奥山田のしだれ桜

写真コンクール


交通アクセス


しだれ桜の歌





1997年から毎年桜の開花時はしだれ桜保存会による桜祭りが開催されます。

期間中奥山田のしだれ桜写真コンクールが行われます。

1997年から2009年までに写真コンクールで入選した作品をギャラリーのページ
で展示します。





 岡崎市の国道248号線を豊田市方向に走り、仁木の信号交差点で右折して2つ目の信号で右折すれば、北斗台団地に入る。団地内の川沿いに走れば奥山田町(地図)に入る。「奥山田町」といっても小さな村で、町内に店も信号機も無く、山に囲まれた町内を1周できる通称「奥山田環状線」は隣町の北斗台団地住民のジョギングコースとなっている。この奥山田環状線のどこからでも見られるのが 「奥山田の枝垂桜」である。この桜について投稿して下さったのは元岡崎市立竜海中学校校長の大原和之さんです。


奥山田の枝垂桜

 奥山田のほぼ中央、南寄りの小高い丘に、持統帝御手植えと伝えられる枝垂桜の古木がある。
 幹は胸高廻り 2.4m、樹高 15m、枝張り東西 15m、南北 17mの巨木で岡崎市指定の天然記念物の名木である。(昭和38年5月8日指定) この木は彼岸桜の一種で、染井吉野より10日位早く3月20日頃咲きはじめ1週間程で満開となる。七八分咲きまでは朝が美しく、散りはじめてからは夕景がすばらしい。
落花盛んの頃から、持統桜は淡墨色を帯びてきて、日没後しばらく幽玄の美が極まり、神秘的でさえある。

 文政7年岡崎の俳人鶴田卓池は、花の頃ひと月余りを花園山麓に寓居して「弥生日記」を著している。その冒頭に、
” 花ものいはねど、よく人をとどむ。そのとどめらるる花をこそたづねめと・・・後略”
と書かれているが、卓池の見た持統桜は、160年余経た平成の世に、昔と変わらぬ花を咲かせているのである。 

                               大原和之






村積山




歌詞に「村積山」が入る歌 ♪玉音哀歌♪

 奥山田の枝垂桜から200メートル北東に村積山自然遊歩道登り口がある。頂上には村積神社と展望台があり休日には子供連れのハイカーやアマチュア無線家が頂上まで登る。七合目には駐車場とトイレがある。児童文学「ごんぎつね」の作者新美南吉が安城高等女学校の教員をしていた昭和14年26才の時、村積山に遠足に来ている。村積山に付いても大原さんにお願いしました。

霊峰村積山

 岡崎と豊田をつなぐ葵大橋から仰ぐ村積山は、三河富士の名に恥じない美しい姿を見せてくれる。標高262メートルと、さほど高くはないが、大宝2年(702年)持統上皇が三河へ行啓の砌、全山満開の桜を御覧になり「花園山」と命名された、と伝えられている。奥山田町の郷社村積神社は、村積山頂に木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと)、大巳貴命(おおみたかのみこと)の三柱を祀る歴史の古い由緒ある神社である。
 推古天皇の御代、物部守屋の次男真福(まさち)が三河へ来て真福寺を建立し、守護神として村積大明神を祀ったという。その後三河守護職細川氏の崇敬と保護を受け細川氏の定紋「九曜星」が現在も神紋として使われている。寛永13年大給真次候によって大給歴代の守護神として再興され、朱塗りの宮鳥居も建立された。以後大給松平の手厚い庇護のもとに明治維新を迎え、藩主に願い出て奥山田の氏神として祀ることを許された。

” 雨に明けてそよりともせず山桜 ”   鶴田卓池          

大原和之




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