳で高校を中退し、カリフォルニア州のピザ屋で仕事につく。
最初は皿を洗い、トイレを掃除し、少し出世してからはマルゲリータを焼く日々。
それは生きた勉強だった。掃除やピザ焼きは単調な作業だっただろう。だが、だからこそ、トーマスには周囲を見回す余裕ができた。
店の客は何千人もの陸海空軍の兵士だった。ヴェトナム戦争さなかの当時、緊張感をほぐすために訪れる彼らは、酒をあおり、愚痴、そして時に卑猥な言葉を吐き出すことで日々のストレスを発散していた。
タブーなどお構いなし。ニュース越しでは分からない兵士たちの生々しい言葉やそこから浮き出る社会。それはまさしくトーマスが憧れていた大人の世界の一端だった。

俺はカウンターに座った客の会話を書き留めることにした。それを全部つなぎ合わせると、曲のアイディアみたいなものが浮かび上がってきた。

勿論、トーマスを惹きつけたのは店の客の会話だけではない。
ロード・バックリーにレニー・ブルースといったコメディアン。彼らの話芸にもタブーはなかった。そしてビートニクたちの書く言葉は、トーマスの旅情をますます大きくした。

仕事の合間にピアノやギターで作曲し、店のジュークボックスで流れるレイ・チャールズを聴く日々。トーマスには、徐々に自らの個性が出来上がっていた。そしてその個性を試してみたいという欲求は、ごく自然に湧き上がったのだった。
60年代が終わる頃、トーマスはピザ屋を辞め、旅に出た。

21歳の時、やっと旅に出られたんだ。最高だったよ。家から遠く離れて、夜のアメリカを飛ばした。どうかしてたんだろう。無謀にも程がある。

トーマスがまず訪れたのはフォークミュージックが盛んな街ロサンゼルスだった。
70年代初頭、フォークブームは下火になっていたものの、ここには以前、盛況だったライヴハウス・トルバドールがあった。
そこでは毎晩のように野心を持った無名の若者たちがステージに立っていた。
次なるスターを発掘すべくスカウトマンたちも見物に行くその場所は、いわば公開オーディションのような様相を呈していた。
客を熱狂させることができれば、夢を実現することもできる。そう思い集った中には古くはフィル・オクス、それに70年代の波を引き寄せたイーグルスやリンダ・ロンシュタットなどがいた。

ロスに着いたトーマスはクラブ・ヘリティッジのドアマンという職にありついた。
慣れない仕事に参りながらも、彼はチャンスを掴むべくトルバドールへと足を運んだ。

朝の10時に店の前に行って、日が暮れるまでじっと待ってるんだ。
その日の夜、演奏できるのは行列の前から4〜5人ぐらい。
いざステージに上がっても、4曲しかやらせてもらえない。その15分間ですべてが決まるんだ。怖くてしょうがなかった。


そして71年の夏のある日。トーマスの努力が実を結ぶ。
その日、トルバドールを訪れた男、ハーブ・コーエンがトーマスのステージに興味を示したのだ。
フランク・ザッパやキャプテン・ビーフハート、新人のリンダ・ロンシュタットなどをマネジメントしていた彼は、ジャズを主体として流行とは離れていたことに不安も感じながらも、結局、トーマスと契約を交わすのだった。

月給300ドルでハーヴ・コーエンと契約したトーマスは、71年7月から12月までの間、ロサンゼルスで生まれて初めてスタジオに入り、自作曲のデモテープを録った(この録音は、20年以上経ってから"Early Years vol.1"、"Early Years vol2"としてリリースされることになる)
アコースティック・ギター主体でフォーキーなムードが色濃いこの時期の録音は、たどたどしさを感じさせるものの、既に一流のメロディーと明確なキャラクターが出来上がっていることを示すには十分なものだった。
コーエンは考えた末、このキャラクターを当時、新興レーベルだったアサイラムに売り込むことにした。
ローラ・ニーロを育て敏腕マネージャーとして業界での名声を確立しつつあったデヴィッド・ゲフィンが設立したそのレーベルは"金がすべてのエンターテイメント業界とは無縁の聖域 アサイラム(避難所)"というモットーを掲げた、伝えたいメッセージを持つ個性派アーティストの拠り所だった。
トーマスの存在を知ったゲフィンもまたコーエンと同じく、そのステージに魅了された。コーエンとゲフィンの数ヶ月に渡る交渉の末、トーマスはアサイラムとレコーディング契約を結ぶ。
トーマスが23歳の時のこと。それはアーティスト"トム・ウェイツ"が誕生した瞬間だった。

(ソロ作品へ)


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